1983年全米2位(Hall & Oates の "Maneater"Men At Work の "Down Under" によって1位獲得を阻まれた。なお、ブラックチャート及びアダルトコンテンポラリーチャートでは1位となり、ミリオンセラー)、全英8位、スペインで1位、アイルランド、ノルウェー、フィンランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドでトップ10入り(日本ではオールジャパンポップ20で2位)。この曲は、Michael Jackson が夜中に目を覚ましたら頭の中に出来上がっていて、そのままテープレコーダーに吹き込んだものだということです(彼は、その前に、Quincy Jones から、一人の女子を二人の男子が取り合う歌を書くように言われていた)。そして、これは Paul McCartney とデュエットするしかない、と思ったかどうかは存じませんが(彼らは前の年に "Say Say Say" を共作しレコーディングしていた)、アリゾナ州ツーソンの牧場に滞在していた Paul のもとを訪れて曲を完成させ、次いでロサンゼルスのスタジオでレコーディングし(MJ によると、この曲のレコーディングは、彼にとって最も楽しかったものの一つだということ。なお、Steve Porcaro、Jeff Porcaro、Steve Lukather、David Paich もこの曲のレコーディングに参加している)、アルバム "Thriller" からの先行シングルとしてリリースされ、ミリオンセラーに輝く大ヒットとなりました。もっとも、当時のレビューを見ると、この曲は、批評家たちから、"Thriller" のウィークポイントの一つだとしてかなり酷評されているのですが(私が初めてこの曲を聴いたときの正直な感想も、しょーもない曲だなというもので、私の周囲の反応も概ね同様だった)、Michael 側としては、Paul McCartney とのデュエットということでラジオ局が挙ってオンエアしてくれることが見込まれた(当時の二人の位置づけは、Paul が横綱だとすると、マイコーはまだ関脇くらいであった(あくまで私の印象です))ことと、最初から "Billie Jean" や "Beat It" のような「エッジの効いた」ナンバーをシングルにした場合は、アルバムのセールスに繋がらない(つまり、購買層が黒人に偏ってしまう)ことが懸念されたことから、この曲を第一弾シングルに選んだようです(このマーケティング戦略の結果がどうであったかについては説明の要を見ない)。それにしても、"Thriller" には、この曲に加えて、Freddie Mercury とのデュエットによる "State Of Shock" や、YMO の "Behind The Mask" のカバーも収録される予定だったわけで、もし実現していたらものすごいことになっていたのに、と思うにつけ、実現しなかったことが残念でなりません。

 

 

撮影:Linda McCartney(Michael が着ているジャンパーは、幻に終わった Wings の1980年のジャパンツアーのもの)

 

こちらは、Michael のソロによるデモ。

 

 

続いてこちら。

 

 

1983年全米1位(この曲が6週間トップの座に居座ったため、Hall & Oates の "Say It Isn't So" はその下で4週間2位にとどまった。"The Girl Is Mine" のリベンジを果たしたことになる)、全英2位。さらに、フランス、イタリア、スペイン、スウェーデン、ノルウェー、カナダで1位、アイルランド、オランダ、スイス、オーストリア、オーストラリア、ニュージーランドでトップ10入り(日本ではオールジャパンポップ20で1位)したワールドワイドな大ヒットで、もちろんアメリカではミリオンセラーを記録しました。Michael は、1980年のクリスマスの日に Paul に電話をかけて、二人でヒット曲を作ろうよ、と持ち掛け(John Lennon を失った悲しみの中にいた Paul を元気づけようとしたのかもしれない)、翌年休暇を兼ねて渡英すると、Paul の家に滞在してこの曲を共作し(各自がそれぞれ自分の歌うパートを作った模様)、George Martin(この曲のプロデューサー)のスタジオでレコーディングしたのですが、Michael は、このコラボの経験で大いに自信をつけたそうです(その理由は、ミスに対して口やかましい Quincy Jones がいなかったから)。この曲は Paul の "Tug Of War" に次ぐアルバム("Pipes Of Peace")に収録されることとなったため、すぐには発表されず、"The Girl Is Mine" と順序が入れ替わることとなりました(当時は、この2曲は同時にレコーディングされたのだと思っていた)。なお、"The Girl Is Mine" とは異なり、こちらはすぐに気に入ったことはいうまでもありません(笑)。

 

 

さらに、Michael を大々的にフィーチャーした別テイク。

 

 

この二人の「なれそめ」(?)となるエピソードについても触れておくと、Paul は、Michael のために "Girlfriend" という曲を書いたものの、なぜかそれを Wings のアルバム "London Town"(1978年発表)に収録してしまいます(まあ、この人らしいといえば、この人らしいのだが)。それがこちら。

 

 

翌年、Michael は、この曲をカバーしてアルバム "Off The Wall" に収録しました(Quincy Jones のサジェスチョンによるそうだが、どうやら彼は、この曲がもともとはマイコーのために書かれたものであることは知らなかったらしい)。

 

 

1980年全英41位。"The Girl Is Mine" に通じるものがあるように思いますが、正直言って、私はこの曲があまり好きではなく、"London Town" で Wings のオリジナルを聴いたときも、"Off The Wall" で MJ のカバーバージョンを聴いたときも、なんだかなぁ、というのが最初の感想でした。

 

さて、ご存じのとおり、Michael は、後に Beatles の楽曲の版権を購入することになるのですが、それが原因で二人の関係は疎遠なものとなってしまいます。しかし、それは元はといえば、Michael が 1981年に Paul の家に滞在した際("Say Say Say" を共作したとき)、Paul が、自分の保有する Buddy Holly 等の楽曲の版権のリストを「見せびらかした」ことに起因するもので(やっちまった!)、このエピもまた、Paul らしいものだと言わざるを得ません(苦笑)。