僕にはなりたいものがある。それなりにその方向へ進んでいるつもりである。でも、その先に在るものが夢かと問われた時に首を傾げながら、こう言うに違いない。

「たぶん、違う。」と。

自分がなりたいものになれなかったときの為に予防線を張っているわけではない。叶わないのは、努力と才能のどちらかが、もしくは、両方が足りなかっただけのことである。僕は、人が一生の目標とすべきものをこの時点で決定するのに違和感を覚えてしまうのだ。それを夢と呼んでよいものだろうか疑問である。その目標みたいなものを夢と呼んでしまうことは乱暴な気がする。

人によってその目標は違うのであり、また、年齢とともに変化していくものだろう。野球選手を夢見る少年もいれば、マイホーム購入を念願するサラリーマンもいるだろう。十人十色の目指すものを一括りに「夢」とやはり、強引である。

別にその夢みたいなものの尊卑を問いたいのではない。人が願う希望に優劣をつけるなど、おこがましいにもほどがある。そして、人が希望を持つことは誰にも止められない。

一言に「夢」と呼んでしまう弊害がある。それは実現可能性の有無やその大小で、その夢の価値が量られるからだ。実現可能性の低い「大きい夢」を見ることがよしとされている。そして、精神衛生がすこぶる良い人は言う。

“夢があるなら、それに向かって努力しなきゃ!”


別に人は夢を実現するためだけに生きているのではないし、夢に向かって努力しない人も僕は人間臭くて、好きだ。そして、叶わない人がほとんどの中で、叶わなかった世界の中で生きていくことの方が重要だろう?