サッカー、サッカーって。

僕はサッカー好きなので適当に流せるけれど。嫌いな人にゃ、つらい時期ですね。

サムライブルーっていう意味のわかんない名称が、盲目的に何かを託すその対象をある思想に結び付けられたくないという、忌避行為を象徴しているように思えてなりません。半ば無意識的に何かを託したり、解釈という意味付けは確かに魅力的です。別にその正否を問いたいのではなくて、その欲望への忠実さは、容易にある種の力となりうると思うのです。
誤解を防ぐために強調しますが、欲望への安易さを言っているのであって、欲望の向きのことを言っているのではありません。そんなことはどうでもいいことです。

サムいことを言ってるとは思うのでできるだけ抽象的に書いてみましたが、それでも気分を害した方がいらっしゃるかもしれません。でも、それは単に僕の筆力不足です、たぶん。


まぁ、みんなでペンギンのことでも考えようよってことです。
深夜のファミレスにて
友人と待ち合わせるまでの時間潰しに本でも読もうと、深夜営業をやっているファミレスに入った。

国道沿いの深夜のファミレスには一人で来る客なんているはずもなく、先客たちは友人や連れ合いと賑やかに騒いでいる。一人一人の声を聞き取れぬほどに騒がしく、返って騒々しいとは感じなかった。

注文を済ませ、読みかけの小説に夢中になってすぐだったと思う。横のテーブルからの声につい聞き入ってしまった。前後の脈絡もはっきり判らず、その言葉にどのような意味がこめられていたのかは知る由もないが、なぜかその言葉は耳の奥底にのっぺりと張り付いたようだった。その訳も釈然としないし、自分がそのように感じたことがあるわけでもない。また、どんな状況や環境を体験すればそのような心境に至るのか、後ほど思いを巡らせたが浅はかで安易な邪推の域を越えなかった。しかしながら、その言葉を溜息混じりに話す彼には、心中察するに余りある悲壮感が漂っていた。


“この世の中で、友達の嫁ほど恐ろしいものはないよ。”


それは断崖絶壁の深淵が見えないような闇を覗いてしまった男が友人に語るといった種類の言葉だった。

珈琲と煙草を喫みすぎて、気分が悪い。こんな時に酒を飲んでも気分だけ悪くなって酔うこともままならない。

理系の人やその道に長けている人からなんかすれば笑い種かもしれないけれど、今の僕にとって、量子力学の不確定性原理(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86 )が何かを堪える理由になっている。それは占いが好きな人と根本的には何も変わることはないのだろうと思う。ぼくにとって、音楽は同じようなものだ。どんなジャンルの音楽に対しても、自分の好みでしか聞かない。好きになるものもあれば、同じジャンルなのに嫌いな音楽だってある。音楽に詳しくないからこそ、そこに理想を抱けるのだ。詳しく知ってしまっては、何かを託すこともできず、悩みは細分化されるばかりだ。

この年末は、冠婚葬祭が多く、忙しく思えた。昔から、遺族なんかが死んだものに対して、自分が納得したいがためにその死因や死期を自分の都合のいい解釈をするのが嫌でたまらなかった。同時期に親族に子供ができれば生まれ変わりだと言ったり、夭折すれば凝縮された人生を歩んだと評したりすることが。

不確定性原理に何かを委ねたくなってしまう僕は、そんな解釈の方法を同意できなくとも理解はできるようになった。

そうしないと、運命やなんかに押し流されることをやり過ごせないのだ。いろんなことに自分が納得できる理由なんかをつけたがるのは僕も、変わらないのだ。僕はそのことに意味がないと、説明してくれる何かを求めているだけなのだ。

たぶん、こんな時に人は酒をあおるのだろう。

電車で携帯音を聞くのには慣れた、というよりむしろ、諦めがつく。電車の方がより公共的な場所であるから。本来なら、そこで静けさを求めるべきかもしれないけれど、そういう人はどこにでもいるだろうから気にしてはらきりがない。

帰宅途中に本屋に立ち寄った。入るなり、店内放送の有線の音量に少し辟易とする。畳み掛けるように、携帯着信音と携帯通話中の大声(その内容は、息子が遠くにいる日本酒好きの両親に贈り物をするという心温まる話ではあったのだけれど)が。五分もしないうちに店を出た。

本屋を見れば、その町の文化レベルがわかるという。僕がすぐに退店したのは、その耳障りさが一番の原因ではなかった。その本屋が、僕の地元の本屋だったからである。


地元に向かう電車で雑誌のつり革広告を見ていると、“クリスマスモード”なる表記が。なんだそりゃ。
もういくつ寝ると、お正月モードですね。その前にはもちろん、大晦日モードが控えています。

ちょっと変わった人がいる。テレビに話しかけたり、急に笑い出したりするのだ。回りの人からもあの人は変わってるから相手にするな、とも言われた。一度話しかけられたことがあったのだが、彼は僕を覗き込みながらこう言った。
「ゴマは植物じゃなくて、動物だよな?」
僕は驚いて、とっさに返事することもできずに
「へ?」と裏返った声を出すことしかできなかった。

その後もちょくちょく、首を傾げる様なことを言われたが、別に害を加えられるわけでもないので
「そうですねぇ。」と曖昧に言葉を濁して返事しておいた。
煙草を吸っていると、横にやってきて彼も煙草を呑み始めた。ちょうどテレビでは昼のニュースをやっていた。すると、彼が口を開いた。要約すると、その国も赤字財政でどこにそんな金を使う余裕があるのだ、ああいった物事には必ず裏があるのだ、ということだった。


タイトルの英文はサリンジャーの“ライ麦畑でつかまえて”の一文である。世の中のすべてがインチキに見える主人公が、この台詞を口にする。
「僕は唖(おし)でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。」そして、なおも主人公はこう続ける。

「そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。」


もしかして。


それにしても、一日中考えたのだけれど、ゴマは植物じゃなくて動物であるという命題が何の暗喩なのかは分からなかった。



J.D.サリンジャー, 野崎 孝
ライ麦畑でつかまえて

付き合いでする程度だけれど、読んだマンガで、ハタと膝を打つような表現があって、あのガラスの向こうの銀玉の動きに釘付けになることがある。

この世における森羅万象は、球体とその円運動によって集約される。ミクロにおいて。マクロにおいて。カタチは球。ウゴキは円。

そのミクロとマクロがパチンコ台のなかにある。そしてそれを操作するのは(何と!)人間なのだ。

なんて考えるとパチンコ好きな人が哲学的に思えてくる。



岡野 玲子
ファンシーダンス 1 (1)

そんなことはどうでも良いのですが。


電車のつり革の位置はすごく微妙な位置についている。立っていて掴まる分にはいいのだけれど、取り付けてある高さはちょうど顔の高さか、その少し上ぐらいだろう。


こんなつまらないことに悩む僕がつまらないのかもしれないけれど、あのつり革を離すタイミングがすごく難しい。降りる駅に着いて僕が無意識につり革を放すと、前に座っていた人も降りる時なんかに、その人の額に直撃させてしまったりする。


自分が降りなくても前の人が降りようとして、どこうとしてつり革を離すとその人の鼻にコツンと当たったりする。


どこかの電鉄会社みたいに上にがちゃんとあがるタイプだと助かるんだけどなぁ。

まんだらけに行った。
店員がハガレンのコスプレしてた。店内にはプリキュアのテーマソングが流れている。

わかった僕に猛打賞。

大学時代の友人の結婚式に行ってきた。


すごく当たり前のこと。結婚すれば、家族が増えるのだ。

自分の結婚相手以外にも、血が繋がっていないとは言え、家族が増えるのだ。新たな父、母、祖母や祖父。血の繋がっていない血縁関係のような親族が増えるのだ。


以前、読んだ本で、血縁関係の一面を鋭く突きつけられるような表現があった。


血の繋がった他人。不幸のみを共有する。

この表現は、血縁関係者のある一面でしかないけれど、そのように感じることが多いのも事実だ。おそらく共有するものが多すぎて、もしくはその関係において生まれるはずだという幸福への過信によって、不幸を強く感じてしまうのだろう。面倒なことをも共有することはなかなかできることではないのに、その当たり前のことにさえ気づかなくなってしまう血のつながりに対する依存でもあるのだろう。


結婚に対して、もしくは血縁関係に対して悲観的過ぎるという反論を承知したうえでも、以上のことを踏まえた上で、僕は彼女に結婚しようとはなかなか言えなそうである。何かを共有する人間を増やすと結婚は、人として生まれそして死んでいくこと、に次ぐような大きな出来事であるようだ。

大学時代の友人の結婚式に行ってきた。


すごく当たり前のこと。結婚すれば、家族が増えるのだ。

自分の結婚相手以外にも、血が繋がっていないとは言え、家族が増えるのだ。新たな父、母、祖母や祖父。血の繋がっていない血縁関係のような親族が増えるのだ。


以前、読んだ本で、血縁関係の一面を鋭く突きつけられるような表現があった。


血の繋がった他人。不幸のみを共有する。

この表現は、血縁関係者のある一面でしかないけれど、そのように感じることが多いのも事実だ。おそらく共有するものが多すぎて、もしくはその関係において生まれるはずだという幸福への過信によって、不幸を強く感じてしまうのだろう。面倒なことをも共有することはなかなかできることではないのに、その当たり前のことにさえ気づかなくなってしまう血のつながりに対する依存でもあるのだろう。


結婚に対して、もしくは血縁関係に対して悲観的過ぎるという反論を承知したうえでも、以上のことを踏まえた上で、僕は彼女に結婚しようとはなかなか言えなそうである。何かを共有する人間を増やすと結婚は、人として生まれそして死んでいくこと、に次ぐような大きな出来事であるようだ。