華族制度は日本国憲法の施行に伴い廃止されました。憲法14条2項は「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と明文で定めています。このことは、法の下の平等(14条1項)を謳った日本国憲法においては当然のことのように思われますが、1946年2月13日にGHQから日本政府に手交されたいわゆる「マッカーサー草案」においては、13条の1項で「法律上の平等」を定めた上で、その2項及び3項として次のような規定が置かれ、現存者の一代に限って華族の存続が容認されていました。

「爾今以後何人モ貴族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方ノ如何ナル政治的権力ヲモ有スルコト無カルベシ

 皇族ヲ除クノ外貴族ノ権利ハ現存ノ者ノ生存中ヲ限リ之ヲ廃止ス[以下省略]」

 

これを受けて同年4月17日に日本政府が発表した「憲法改正草案」では、13条2項として現行と同一の規定を置きつつ、補則を定めた97条に「この憲法施行の際現に華族その他の貴族の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来、華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」との経過規定を設けていました。

 

GHQとしては、天皇制度の存続が「憲法改正」における最大の眼目の一つであったのに対し、華族制度についてはさして重視しておらず、政治的権力を否定された名誉的な存在(しかも現存者一代限り)としてであればあえてこれを廃止することもないだろうと判断したものと思われます。ところが、当時の日本の政界においては、「天皇制廃止」を唱える共産党はもちろんのこと、自由党(吉田茂総裁)や進歩党(幣原喜重郎総裁)といった保守政党ですら華族制度の即時撤廃を求める意見が大勢を占め、同年7月31日、衆議院の帝国憲法改正案委員会の小委員会(委員長は芦田均)の第6回会合において、上記97条の経過規定は、どの政党からも異議が出ることなく削除され、8月24日、衆議院本会議においてもその修正(削除)のまま可決されて貴族院に送付されました。当時の政党人は、戦前の政党内閣時代に貴族院が抵抗勢力として立ちはだかったことに苦々しい思いを抱いており、その源泉である華族制度に対しては保守勢力ですら否定的であって、その廃止は左右を問わず政党の総意であったのです(もちろん、華族制度は民主主義と相いれないという理念的な建前もそこにはあったにしても)。

 

貴族院では、一部の議員から政府原案の復活を求める意見も出されたものの、最終的には10月6日に衆議院通過の原案通り可決され、ここに華族制度の即時廃止が確定することとなりました。なお、貴族院において華族制度の存続維持を唱えたのは主に勅撰議員と多額納税議員のような非華族議員であって、華族議員はむしろその廃止を唱える者が多かったとのことです(もっとも、声を上げなかった華族議員の中には存続を希望した者も少なくなかったのではないかと思われるが)。華族議員は特に敗戦後は世間から白眼視されるようになって肩身の狭い思いをしたり、そもそも華族であること自体に窮屈な思いを感じていたのに対し、非華族議員は華族制度に対する一定の敬意(あるいは素朴な憧憬の念?)を抱いていたようです。いずれにしても、華族制度に対しては、GHQは比較的温情的であったのに対し、むしろ日本側の方が厳しい眼を向けていたわけで、このような無用の長物が姿を消すことは歴史の必然だったといえます。

 

ところで、華族制度はいうまでもなく「皇室の藩屏」となるべく設けられたものですが、それはとりもなおさず「establishment」として国民の上に位置づけられるものでした。その際、とりわけ彼らに期待されたのは政治や軍事における指導者的役割ですが、その実態を見るとほとんど使い物にならなかった(華族制度に対してはその制定直後から既に「無為徒食の輩」との批判があったのであるが、結局その批判を免れることはできなかった)というのが正直な感想です。例えば、政治においては、内閣制度下で大臣(軍部大臣を除く)となった華族出身者(維新の功臣をはじめとして国家に対する「勲功」によって華族に列せられた者を除く)はわずかに次のとおりです(正直、大臣だから特別偉いとも思わないが、あくまで一つの指標として)。

 

公家華族(就任順。以下同じ):

三条実美(公爵・清華家・内閣総理大臣)-ただし、歴代には算入されない

西園寺公望(公爵・清華家・内閣総理大臣)

近衛文麿(公爵・摂家・内閣総理大臣)

 

武家華族:

蜂須賀茂韶(侯爵・元徳島藩主(徳川家斉の孫)・文部大臣)

堀田正養(子爵・元近江宮川藩主・逓信大臣)

岡部長職(子爵・元岸和田藩主・司法大臣)

前田利定(子爵・旧上野七日市藩主家・逓信・農商務各大臣)

有馬頼寧(伯爵・旧久留米藩主家・農林大臣)

酒井忠正(伯爵・旧姫路藩主家・農林大臣)

岡部長景(子爵・旧岸和田藩主家(長職の子)・文部大臣)

 

また、国家に対する「勲功」によって華族に列せられた勲功華族の二代目以降を見てもわずかに次の者が挙げられる程度です(ただし、牧野伸顕は父の「勲功」とは無関係に自らの「勲功」により華族に列せられたので、厳密にいうと「初代」であって「二代目」ではない)。

 

山県伊三郎(公爵・有朋の養嗣子・逓信大臣)

牧野伸顕(伯爵・大久保利通の子・文部・農商務・外務各大臣)

大木遠吉(伯爵・喬任の子・司法大臣)

藤村義朗(男爵・紫朗の子・逓信大臣)

井上匡四郎(子爵・毅の養嗣子・鉄道大臣)

中島久万吉(男爵・信行の子・商工大臣)

児玉秀雄(伯爵・源太郎の子・拓務・逓信・内務・国務・文部各大臣)

木戸幸一(侯爵・孝允の孫・文部・厚生・内務各大臣)

 

さらに、華族出身であるが爵位を持たなかった者として次の3名がいます(大谷は僧侶華族、石黒・岩村は勲功華族の二代目)。

 

大谷尊由(西本願寺宗主光瑞伯爵の弟・拓務大臣)

石黒忠篤(忠悳子爵の子(父の死後襲爵せず)・農林大臣)

岩村通世(通俊男爵の子(爵位は兄が継ぐ)・司法大臣)

 

こうして見ると、首相を除く大臣はそのほとんどが「伴食」で彼らは単なるお飾りでしかなかったことが明らかです。さらに西園寺にしても近衛にしても、首相としての評価は芳しくなく、下から数えた方が早いことは論を俟ちません。こうした点からしても、華族制度が廃止されたのも宜なるかな、といったところでしょう。

 

ちなみに、華族制度廃止後(すなわち日本国憲法施行後)に大臣又は国会の議長となった旧華族出身者は以下のとおり(このうち、田中・鍋島・西郷は廃止時点において爵位を保有していた。また、松平両名・亀井・前田両名は「当主」の弟又は甥で「世が世」であっても爵位を保有することはなかった)。

 

松平恒雄(旧子爵会津藩主家・容保の子・参議院議長)

松平勇雄(旧子爵会津藩主家・容保の孫・行政管理庁長官)

田中龍夫(元男爵・義一の子・総理府総務長官・通産・文部各大臣)

鍋島直紹(元子爵・旧肥前鹿島藩主家・科学技術庁長官)

西郷吉之助(元侯爵・隆盛の孫・法務大臣)

前田正男(旧男爵家・勇の子・科学技術庁長官)

伊江朝雄(旧男爵琉球伊江家・北海道沖縄開発庁長官)

細川護熙(旧侯爵熊本藩主家・内閣総理大臣)

亀井久興(旧伯爵津和野藩主家・国土庁長官)

前田武志(旧男爵家・勇の孫・国土交通大臣)

 

これを多いと見るか少ないと見るかは評価が分かれるところだと思いますが、現在ではいわゆる「世襲議員」によって新たな「establishment」が形成されていることの方こそ問われるべきでしょう(世襲議員についてはこれを擁護する向きもあるが、私見では弊害の方が多いと考える。だが、この点については本論から外れるのでこれ以上触れない)。