survival
本能を理性で制御するのは
並大抵の精神力でなせる事ではないでしょう。
しかし本能をなくすということは
意味が無いことです。
人間の受精卵が人間らしさの始まりです。
意思に関係なく人間の発現性を秘めた過程をたどります。
似てるからといってチンパンジーの受精卵では
人間らしさを発現しません。鳥には鳥らしさ、
豚には豚らしさ、虫には虫らしさがあります。
それぞれ歴史もあります。
生物の「らしさ」は始まりは違う容姿だったとしても
長い歴史で獲得してきた証でもあります。
恐竜が地球で繁殖した以前にも
生物の歴史はありましたし
獲得してきたらしさが生き残りを分けたとも
いえるわけで、隕石が衝突したといわれる後でも
恐竜が獲得してきた「らしさ」は鳥となって
続いていると思います。
歴史を切り取って観ては本質が見えません。
むしろ何の意味も持たないし
なにより学び取ることができません。
「本能」の使い方の部分に「らしさ」という言葉を
使ってますが
人間は本能で環境や社会の変化を嫌がります。
確かな理由は分かりませんが
社会が変わると常識が変わるので
今まで他の人より優位を味わってた人たちが(既得権益者や権力者)
そのうまみを無くしてしまうからかも知れませんし
自分たちの社会を敵から守るために戦ったかもしれません。
環境が変わるといった例では
洪水で田畑を流されてしまったかもしれません。
その負の影響が本能に刻まれているのかもしれません。
それも歴史ですが
本が社会に普及して以来
特に市民に共有されている国は
石版でも紙でも
思想が生まれています。
知見が重宝されて
権力者が何もかも思い通りにしようと思わないことが
重要ですが
権力者の支配欲が強くて自分以外の考えを認めないとき
本は燃やされ、知識者たちは迫害を受けます。
20世紀もそうでしたしそれ以前もそうでした。
新たな思想が生まれていない21世紀もそうかもしれません。
(まだ途中ですが)
文明が発達しているから
それでいいではないかと思われる人たちもいるかもしれません。
しかし文明を発達さs出てきたのは
知見です。戦争ではありません。
戦争に知見を利用することはあっても
戦争から発想を得た思想は
文明を発達させるほど精錬されていないのかもしれません。
西洋もルネッサンス以前は
キリスト教会の支配力が強すぎて
人々の自由な発想は異端児として
制裁されてきました。
しかし聖書が一般市民にも読めるようになって
しばらくして教会の支配を弱めた革命が起きて
新しい聖書の捉え方が生まれました。
本ができて一般市民が手に入るようになったからです。
それからルネッサンスは
イスラム社会が保持してた
ギリシア時代の石版が発端となって
西洋社会で廃れた思想が復活しました。
そしてギリシア時代に培った力学の思想こそが
今の文明の発展を支えているのです。
確かに武力でも革命が起きましたが
文明までは発達しませんでした
知見をもって革命したことが
文明を発達ささて来たのです。
政権に反対して倒しても
新たな知見を持っていなければ
うまみを味わう人が変わっただけで
文明、社会は発展しません。
そして社会を維持しょうと思想を統制するのも
権力を持った人類の本能だし
新たな知見をもって社会を良くしようとするのも
本を読んだ人類の本能です。
本を読んで知見を生かす人間らしさは
社会を維持しようとする人間らしさの後から手に入れた
らしさですが
後から手に入れた本能をうまく利用した社会だけが
時代を謳歌できます。
わたしはこの社会の現象に名前をつけたいと思います。
「本能による打ち消し合い」
というのはいかがでしょう。
立場の違いの本能で
お互いの立場を否定して
どちらも社会に良いこととして本能的に相手を非難するからです。
これはひとつの提案であって
もっと良い言い方があれば
そちらの言い方でもいいのですが。。。
並大抵の精神力でなせる事ではないでしょう。
しかし本能をなくすということは
意味が無いことです。
人間の受精卵が人間らしさの始まりです。
意思に関係なく人間の発現性を秘めた過程をたどります。
似てるからといってチンパンジーの受精卵では
人間らしさを発現しません。鳥には鳥らしさ、
豚には豚らしさ、虫には虫らしさがあります。
それぞれ歴史もあります。
生物の「らしさ」は始まりは違う容姿だったとしても
長い歴史で獲得してきた証でもあります。
恐竜が地球で繁殖した以前にも
生物の歴史はありましたし
獲得してきたらしさが生き残りを分けたとも
いえるわけで、隕石が衝突したといわれる後でも
恐竜が獲得してきた「らしさ」は鳥となって
続いていると思います。
歴史を切り取って観ては本質が見えません。
むしろ何の意味も持たないし
なにより学び取ることができません。
「本能」の使い方の部分に「らしさ」という言葉を
使ってますが
人間は本能で環境や社会の変化を嫌がります。
確かな理由は分かりませんが
社会が変わると常識が変わるので
今まで他の人より優位を味わってた人たちが(既得権益者や権力者)
そのうまみを無くしてしまうからかも知れませんし
自分たちの社会を敵から守るために戦ったかもしれません。
環境が変わるといった例では
洪水で田畑を流されてしまったかもしれません。
その負の影響が本能に刻まれているのかもしれません。
それも歴史ですが
本が社会に普及して以来
特に市民に共有されている国は
石版でも紙でも
思想が生まれています。
知見が重宝されて
権力者が何もかも思い通りにしようと思わないことが
重要ですが
権力者の支配欲が強くて自分以外の考えを認めないとき
本は燃やされ、知識者たちは迫害を受けます。
20世紀もそうでしたしそれ以前もそうでした。
新たな思想が生まれていない21世紀もそうかもしれません。
(まだ途中ですが)
文明が発達しているから
それでいいではないかと思われる人たちもいるかもしれません。
しかし文明を発達さs出てきたのは
知見です。戦争ではありません。
戦争に知見を利用することはあっても
戦争から発想を得た思想は
文明を発達させるほど精錬されていないのかもしれません。
西洋もルネッサンス以前は
キリスト教会の支配力が強すぎて
人々の自由な発想は異端児として
制裁されてきました。
しかし聖書が一般市民にも読めるようになって
しばらくして教会の支配を弱めた革命が起きて
新しい聖書の捉え方が生まれました。
本ができて一般市民が手に入るようになったからです。
それからルネッサンスは
イスラム社会が保持してた
ギリシア時代の石版が発端となって
西洋社会で廃れた思想が復活しました。
そしてギリシア時代に培った力学の思想こそが
今の文明の発展を支えているのです。
確かに武力でも革命が起きましたが
文明までは発達しませんでした
知見をもって革命したことが
文明を発達ささて来たのです。
政権に反対して倒しても
新たな知見を持っていなければ
うまみを味わう人が変わっただけで
文明、社会は発展しません。
そして社会を維持しょうと思想を統制するのも
権力を持った人類の本能だし
新たな知見をもって社会を良くしようとするのも
本を読んだ人類の本能です。
本を読んで知見を生かす人間らしさは
社会を維持しようとする人間らしさの後から手に入れた
らしさですが
後から手に入れた本能をうまく利用した社会だけが
時代を謳歌できます。
わたしはこの社会の現象に名前をつけたいと思います。
「本能による打ち消し合い」
というのはいかがでしょう。
立場の違いの本能で
お互いの立場を否定して
どちらも社会に良いこととして本能的に相手を非難するからです。
これはひとつの提案であって
もっと良い言い方があれば
そちらの言い方でもいいのですが。。。
knowledge
今回のタイトルは知見です。
本を読むと知識が増え
読む前と読んだ後では
世界を見る目が変わることが
あると思いますが、
それは知識によって
世界を見るフィルターを
手に入れたこととなります。
そしてそれがその人にとっての常識となります。
よく人は非常識な人を受け入れませんが
自分の常識で手に負えない範疇などは
専門家に任せたがります。
しかし専門性が特化すればするほど
その人は非常識と捉えられがちです
それはその人の脳のシステムが専門的だからです。
生物は専門性が特化するほど
何かを失わずに入られません。
言い方を変えれば他と違うものになるには対価を
払わなければなりません。
海ではなく陸で暮らすには
もうえら呼吸はできなかったり
進化で言えば
単細胞が多細胞になると
切っただけで死にますし
神経を手に入れれば
痛がります。
他の人が平気でも専門性の高い人の中には
受け入れられないものもありますし
他の人と違ったことをするので
常識を共有したがる人たちの中で
受け入れられなかったりします。
しかし仲間としては受け入れられなくても
社会だと専門性は
強力な事態解決の可能性を開きます。
それは多くの人は人と同じ事をし
同じ考え方をするのに
専門家は独自の知見を積み重ね
他の人と違う考え方をし
それが打開策を生むのです。
これまで解決しなかった問題が
これまで通りに考えて
解決するはずがありません。
専門家は多くの専門性を身に着けていて
その中には法則などがありますが
よく昔の偉人を法則見つけた人として
本などに載ってますが
正確には問いを思いついた人です。
何を疑問に思うかで
その先の成果が変わります。
誰もりんごを落ちるのを気にしなかったし
常識だと思っていたことを
疑問にしたのです。
whatと「理由」を求めるだけでなく
how「どのように」と考えたと思います。
今まで社会の人は
自分の仕事以外は
職業の専門家に任せていましたが
考え方が違う人も排除してきました。
それでは誰も知見を積み重ねて
これまで解決できなかった社会問題を
解決するといったことができないです。
問いを思いつくのは誰でもできます。
そこから専門性を磨いても
遅くは無いことを
昔の偉人は証明してきました。
ただしお勧めできないのは
試練が半端ないからです。
おそらく21世紀になっても・・・・
(偏見かもしれませんが)
本を読むと知識が増え
読む前と読んだ後では
世界を見る目が変わることが
あると思いますが、
それは知識によって
世界を見るフィルターを
手に入れたこととなります。
そしてそれがその人にとっての常識となります。
よく人は非常識な人を受け入れませんが
自分の常識で手に負えない範疇などは
専門家に任せたがります。
しかし専門性が特化すればするほど
その人は非常識と捉えられがちです
それはその人の脳のシステムが専門的だからです。
生物は専門性が特化するほど
何かを失わずに入られません。
言い方を変えれば他と違うものになるには対価を
払わなければなりません。
海ではなく陸で暮らすには
もうえら呼吸はできなかったり
進化で言えば
単細胞が多細胞になると
切っただけで死にますし
神経を手に入れれば
痛がります。
他の人が平気でも専門性の高い人の中には
受け入れられないものもありますし
他の人と違ったことをするので
常識を共有したがる人たちの中で
受け入れられなかったりします。
しかし仲間としては受け入れられなくても
社会だと専門性は
強力な事態解決の可能性を開きます。
それは多くの人は人と同じ事をし
同じ考え方をするのに
専門家は独自の知見を積み重ね
他の人と違う考え方をし
それが打開策を生むのです。
これまで解決しなかった問題が
これまで通りに考えて
解決するはずがありません。
専門家は多くの専門性を身に着けていて
その中には法則などがありますが
よく昔の偉人を法則見つけた人として
本などに載ってますが
正確には問いを思いついた人です。
何を疑問に思うかで
その先の成果が変わります。
誰もりんごを落ちるのを気にしなかったし
常識だと思っていたことを
疑問にしたのです。
whatと「理由」を求めるだけでなく
how「どのように」と考えたと思います。
今まで社会の人は
自分の仕事以外は
職業の専門家に任せていましたが
考え方が違う人も排除してきました。
それでは誰も知見を積み重ねて
これまで解決できなかった社会問題を
解決するといったことができないです。
問いを思いつくのは誰でもできます。
そこから専門性を磨いても
遅くは無いことを
昔の偉人は証明してきました。
ただしお勧めできないのは
試練が半端ないからです。
おそらく21世紀になっても・・・・
(偏見かもしれませんが)
feedback thinking
回路にフィードバックというものがありますが
それは入力から出力する際に
もう一度入力に戻して
出力を調整する効果があるものをいいます。
この考え方は「考え方自体」に
説明できると考えてます。
その要項は主に
機械的フィードバック思考と
創造的フィードバック思考です。
どういうものかといいますと、
機械的フィードバック思考は
例えば
問、下記の□の中に1~9の数字を入れて
数式を正しいものにしなさい。
1 + □ = 10
という問いが出されたときに
1から順に当てはめていき
答えを埋めるという作業です。
答えが分かっていている時に
機械的にそれに見合う
数式を完成させる為に当てはめる作業をループさせる
といった具合です。
答えが分かるときといいましたが
目標や目的が定まっているときは
創造的フィードバック思考があると思います。
それは目標や目的を念頭に
試行錯誤を繰り返したりして
目標を達成させたり
知的ネットワークを利用して
何度も情報を加工し、
目的のものを完成させたりすることです。
これは夢をかなえることも同じだといえます。
よく「夢は叶えるまでが楽しい」という人がいますが、
それは夢を叶えるまで創造的フィードバック思考をして
成長していると時々思えるからであって
夢を叶えた後、創造的フィードバック思考を
やめてしまうからです。
でもこれには対処法があります。
フィードバック回路は入れ子ができるよう
夢も目標も目的も入れ子のように
段階的にもち、小さな喜びを積み重ねるように
実現していくことが有効だと思います。
それからある一定の一般化した
「疑問」や「例え」をえられるまで
思考実験をして2、3件仮回答を導き
最終的回答を得ることもできます。
皆さん実は仕事でPCを使用するとき
目的に値する創造的フィードバック思考を
していると思います。
コンピュータはキヲクをし、
ケイサンを得意とし
プログラムをフィードバックするのが
得意です。
ちなみに今回の題名「feedback thinking」と
英語圏で使われる同語は同じ意味を保障しません。
ただ単に私の考えに名前をつけただけです。
アブダクションとも違うのは読めば分かると思います。
機械的フィードバック思考も
創造的フィードバック思考も
造語です。参考程度にしていただけると幸いです。
それは入力から出力する際に
もう一度入力に戻して
出力を調整する効果があるものをいいます。
この考え方は「考え方自体」に
説明できると考えてます。
その要項は主に
機械的フィードバック思考と
創造的フィードバック思考です。
どういうものかといいますと、
機械的フィードバック思考は
例えば
問、下記の□の中に1~9の数字を入れて
数式を正しいものにしなさい。
1 + □ = 10
という問いが出されたときに
1から順に当てはめていき
答えを埋めるという作業です。
答えが分かっていている時に
機械的にそれに見合う
数式を完成させる為に当てはめる作業をループさせる
といった具合です。
答えが分かるときといいましたが
目標や目的が定まっているときは
創造的フィードバック思考があると思います。
それは目標や目的を念頭に
試行錯誤を繰り返したりして
目標を達成させたり
知的ネットワークを利用して
何度も情報を加工し、
目的のものを完成させたりすることです。
これは夢をかなえることも同じだといえます。
よく「夢は叶えるまでが楽しい」という人がいますが、
それは夢を叶えるまで創造的フィードバック思考をして
成長していると時々思えるからであって
夢を叶えた後、創造的フィードバック思考を
やめてしまうからです。
でもこれには対処法があります。
フィードバック回路は入れ子ができるよう
夢も目標も目的も入れ子のように
段階的にもち、小さな喜びを積み重ねるように
実現していくことが有効だと思います。
それからある一定の一般化した
「疑問」や「例え」をえられるまで
思考実験をして2、3件仮回答を導き
最終的回答を得ることもできます。
皆さん実は仕事でPCを使用するとき
目的に値する創造的フィードバック思考を
していると思います。
コンピュータはキヲクをし、
ケイサンを得意とし
プログラムをフィードバックするのが
得意です。
ちなみに今回の題名「feedback thinking」と
英語圏で使われる同語は同じ意味を保障しません。
ただ単に私の考えに名前をつけただけです。
アブダクションとも違うのは読めば分かると思います。
機械的フィードバック思考も
創造的フィードバック思考も
造語です。参考程度にしていただけると幸いです。