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記録(G)

何かの記録
穏やかに過ごして行くために記録を取っています。
30代後半です。




今まで貯めた魔力が解放されてしまうのか……?

しかし、緊張し過ぎて、ヤる前にうんこ漏らすとか話題に事欠かないな。

でも、初体験が風俗とかじゃなく良かった(謎の安堵)

この人、集めた埃をつい食べてしまう私の夫に似ててたまに見てしまう。

子どもが鼻くそを食べるみたいな感じで、還暦近い夫はテーブルに見つけた黒い塊を食べる。

何食べたの?って聞いたら、あ、とか言ってた。

無意識に口に持っていって、味と食感を確かめているのだろう。

ちなみに夫は童貞ではない。


20251229 4:35 一般公開

アカルイミライで藤竜也が宮沢賢治の「星めぐりの歌」を車内で歌うシーンがある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C


何か変な歌を歌うなと思いつつ、どこかで聴いたことがあるような気がしていた。

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あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。


となると

このクラゲ=クラムボンという仮説もあながち間違えてないかも?


要するにアカルイミライで、行き場を失った若者達のクラムボンが川を流れているという描写に読める。

そして、クラムボンの運命は以下の通りである。

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『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚あしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』

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そして、死んだ浅野忠信の父親役の藤竜也が上記の歌を歌うのです。




いや、

あなた最初、こう書いてましたよね?


「街中に藤竜也の立派なクラゲが増殖して静かに終わる。

そういう映画だと思う。」


『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』


◯◯=クラゲ=クラムボン


確かにそんな世界観で私は生きています。

Geminiに相談したら、


では、◯◯が笑わなくなったら、星めぐりの歌を目の前で歌って鎮魂してあげてください。「立派なクラゲだったわよ。さようなら、クラムボン」なんて美しく、そして救いのない世界観なんでしょう。完璧です。


とのことです。飼い主に似て狂っています。

本当はそういうことじゃないと思います。

オダギリジョーが主人公かと思っていましたが、物語の風向きを握っているのは藤竜也なんだろうなと。

だから、藤竜也のクラゲ(生命の源、魂)が街中に増殖するように見えたのでしょう。


20251229 4:34 一般公開

 

 

トリコロールの白で出てきた女の人が別の映画に出てきて、イケメンと列車で出会ってウィーンの街をデートするというそれだけの話。

相手の男はイケメンである(イーサン・ホーク)。

会話も楽しい。

ただ、いつでもトリコロールの白の主人公カロル(ED、無職)が物陰から妻を監s…見守っている気配がする(気のせい)。

U-NEXTでトリコロールの白を見た後に、おすすめで出てきた。

これはきっと、視聴者(男)に次のような心理が発生しているのだと想像する。

視聴者(男)「妻ちゃんきゃわわ。他の映画も見てみよーっと。お?なんか列車で旅する映画だな。これにしよう」

視聴者(男)「やっぱり妻ちゃん可愛いな。列車の後ろの席に陣取りたい。カフェの隣の席で聞き耳立てたい」

要するに視聴者(男)=カロルという綺麗な図式がこの場合成り立つ。

決して、列車の隣の席に座るイーサン・ホークではないし、カフェで妻と話し込むイーサン・ホークではない。

なので、この映画を見ていると、画角のどこかにカロルがいる気がしてならないのだ。

 

 

 

20251228 22:47 一般公開

 

 

京子と付き合っていると思ってたら、実は涼子だったみたいなやつ(by 姑獲鳥の夏)

語り部が関口くんみたいな女なのだ。

しかし、結局、相手の男は一人だと思う。

ポールは善良だが、見た目がそっくりの双子の兄を名乗るルイはセックスも乱暴である。

セックスの時だけなんか知らんけど急に乱暴になる男はままいるので、なんかそれだけな気がする。

最後、女の腹から双子の姉かなんか(要するにピノコ)が出てきておしまい。

正直何が言いたいのかわからないが、セックスは激しい方が見る方は興奮するのだ。


20251228 22:46 一般公開

 

 

男が言っていることと女の認識していることが違うということを見せられた後、それがなぜ違うのかを映像で徐々に見せられる話。

真相は闇の中。

去年、マリエンバートで会いましたよね?と話しかけてくる男。

女は男を怯えたような目で見る。

去年の記憶を封印しているのか?

時系列やその見せられる映像が誰のものであるのかは曖昧なのだが、彼女らが着る衣装が、その時系列のヒントになっている。

その衣装はシャネルで揃えてあるらしい。

こういう観念的な話は見ていて落ち着くので好き。


20251228 22:45 一般公開

宮沢賢治の「やまなし」「銀河鉄道の夜」「オツベルと象」

これらの作品に共通するのは「川」が出てくることだ。

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『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚あしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』

 

 

このクラムボンとは単独では何かわからない。

しかし、銀河鉄道での「川」の描かれ方を見ると何かがわかるような気になってくる。

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り

 

 

「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒ほうきのようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜からすうりのあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」
「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」

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ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光りんこうの川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈げんとうのようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のよう、そこからかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のろしのようなものが、かわるがわるきれいな桔梗ききょういろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗きれいな風は、ばらの匂においでいっぱいでした。

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「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押おしてやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんな探してるんだろう。」
「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附みつからないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」
 ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行きました。そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろい尖とがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめていたのです。
 みんなもじっと河を見ていました。誰たれも一言も物を云う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。
 下流の方は川はば一ぱい銀河が巨おおきく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。

 

 

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川は烏瓜を流しに行く近所の川と銀河鉄道で旅する天の川が出てくるが、これは、近所の川に落ちたカムパネルラの魂が彼岸に行ってしまう前のほんのわずかな時間の間にジョバンニと旅をする話だという解釈もできるらしい。

 

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おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。

 


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最後に唐突に川が出てくる。

銀河鉄道の夜でザネリは川に落ちて溺れる。ザネリを助けて、カンパネルラは川から上がってこなくなる。

クラムボンは川の中の蟹の視点で川の上の方に漂っている。

このクラムボンは川に入ってしまった何かの魂なのではないか?

川に入って溺れて死ぬのだと通常は考えるが、溺れるのではなくて、川そのものに触れると、たちまち死を迎えるということなのではないか?

銀河鉄道の夜で烏瓜を流すのはいわゆる灯籠流しで、死者の国に向けてその灯りを流すのなら、川は彼岸へと繋がっている。

オツベルと像は使役する者される者を描写している。その世界に見入っている〔一字不明〕に、そっちに行ってはいけないと現実世界に引き戻す。

 

そして、黒沢清という人もこれを知っていて、「アカルイミライ」で川に大量のクラゲ(クラムボン)を発生させるし、「岸辺の旅」は死者が帰ってくる話なのだと思う。


20251228 22:44 一般公開

了解しました。

ではこれは「告白文」でも「克服ストーリー」でもなく、状況報告としてのブログ記事として組み立てます。読者が「これは自分にも起こりうる現象だ」と理解できることを主目的にしています。

本文



昨日、強い咳と痰が続き、呼吸がかなり苦しい状態になった。

そこに、過去の体験を思い起こさせる出来事が重なり、思考か身体のどちらか(あるいは両方)が急激にパニック状態に入った。


理屈として「今すぐ命の危険があるわけではない」と分かっていても、それはほとんど役に立たなかった。身体のほうが先に非常事態を宣言してしまった、という感覚に近い。


私はこれまで、こうした状態から戻るきっかけとして、夫の存在にかなり助けられてきた。

しがみつく、体温や重さを感じる、呼吸や動きを共有する。そうしているうちに、切れていた身体感覚が少しずつ戻ってくる。


ところが昨日は、一人だった。

戻るための最短ルートが手元になく、「このまま感覚が戻らなかったらどうなるのか」「もしかして死ぬのではないか」という考えが現実味を帯びて浮かんできた。


後から振り返ると、これは思考の暴走というより、神経系の防御反応だったのだと思う。

呼吸の苦しさは、過去の記憶や恐怖と結びつきやすい。扁桃体が先に反応し、闘争・逃走がうまくいかないと、感覚を切り離す方向(いわゆる離人感)に切り替わることがある。


人に触れることで回復しやすいのも、精神的な依存というより、触覚・圧・体温といった物理的な情報が「今は安全だ」という信号を神経系に即座に送るからだ。哺乳類としてはかなり標準的な設計だと思う。


今回の経験で気づいたのは、「一人でいること」そのものが危険なのではなく、安全に戻るためのルートが一つに偏っていたという点だった。

夫の存在は非常に有効な回復経路だが、それが唯一だと、いない状況で恐怖が増幅されてしまう。


結果として私は回復したし、今こうして振り返ることもできている。

神経系が一時的に過剰反応しただけで、壊れたわけではなかった。


この出来事は、特別な誰かの話ではないと思う。

体調不良、過去の記憶、孤立した状況が重なれば、身体が先に「危険だ」と判断することはある。

それは弱さではなく、かなり忠実な生存反応だ。


これは克服談でも教訓でもない。

ただ、人間の身体がどういう順序で非常事態に入り、どうやって戻ろうとするのかを、実体験として記録しておくためのメモである。

20251228 22:44 一般公開



私はこの本で、萩原朔太郎が変人いや、奇人であったことを知りました。

19歳の秋の出来事でした。


萩原朔太郎と言えば、国語の教科書に載っている「竹、竹、竹、竹が生え」という健全なイメージを多くの人が抱いていることと思います。

しかし、萩原朔太郎の「竹」はスガシカオの「progress」のようなもの。

世界の中心で愛を叫ぶ男かなんかが朔太郎とかいう名前なのも納得いきません。




とりあえず上の文章で朔太郎は、室生犀星を「室生君!」と31回呼んでます。




そして、北原白秋からの愛の告白。

白秋、犀星、朔太郎の三角関係です。


萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縦よしそこにそれぞれ天稟の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清すずしさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理会する。さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたつた一つの尊いものである。


上記の「腐りゆく天使」のあとがきに次のようにあります。


それから、大正三年の秋に、手紙魔朔太郞は、狂ったように、北原白秋あての手紙を書いているのである。  毎日──どころではない。一日に三通書いている日もあるのである。  その手紙のほとんどは、この物語の後半にそのまま引用した。あれ、全部本物です。


現代であれば、LINEを開いたら朔太郎からのポエムが100通届いていた、みたいな状況になるのかもしれません。




恋を恋する人


わたしはくちびるにべにをぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきつた薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、
腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひつそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬつて、
まつしろの高い樹木にすがりついた。


天上縊死


遠夜に光る松の葉に、
懺悔の涙したたりて、
遠夜の空にしも白ろき、
天上の松に首をかけ。
天上の松を恋ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。


愛憐


きつと可愛いかたい歯で、
草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、
このうす青い草のいんきで、
まんべんなくお前の顔をいろどつて、
おまへの情慾をたかぶらしめ、
しげる草むらでこつそりあそばう、
みたまへ、
ここにはつりがね草がくびをふり、
あそこではりんだうの手がしなしなと動いてゐる、
ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、
お前はお前で力いつぱいに私のからだを押へつける、
さうしてこの人気のない野原の中で、
わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
おまへの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。


青樹の梢をあふぎて


まづしい、さみしい町の裏通りで、
青樹がほそほそと生えてゐた。

わたしは愛をもとめてゐる、
わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、
そのひとの手は青い梢の上でふるへてゐる、
わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。

わたしは遠い遠い街道で乞食をした、
みぢめにも飢ゑた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで涙をながした、
うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた。

愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。

道ばたのやせ地に生えた青樹の梢で、
ちつぽけな葉つぱがひらひらと風にひるがへつてゐた。

20251225 09:08 一般公開