空はどこから/猫の長靴 -97ページ目

空はどこから/猫の長靴

日記は苦手だけど、何があって何を思ったのか、あんまり分からなくなるのもねぇ(´Д`)
だからちょっとだけ、記録を残します。


赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
オランダ屋敷に 雨が降る~♪

私は北海道の田園地帯で育ったが、曼珠沙華は見たことがなかった。
関西で畦道いっぱいに咲くこの花を見て、ああ、これか、と思った。
そしてこの歌を口ずさんだ。


20代後半から30代にかけて、私は昭和初期の歌を良く聴いていた。
もっとも、端唄や浪曲も聴いていたから、その延長線上にある。

端唄はいわば、明治時代の流行歌である。だから漱石の『吾が猫』にも「猫じゃ猫じゃ」が登場する。

大正時代なら、オペラかな
♪ベアトリねえちゃん まだネンネかい
鼻からちょうちんを出して♪
───日本語の訳も自由闊達である。


27日、川口市の温泉施設に『東京大衆歌謡楽団』を聴きに行った。
大広間のステージ、いわば宴会場でのゲスト出演である。


アコーディオン、コントラバス、ボーカルのトリオ。
この歌手(高島さん)が垂らした両手の拳を握り締め、声量のある真っ直ぐな声で昭和歌謡を歌う。
もはやCDでしか聴けないと思っていた、この東海林太郎ばりの歌い方、初めて生で聴いたときは感激した。

上述の『長崎物語』もこの日、聴けた。

♪赤い花なら曼珠沙華

いいね、実にいい。
日本語が綺麗だ。

知らない曲もけっこうあった。
そりゃそーだ、私はその時代を生きていない。私の記憶はたまたま耳にした懐メロと、何度もリプレイしたCD、カセットテープの中にしかない。

でもね

♪花摘む野辺に陽は落ちて~

♪ねむの並木を お馬の せなに ゆらゆらゆらと

ああ、この情緒!

そして
♪月がとっても青いから 遠回りして帰ろ~
あの鈴掛の 並木路は
憧れの小径よ
腕をやさしく組み合って
ふたりっきりで
さあ~ 帰ろ~♪

淡い慕情とキリリとした決意。
堪らなく好きである。


因みにこのステージでは、お客がステージに上がって演者の胸ポケットにお札を差していく。
差し易いように割り箸に千円札を挟んだりしている。
へえ~、大衆芸能のおひねりって、こうやるんだ~、と思った。
物販・握手券のアイドル業界とはシステムが違うなあ
←当たり前だ


今回は宴会場だったけど、次は大衆芸能のメッカ、浅草での演奏会が観たいな~
というより……行く!


さて、私が何故この『東京大衆歌謡楽団』を知ったのか……

今年の3月下旬、井の頭公園『海がつなぐ絆祭り』を見た後、夫婦でそぞろ歩いていたら、駅前での路上ライブで見かけた。


時代を超えて、ポコンと出現した「昭和の歌」
駅前広場のフェンスにもたれ、飽かずに聴いていた。
一曲終わる毎に、二人で盛大に拍手した。
ボーカルの高島さんは、その都度、律儀に深々とお辞儀をした。

演奏が終わってから近づいて、少し会話をした。
この人達が何者なのか、全く見当がつかなかった。

きっと演奏会に行きますね、と言ってから、4カ月も経ってしまった。

私はこの手の歌を聴くと、胸が湧き立つような懐かしさを感じる。
まだ生まれる前の歌である。
───ひょっとすると、前世でこの時代に青春期を過ごしたのかも知れない。

高島さん達トリオは、今、30才前後。私よりはるかに若い。
元々は世界の民族音楽を演奏していて、昭和歌謡に出会った。
ここに世界の音楽の全てが入っている、と感じたそうだ。
ひょっとすると、『坂の上の雲』の時代から昭和初期(軍部の台頭前)は、日本人が健全なコスモポリタンだった時代かも知れない
………安易な断定は出来ないけれど

或いは、彼らもまた、前世で当時の流行歌を歌っていたのかも知れない。
それを前世の私が聴いていたかも知れない。
だとしたら、これは仏教用語で謂うところの「他生の縁」である。


次に聴くとき───
もし、リクエストが出来るなら、高島さんの朗々とした声で、この曲を歌ってほしい。
私の心象風景
灰田勝彦の『森の小径』───


ほろほろ こぼれる 白い花を
うけて泣いていた 愛らしいあなたよ

憶えているかい 森の小径
僕もかなしくて 青い空仰いだ

なんにも言わずに いつか寄せた
ちいさな肩だった 白い花夢かよ
LuLu..Lu.LuLuLu....






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「自分は不遇な人間である」
───小市民はみんなそう思っている。

自分は理解されていない、チャンスを与えられていない、能力が発揮できていない……
愚痴って周りのせいにする。

私もまた不遇である
つまり、小市民である。


20代最後の頃、私は「不遇」だった。
現場に立ちたくて会社に入ったのに、事務職に回された。
「机の上に『林業』はない!」
毎日が不満でずっと転職を考えていた。

マイカー通勤、夕刻。
会社からまっすぐアパートに戻る気になれず、夜のバイパスを何時間も走りつづけた。
カーオーディオ(当時はカセットテープ)で何度も同じ曲をリフレインした。
──その後、不摂生がたたって腎臓病で入院する事となる。

その時、聞き続けた曲の一つ、
吉田拓郎の
『ふざけんなよ』


信じる何かが 見つかるまでは 走ってみたいのさ
若さが時には じれったいけれど クヨクヨしたくない
人それぞれが毎日を
精一杯に感じれば
街で踊り狂うのも
美しい想い出じゃないか!
………

正しい事だけ話してくれるな 息がつまりそう
月日が経てば誰だって
「人生」の文字にしがみつく
間違う事は 怖いけど
現在(いま)を止めれるものはない!

やさしさ売る奴 出しゃばるなよ
愛にうえた時 甘えるなよ
自分でこの道選んだら
手助け無用にしておくれ アッハハハハ~

流れる川に逆らう時でも
怒りを海に捨てる時でも
オイラ話せない
誰にも話さない
黙りこむ事を「卑怯」と呼ぶのかい~!
ふざけんなよ
ふざけんなよ
ふざけんなよ
ふざけんなよ
赤い血が 見えないか~♪




今、私は「黙り込む」ということについて考えている。

自分の言葉が伝わらない
どんなに言葉を選び、言葉を重ねても、
ドロドロとした胸の内は伝わらない
それ以前に、自分の想いが言葉で整理出来ていない

人間は「言葉」を発明した。
しかしそれは不完全なもの。
人間は言葉を使いこなせない「言語障害者」でもあるのだ。

言葉を無理に紡ごうとすると、童話のように、口からワラワラと毒虫が溢れ出してきそう───
そんな時は、黙り込むしかない。

▷▷▷▷▷

今週、気になるコが出ていたので『Deep ナイト』という地上波の深夜番組を観た。

本来は様々な筋の専門家が登場して「衝撃の事実!」とやらを披露する番組なのだが、何かプログラム上の事情があったのだろう。
いつもはWall Flowerで後ろに座っているだけの若い女性タレントがひな壇に並んだ。
題して「現役タレントの はしくれ達が暴露!早押し暴露No.1決定戦」
その暴露がエグい、
下着の色、初体験、付き合った男の性癖……公共の電波で流すようなネタじゃない。
受けたら胸の谷間におひねりを挟んでもらえ、枚数が多ければ、次回、ゲスト席に座らせてもらえる。

作り手がノっていないのが空気で分かった。企画が途絶えての穴埋めなのだろう。
MCの名倉さんに精気がない。
レベルの高い芸人ならば、こんな企画に出演するのは不本意だ。

そしてこの番組、大人の配慮はキチンとされていた。
すべて私生活の暴露、芸能界ネタはない。しゃべらせている大人たちには飛び火しない。

傷つくとすれば、注目されようと競い合って私生活を曝している女の子たちだけ(それを見て、その子に親しい感情を持っている人たちはどう思ったか)

「頑張る」方向を間違っている。
頑張るとは、頑として我を張る───自分を大切にすることなのだ。


さて、私のお気に入りの女のコはどうしたか?
最上段の端で、ニコニコと笑っていた。ついに一言も話さなかった。

私は以前、某バラエティで「人気タレント」が地方の演歌歌手を散々に侮辱するシーンを見た。
その後ろで終始笑顔を見せていた Wall Flowerの女の子にブログで語りかけた───
不快な時は不快な表情をしていいんだよ。芸能とは人間の感性に訴えるもの。どんな風に「人間らしいか」がその人のタレント性なんだ───

でも、不本意でもその場所で笑顔を作っていなければならないとしたら………
あとは「黙っている」という自己表現しかない。


TV界(芸能界)というのは、人間社会の闇部を、いとも無造作に曝してくれる。

傲慢な強者と、
おもねる弱者、あるいは黙り込む弱者。


でも、それはどの社会でも同じこと。TVほど露骨じゃないだけだ。
私は過去、立場の強いものに対して、黙り込む(あるいは静かなサボタージュ、影に回っての愚痴)を繰り返してきた。
その傾向は歳とともに高まっている。

そして、後輩が私の発する言葉に黙り込む、ということが増えてきた。

沈黙が意味するものとは何か?
諦め、反抗、軽蔑、そして自己嫌悪………

自分の気持ちに余裕のなくなった時ほど、己に向けられた「沈黙」の意味を感じ取らなくては、と反省する。

「黙り込む」というのは、言葉で分かり合えない人間にとって、究極の言語表現なのかも知れない。





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いろは歌───
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん

その意訳→
花の色は匂うがごとく美しいが
直に儚く散ってしまう
幸せもひとときの夢、時は無情に流れて行く
悩み苦しむ人生を、今日も越えていこう
浅はかな夢に踊らず、己を失うこともなく──



「色が匂う」という表現に惚れ惚れする。

「色」という文字は、玄奘(西遊記の三蔵法師)が翻訳した般若心経にも表れる。
曰わく「色即是空」
大唐帝国の昔、この言葉は言霊(ことだま)となり、日本に伝わり「いろは歌」になる。
そして日本の風土に育まれ「もののあはれ」という感性となる。


明治の初め、福沢諭吉は数々の洋語を二字熟語に意訳した。
例えば「Free」→自らを以て由とする→「自由」というように。
近代化の基礎となる西洋思想は、こうして言霊となり、日本に浸透した。


戦後、敗戦とともに、日本は極端にアメリカナイズされていく。
もはや意訳もされずに、音を写しただけのカタカナ言葉が横行する。
今や、日本語で表現するよりも、カタカナで表記した方が「ニュアンス」が伝わる(←こんな風に)
そんな時代になってしまった。

カタカナは表音文字。発音をなぞっただけの記号である。
漢字のように、文字の一つ一つに情緒は込められていない。

単純化された記号だから、託される想いも浅くなる。


日本でよく目にするカタカナ言葉───
「セクシー」と「アダルト」


“Sexy”,“Adult”
この言葉を育んだ国では、深い情緒があったはず。

Sexy=男らしさ、女らしさ
男は勇敢で潔く
女は繊細さと母性の強さを合わせ持つ

そして
Adult=人生経験で培われた知識と落ち着き

ところが、カタカナで記号化されると、途端に豊かさを失う

セクシー=アダルト=エロ

“Eroticism”もまた、本来、ギリシャ語を起源とする深い概念を含んだ言葉である。

これらのカタカナ言葉は、日本では言霊になれなかった───

今の日本では、セクシーもアダルトもエロも「即物的に性欲をそそる刺激物」として、てんこ盛りで売られている。


この記事、上記の3つの言葉で検索して見つける人がいることだろう。
きっと、何だこれ!と怒るだろうね。


ただ私には、お手軽に商品化されているカタカナ言葉が、何とも気の毒に思えるのである。






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