感情的な文章を毎日のように書ける人というのは、本当に感情的なのだろうか?という疑問を持ったので考えてみる。
私の場合、感情的な文章は少ないと思う。行動の描写、起こった出来事の記録、考え方、解釈が中心で、楽しかった、悲しかった、腹立たしいというような感情を示す語彙は少ないと思う。
私のブログ記事をテキストマイニングして、形容詞の割合を抜き出すと、おそらく平均値を下回ると思う。
面倒なので、そこまでしない。
何故、そう解釈できるのか、というところだが、私は感情語を読むだけで、その感情で身体中が埋め尽くされてしまい、気持ち悪くなってしまうからだ。
例えば、誰かが書いた次のような文章があるとしよう。
「洋子は聡が自分だけでなく他の女性に対しても愛想良く振る舞う事に常に胸が締め付けられる思いがした。洋子の中で聡の存在はそれほどまでに膨張してしまっている。洋子はその緊張がいつ破裂してしまうのかという事に日々、怯えるのだった。」
これを読むとまず、胸の辺りがざわつくし、最後には怯えで身体がいっぱいになる。
読むだけで身体が疲れてしまう。
言葉の指し示す内容が即座に身体的な反応に結びついてしまう。
こういう文章をたくさん読むことは、それだけで身体に負担になる。
ましてや、それを自分で積極的に書こうとは思わない。
例えるなら、鶴が自分の羽で着物を織るような痛みを感じてしまう。
なので、冒頭に書いたように、感情的な文章を毎日のように書ける人というのは、本当に感情的なのだろうか?という疑問を持つに至るのだ。
本当にそんな感情を毎日のように感じて生きているものなのだろうか?と。
言葉から受ける身体反応は人それぞれだと思うので、感情語を毎日たくさん見たり使ったりしても、全く平気な人がいる事は容易に想像できる。
もし、言葉からあまり身体反応が喚起されずに感情語を使用しているとしたならば、その人はむしろ感情的と呼ばれるような状態ではないように思う。
逆説的に言えば、感情語を多用しない文章を書く人の中に本当は感情豊かで繊細な人がいる可能性があるという事でもある。
身体反応と言葉の結びつきが薄い人はこの事実には気付きにくい。
私が感情語を書く時、自分の心臓にペンを突き刺して、その血で文字を書くような状態を感じている。
私が決死の思いで表出した感情語に対して、「良かった」、「いい感じ」というライトな反応しか返ってこないのは常なので、そのような人達との距離を感じつつ、日々、何も言わずに生きていくしかないのだろうと思う。
20250920 18:38 一般公開