季節の進みというものはもうアナログそのものだ

 

熱い湯と冷たい水を混ぜるとき

 

最初は相当に斑ができていて

 

熱い、冷たいが部分部分に存在していても

 

撹拌を続け時間をおけばちょうどよい塩梅になっているように

 

夏の間長く居座った太平洋の暖気が勢力を弱めると

 

大陸の冷たい空気が一気に南下してくる

 

そうすると昨日までの陽気がウソのような寒さになり

 

雨が上がって風が吹けばそれは一層強くなる

 

けれどそのうちにまた移動性の高気圧に覆われれば

 

なんとものんびりとした日差しに包まれるのだ

 

これを繰り返すうちに本格的な秋が訪れ

 

北の国からは雪の便りも聞こえてくる頃となる

 

 

緯度を上げるのと同じように

 

高度を上げることでも季節の進みはグッと早くなる

 

昨日近所をぐるりと散歩に出たときは

 

半袖の出で立ちだったが

 

今日は2000mあたりまで上がろうと考えている

 

翌朝オートバイで出掛ける段になってしっかりと冬の装いとなった

 

天気予報ではこの秋一番の冷え込みで11月上旬並みだと話す

 

山は相当に冷えただろう

 

薄いダウンのベストは着込んだが

 

さすがにまだねー、とダウンのジャケットはバッグに押し込んだが

 

これは大袈裟ではなく結局すぐに着込むことになったのだ

 

 

高速道路はあまり好きじゃないが

 

平日の朝の市街地を走るくらいなら高速の方がマシなので

 

とりあえず高速に乗った

 

日本列島の南岸にほど近く秋雨前線が停滞しているせいで

 

イマイチすっきりとは晴れていない

 

とは云え秋の雲はおよそ高度が高いものだ

 

たとえ3000m級の山でも雲底には届かない

 

はたして豊田ジャンクションから遠く御嶽の峰々がはっきりと見えた

 

愛岐トンネルを越えると薄日が差した

 

内陸に行くほど(沿岸部から離れるほど)雲は減るようだ

 

今日はトンネルが暖かいね

 

 

今日の相棒はSR400

 

SRの高速道路との相性は経験のない人には意外だろうが案外良い

 

トップギアで4000rpmがベストだけど

 

ここからギアダウンなしに追い越し加速に入れる

 

振動も今ではことさら思うこともなく

 

むしろ大きなピストンがクランクを捻り上げるようなトルク感が気持ちいい

 

直進性も問題なく、かと云って進路変更もコーナリングも造作ない

 

勾配もそれなりにあってカーブも続く中央道でも

 

トップギアのままスロットル操作だけでのんびりと巡行する

 

ライトの上に小ぶりなウィンドシールドを付けているが

 

こいつがなんともいい仕事をしてくれる

 

あんなに小さいのに体に当たる風はほぼ遮って弱めてくれるのだ

 

 

中央道を中津川で下へ降りる

 

国道19号=現代の木曽街道は木曽川の激しい流れとは対照的に

 

車列がゆったりと流れている

 

時折登坂車線もあるけどほぼ延々と1車線だ

 

トラックやトレーラーも多いが信号が少ないのでまあそこそこ走る

 

SRにとってはいちばん気持ちの良い速度レンジなので全く不満はない

 

上松まで約1時間

 

連続するトンネルの向こうで左に折れて元橋で木曽川を渡った

 

 

このひとつ先、木曽福島から開田へ入る木曽大橋が完成し

 

地蔵峠にバイパスが整備されるまで

 

この元橋を渡って開田へ向かっていた

 

もう30年も前のことか

 

県道20号線は昔ながらの地形に沿う作りでくねくねだが

 

オートバイで走るにはこの方がむしろおもしろいし

 

SR400もそれにピッタリなオートバイだ

 

三岳の道の駅で小休止する

 

空は雲に覆われるがやはり山並みを隠すことはない

 

印象的な朱色の常盤橋を越え

 

三岳の町の追分を右に取ればもう御嶽の山並みは近い

 

その追分を左に折れると王滝を経て御岳スカイラインへと続くが

 

今日は久しぶりに霊峰ラインを走る

 

すぐに開田へ向かう20号を離れて(というか道なり)

 

そのまま霊峰ラインへ入ると御嶽の峰々が美しく眼前に聳えた

 

この山は信仰の山だ

 

御嶽講の人たちの魂の拠り所なのだ

 

山全体が礼拝場所なのでボクのような部外者でも礼を尽くすべき場所

 

印象的なのは宗教施設や宿泊所が並ぶ合間合間に並ぶ無数の石碑群だ

 

この石碑は霊神碑と云って墓というより霊を祭るシンボルか

 

霊神碑は山全体に約3万基もあるといわれる

 

御嶽講の人たちは死後の魂が御嶽に還るよう願ってこの石碑を建てるのだそうだ

 

写真を撮るのはちょっと憚られるかなと思って撮らなかったけど

 

この霊的な風景は一見の価値がある日本文化だと思う

 

クネクネと御嶽を登り詰めるこの細い道に人々の願いがこもる

 

そして時折開ける視界には神々しい御嶽の峰だ

 

 

むかしの哲学者の命題にふれると

 

そこには常に「神」の存在があることを思わせる

 

自然科学を常識ととらえる現代人にはいささかの古臭さと胡散臭さを感じさせるが

 

実を云うと旧約聖書に毒された、否、染まった西欧人であっても

 

さすがに哲学者ともなるとその「神」の概念は多様化していた

 

「神即自然(神すなわち自然)」のスピノザは汎神論と云われるが

 

単なる自然信仰とは真逆の発想で

 

神がこの宇宙のすべてにその力を発揮している

 

あらゆる属性があらゆる様態で現出しているという意味だ

 

つまり神とは宇宙の法則(物理法則のような)なのだと思わせるような言い分なのだ

 

それなら現代人にも何となく「わかってるじゃん」と感じさせてくれるものがあると思う

 

八百万の神を信仰してきた日本人も

 

仏の智慧を知っていた仏教も

 

物理法則で成り立つこの世界とその精巧で緻密な宇宙を見ていたのかと感じさせるものはある

 

京都の東寺講堂に広がる立体曼荼羅を見るとき

 

当時の人々がこの宇宙をあのように感じていたと思うと

 

神こそ自然という哲学なのだと確信する

 

それと同じくこの御嶽に広がる世界は

 

形而上学としての哲学的世界を感じる(決して宗教的ではない)

 

 

なんて語っているけど

 

ほんとうは「クマ」がこわい

 

いくら、出るわけないじゃん、と思っても

 

それを許さないような昨今のクマ事情だ

 

もう猟友会レベルでなく国防レベルだ

 

国民の安全を守るべく自衛隊に部隊展開してもらいたい

 

(と書いたとたんに秋田県知事は災害派遣を自衛隊に要請)

 

玄関を出たらクマに襲われるなんて北朝鮮のミサイル威嚇より怖い

 

停まるときはなるべく周囲が開けたところを選んで

 

エンジンを切る前にホーンを鳴らして存在を知らしめる

 

休憩中も時折辺りを見渡して警戒を怠らないことが大切だよ(大袈裟)

 

 

ロープウエイの駅を過ぎてブルーラインで麓へ下る

 

王滝から入るスカイラインに比べると中央アルプス方面の眺望はあまりない

 

霊峰ラインが信仰者のルートだとすれば

 

ブルーラインはロープウエイ目当ての観光のルートだ

 

バスも走るのでそこそこの幅員がある

 

あと2週間もすれば紅葉も進むんだろうが

 

ボクが行ったときはまだぼんやりと黄味掛かっているくらいだった

 

気温も下とさほど変わらず高速を飛ばしてた時の方が寒かったくらいだ

 

でも県道20号へ出て日和田へ向かうとにわかに冷たい風が強まった

 

長峰峠はかなり寒くて

 

高根辺りの温度計には「9℃」っていうのもあった

 

さすがに寒くて万が一のネックウォーマーまで使ったよ

 

 

朝日の道の駅で昼食をとった後

 

そのすぐ先にある農道みたいなやつに入った

 

表示板もないし地図にも記載がないんだけど

 

向こう側の取り付きにある青看板(案内標識)には「飛騨農園街道」とある

 

2020年版の道路地図には未舗装林道と記載があったけど

 

実際は完全に対向2車線でほとんど消えてるけどセンターラインがある

 

峠部のアップダウンがきついくらいで滅茶苦茶快走路なのよ

 

「農園街道」と云うけど農園もなにも深い森の中ばかりで

 

ほとんど何もなかったね

 

牛乳の工場と飛騨牛の農場があったかな

 

全線で13kmくらいあるけど対向車には1台も合わなかった

 

高山をパスするにはありがたくて楽しいルートだ

 

そのまま41号線で南下し下呂から257号へ回る

 

のんびりしすぎてちょっと時間も遅くなったので

 

ルート選びも雑になる

 

19号へ出るところに栗きんとんの「川上屋」

 

ご機嫌取りにお土産だけ仕入れて家路を急ぐ

 

 

それにしても行きの高速からずーっとなんだか寒くて

 

走り出すたびにしばらくブルブルと震えたりしていた

 

おまけにそんなに距離も走ってないのに全身の関節がギシギシとして

 

こりゃ風邪引いたかな、と思ったら

 

そのうち鼻が出て喉が痛み出した

 

家人には「トシだね」と云われたが

 

断じて「そんなことはない」と云い張る

 

今年の秋のおっさんであった

 

 

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オートバイで走る楽しみ

 

それは勿論いろいろあるよね

 

けれど秋の山里を走る時がいちばんなのだとボクは思う

 

その理由についてはもう毎年書いていることなのだけれど

 

…それほど毎年どうしても書きたくなるようなことなのだけれど…

 

この時期のキンモクセイの芳香と云うものは

 

なにものにも代えがたい魅力があると思うからだ

 

はっ、とその香りに瞬間撃たれても

 

実はその姿を見つけることはなかなか容易ではない

 

姿は見えないのにその香りは周囲の空気を

 

まるですべて秋色に染めてしまうのではないかと感じるほど強く

 

しかもそれはあまりに純粋な甘い芳香にもかかわらず

 

そこにはなんの軽さや薄っぺらさも感じさせないのだ

 

自然の、天然のもたらす甘美なこの体験は

 

人間の感性の原始の部分に直に訴えかけてくるものなのだろうか

 

 

先週よりも一枚多く羽織って山へ走りに行く

 

ひと雨ごとに秋は確実に深まっていく

 

ボクはほとんど平日にしかオートバイに乗らないんだけれど

 

秋の野山にはさすがにオートバイも増える

 

大型オートバイが多い

 

同じくらい原2も見かける

 

オッサン、というかジィサンが多い

 

大型も原2もね

 

かえって若い人の方が中型乗っているのかな

 

「ダウンサイジング」と云いながら

 

一度知ってしまった大型オートバイの魅力には勝てないのかもしれない

 

前回、ダウンサイジングの最低ラインを

 

エンジントルクを基準に考えたらどうかと提案したが

 

実を云うとエンジンパワーや車重の軽さだけでは埋められないものがある

 

そしてそれはオートバイを趣味として走らせることにおいては

 

むしろこちらの方が重要な要素なんだろうと思われ

 

つまりこいつを無視すると途端にダウンサイジングは失敗と云うことにもなるのだ

 

何か?

 

それは「味わい」「テイスト」だ

 

とは云うもののこれを形にして見せることはまず出来ない

 

数値化どころか言語化すら困難な符号だ

 

本当に感覚の記憶でしかない

 

 

前にも云ったとおりボクはレプリカ世代だ

 

2スト250ccが多分一番好きだ

 

あのチープな排気音とエンジンオイルの燃える匂い

 

4ストの4発がレッドゾーンに向けて雄叫びを上げるあの瞬間もたまらないが

 

軽くて素早くスピードに乗せる2ストの走りは

 

何物にも代えがたい忘れられない記憶だ

 

けれど

 

こういった「印象」や「特徴」は実はテイストにはならないものだ

 

デザインが、とか

 

空冷のバーチカルツインが

 

といった視覚的なものではない

 

「テイスト」味わい

 

良く分からないけれど感覚的にはこうじゃないかな、というのはある

 

多分間違っていないと思うが

 

それは、乗った瞬間

 

「あーこれこれ、これだよ!」ってなるやつだ

 

そしてそれはもう「いつも何度でも」

 

「♪呼んでいるー ♪胸のどこか奥でー」

 

全くそのとおりなのだ

 

 

似たような感覚に初見(ぱっと見)の新鮮さがある

 

もちろんこれも人によって違うものなのだが

 

例えばボクの話をすれば

 

モトグッツィの縦置きVツインだ

 

低回転のもっさりした印象は少し回すと一変する

 

軽やかに回転を上げながら

 

ブロロロロロロロッーと甘美なエンジン音に包まれる

 

 

BMWのOHVボクサーの「回転なり」みたいなケチ臭さは微塵もなく

 

もっと、もっと、とオートバイがライダーを誘惑してくる

 

その楽しさと興奮はグッツィだけの個性で

 

初めて体験するともう一気にメロメロになること必至だ

 

そう、初見ではね

 

ところが、だ

 

これ、すぐに飽きる(ボクの話ね)

 

飽きるというか、慣れる

 

慣れると「誘惑」が面倒くさくなる

 

ハーレーダビットソンもそれに近い

 

走らせた瞬間はプレーリーを突っ切って伸びるハイウエイを

 

淡々と駆け抜けるアウトローになった気分だ

 

周りから受ける視線もすごくて、正直、バカな気分になる

 

けどね

 

慣れるね、すぐ

 

ステップが遠くて、ハンドルが遠くて

 

重くて、うるさくて

 

あーいやだ(ボクの個人的な印象ね)

 

2スト250が経験を伴ったリアルな嗜好だとすれば

 

ハーレーダビットソンは子供のころからの単なる憧れからくる嗜好だ

 

まあ「イージーライダー」の影響だな

 

 

小学生のくせにヒッピーになりたいと結構真剣に考えていた

 

なんと云ってもロングフォークのチョッパー

 

大人になって、あれは乗りにくいよね、とすぐに諦めはついたけど

 

それでも大型2輪の免許を取ってからは

 

頻繁にハーレーの試乗会に行ったりするくらい

 

乗りたいなっていう気持ちは正直かなりあった

 

でも試乗すればするほど違和感が湧くんだよ

 

そもそも、みんなあの音がいいっていうんだけど

 

ボクはあの排気音はデカすぎてうるさいと思うんだよね

 

それと排気量も大き過ぎだから

 

デケッデケッデケッみたいなズババババッみたいな鼓動も

 

間が抜けた感じで好きになれない(ボクの感想ね)

 

でもまあ

 

そこに「テイスト」を感じる人は多いということなんだろうね

 

本当に人それぞれの感性ということだ

 

もちろん自分の好み以外をディスっているわけではない

 

だってボクが大好きなフラットツインなんて

 

鈍臭くて地味臭くて、オェーっていう人もいるはずだから(多いかも)

 

「テイスト」ってそれくらい個性があると思う

 

逆にそれくらいじゃないと「嵌れ」ないね

 

つまりは究極の好き嫌いってことだ

 

 

 

でもそんな単なる好き嫌いではないよ、と感じるほどの熱量がある

 

「かっこいい」

 

「よく走る」

 

「扱いやすい」

 

そのみんなが当てはまる様なオートバイなんて実はいっぱいある

 

なのにわざわざ中古車を物色してまで手に入れたい何か

 

そこに「味わい」という感覚を考えざるを得ないのだ

 

でも本当にそれを「これ」と見せられるものがないし

 

何度も云うがそもそも言葉にできない

 

いや言葉にはできるけど所謂オノマトペの羅列になりかねない

 

「定速走行時に感じるエンジンからの感触はスーッに近いザラザラ」

 

「もちろんザラザラというほどの摩擦感ではなくあくまでスーッ」

 

「ゆで卵の表面のような平滑感と云えばいいか」

 

これが何を指しているのか全く伝わらない

 

もちろんボクの語彙力に問題があるんだけど

 

書いてるボク自身も書くほどに違和感が湧く感じだ

 

 

BMWのR75/5から始まる所謂R247系が好きだ

 

空冷の2気筒2バルブOHV水平対向エンジン

 

このシリーズが生きた時代はオートバイの性能が大きく進化した時代だった

 

そのためフラットツインの存続さえ危うい時期もあったが

 

最後のパラレバーサスを持つR100ミスティークへ至るまで

 

約四半世紀にわたって改良が加えられ

 

途中、アドベンチャーモデルの元祖

 

GSシリーズを生み出しながらその系譜は現在まで受け継がれているのだ

 

 

ボクが初めて乗ったフラットツインはそのあとのR259系だ

 

ツアラーのR1150RTだった

 

クルマが買えるほどの金をつぎ込んで手に入れたBMWは

 

予想に反して意外なほどの粗削りなキャラクターだった

 

そして一度走り出したら最後

 

どこまでも行ってしまいたくなる「駆け抜けるよろこび」に満ち溢れていた

 

今まで乗ったどのオートバイよりも疾走感があり

 

今まで乗ったどのオートバイよりも一体感があった

 

ちょうど10年間所有したがRTで文字どおり日本中へ走りに行った

 

 

当時はもちろんBMWのディーラーにお世話になっていたが

 

そんな付き合いの中でふいにR100RSとの縁ができた

 

RSに対する当時のイメージは

 

それは学生のころレッドバロンで現車を見たときのものだが

 

あの恐ろしく幅の狭いハンドルと

 

大した印象も抱かせないのになぞに圧倒的なその価格の高さが大きかった

 

 

ただ、もうひとつ

 

永山育夫の雑誌記事で見た

 

早暁の東名高速道路を九州へ向けて疾走するR100RSの写真と

 

 

「10時間後。関門海峡を渡った。20年前のBMWでもそれは造作もない。現代のオートバイで果たして同じことができるものが何台あるだろう。」

 

という一文が頭の片隅にこべり付いていたのも事実だった

 

ほどなくボクの元にやってきたのは

 

2本サスのR100RS(銀ジィ)だった

 

そうして始まったOHVとの日々だったが

 

正直に云えば当時のボクにはR100RSは少し手ごわかった

 

けれど乗り込んでいくうちに永山が残した雑誌記事の中の文章が

 

それほどの時間を要さずとも

 

ひとつずつ消化されていくのを感じた

 

「人間の乗り物であるということをBMWはつぶさに考えてきた。だからこそ、R100RSとしての威厳と機能と魅力は今でもまったく褪せていない。馬力やサスや防風性では解決できない何らかの存在を、R100RSは今でも示唆している。」

 

この永山の「預言」のような一言がボクの脳裏に刻まれ

 

BMWが示そうとした「必然」に強く惹かれていったのを覚えている

 

けれどその思いが確信となったのは

 

思いもよらずそのRSを手放すことになった後

 

いつも心の片隅に意識される残り香のようなものに気付いた時だ

 

それはオートバイに乗りたい

 

という思いよりはるかに強い

 

RSに乗りたい

 

OHVのフラットツインに乗りたい

 

という欲求に近い感情だったように感じる

 

それに気付いてしまってからのボクは

 

まるで何かに突き動かされて彷徨う夢遊病者のように

 

もう一度RSを、と強く願うようになった

 

「RS 再び」とこのブログの再開にもつながったのだ

 

 

この十数年で世界は大きく変化したようにボクは感じる

 

IT革命はやはり世界を変えた

 

変えたがそれは単にステージが上がっただけだとも云える

 

世界はヘーゲルが考えたようにはやはり行かないのだ

 

進化とは何だろう

 

新たな市場を生み出すことか

 

それゆえに工業製品は常に進化を求められてきた

 

そしてその進化に背を向ける行為はこの世界ではもはや「死」を意味する

 

消費者のニーズは重要だがそれだけでは市場は縮小すると考えているらしい

 

ただ「趣味」の分野では「嗜好性」が最も重要であるはずだ

 

どうかオートバイという乗り物の本質だけは維持してもらいたい

 

人がかかわる乗り物

 

人が乗らなくては倒れてしまう乗り物

 

エンジンを操りギアを駆使しながら走る

 

走り出せばそこは自分とオートバイだけの世界

 

最後にもうひとつ永山育夫の言葉を

 

「機械の進歩もほどほどにしたほうが、人間として長い付き合いができるような気がするのは私のようなひねくれた中年だけなのだろうか。…ほどほどに愛しなさい。長続きする恋とはそういう恋だ…とシェークスピアも若い二人を諭している」

 

どうかそんな1台に巡り合えるよう願っているよ

 

 

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毎年この時期に彼岸花を見るたび

 

自然の精密さと、同時にその逆の単純さとに驚く

 

どんなに暑い夏でも決まってこの季節に咲くのを見ると

 

日照時間を感じているのかと思ったが

 

以外にも温度によって花をつける判断をしているらしい

 

ということは彼岸花たちにとって今年の秋は異常な猛暑の秋ではなく

 

いつもの秋だということなのだろう

 

長袖のジャケットを羽織って

 

オートバイで山へ行く

 

もうジェットヘルメットとゴーグルでは少し鼻先が寒いね

 

そろそろ夏の間に酷使したエンジンオイルを交換して冬に備えよう

 

心配していた人が多かったみたいだけど

 

そうさ

 

秋はこうして今年もやってきた

 

 

 

生まれついての性格なのか性向なのか

 

騙されてばかり、利用されてばかりなのでそうなったのか

 

猜疑心が強く

 

なんでも疑ってかかることが多いように思う

 

ずいぶん前に岡林康信の「自由への長い旅」という曲を知って

 

そのメインテーマである「信じたいために疑い続ける」というフレーズが

 

強く心に刺さったことをよく覚えている

 

ああ、そうだったのか、と

 

なんとなく溜飲が下がるのを感じたのだ

 

本当は信じたいのだと思えば疑うことも悪い気はしない

 

けれどそれ以後はなんでもかんでも意識的に疑ってかかるような感じで

 

正直自分でもどうなんだろうと、これまた疑っているようなところか

 

初めにつまずき

 

見過ごせなくて反芻しているうちに

 

ますます違和感は膨らんでゆく

 

そしてしつこくしつこく問い続ける日々だ

 

気を許していた人に突然「お前、面倒臭いもんなー」と云われ

 

あまりに居た堪れなくて一目散に逃げ出してきたのにも関わらず

 

そんな性格を改めるどころか

 

それ以降もますます偏屈になっていったように感じる

 

 

しつこく書くけど

 

そんなボクの今の違和感の中心はやはり「異常気象」なのだ

 

さすがに彼岸を過ぎてウソみたいに涼しくなって

 

急に誰も何も云わなくなったけど

 

ほんとうに好きだよね

 

ついこの前までテレビでは朝から夜までずっと

 

ニュースショーと云うのかワイドショーというのか知らんけど

 

ものすごい時間かけて天気の話

 

それも「暑い」という話で盛り上がっていた

 

映像で情報を垂れ流すテレビというメディアは世に生まれた時から

 

すでにその危うさを指摘されていたのだが

 

大宅壮一が「一億総白痴化」と警鐘を鳴らしたのはなんと1957年のことだ

 

この予言どおりまんまと大衆はテレビによって思考停止状態に誘導され

 

差異の原理に都合よく利用される消費マシーンと化した

 

 

人間の知性、理性というものは(と云うと大袈裟だけど)

 

幼児期から時間をかけて外部の現象を刺激として記憶しながら

 

それと同時になされる言語の習得過程で

 

「概念の同一化」という脳のエコシステムを経て構築されていくのではないかと思う

 

だけど感覚器に入力される刺激を概念に置き換えることには本当は無理がある

 

人の感じ方ほど主観的で個人的なものはないだろうし

 

しかもすべてが感覚器への刺激に過ぎないのだと考えれば

 

実際は概念で括れるような代物ではないはずだ

 

何かを食べて「おいしい」という人と

 

それと同じものを口にしながら「滑らかな舌触り」という人がいる

 

語彙力と表現力にもかかわるかもしれない

 

よく耳にする「胃もたれする」という概念だが

 

ボク自身それがどういう感覚なのか理解できていない

 

胃がむかつく(吐き気がする)と胸が焼けるはわかっている気がするが

 

それとどう異なるのか客観的に確認のしようがないのだ

 

しかし現代のこの国の住人はもっと危うくて

 

脳のエコというより間違いなく思考停止、もしくは思考の放棄が始まっている

 

日々接し続ける五感からの情報(刺激)すべてを

 

たった3つの概念で認識していると思わざるを得ない状況だよね

 

曰く

 

「ヤバ(い)」(肯定的、否定的、ポジティブ、ネガティブ、=万能)

 

「エグ(い)」(否定的、ネガティブ)

 

「エモ(い)」(肯定的、懐古的、ポジティブ、ノスタルジック)

 

この3つだ

 

もしかしたら、もうすでに「ヤバッ」(万能語)だけになりつつあるかもしれない

 

ボクの所有する広辞苑は第6版でやや古いが

 

「やばい」を「不都合である、危険である」と定義している

 

これは否定的で、ネガティブな意味合いだということで

 

決して肯定的、ポジティブな表現ではなかろう

 

が、現実はこうだ

 

おいしいものを食べて「ヤッバ」

 

いい男を見かけて「ヤバい」

 

素晴らしい景色に出会って「ヤバッ」

 

もちろんおかしな奴を見かければ「ヤバ」

 

もっと凶悪な犯罪者にも「ヤバ」

 

同様に暑すぎる状況は「ヤバ」いんですけど~

 

なのだ

 

これは本当に「ヤバッ」と思ったほうが良いと思うのだが

 

世間はそうでもなさそうで

 

みな屈託もなく、楽しそうに連呼する

 

「ヤバいんですけど~」

 

 

確かに何となく良く分からないなと思うと

 

思考はそこで停止しやすい

 

別にどうでもいいし、といった具合にね

 

でも最初に云ったとおりボク、「看過できない」という言葉が好きなので

 

「え、それどういう意味?」

 

「だったらそれとどう異なるの?」

 

と問い返さずにはいられない性分なのだ(ソクラテスか)

 

AIチャットソフトならどんなにしつこく質問を繰り返しても

 

次から次へと答えをくれるけど(時に堂々巡りにも陥るが)

 

テレビってやつは本当に「ヤバ」い

 

春先からずうっと「暑い」系の話題を取り上げ続けるのに

 

秋が見えてきた今でも何の進展もなく結論もなく

 

毎日しれーっとおんなじ顔で云うのだ

 

「暑いですねー」

 

 

それにしても異常気象と云うことで思考停止に陥れ

 

いったいどこへ大衆を導こうとしているのだろうか

 

雨の降り方がこれまでと違う、

 

こんな暑さは経験がない、とか云うけど

 

気象観測が始まったのは長い地球の歴史でごくごく最近のことだし

 

一人の人間が経験できる夏など100回くらいが限界だ

 

「独断」も甚だしい

 

7000年から5000年前の縄文時代には

 

ヒプシサーマルと呼ばれる気候最適期があったが

 

その頃の気温はいまより約2℃も高く

 

海面水位も3~5mも高かった

 

けれどその時の二酸化炭素濃度は現在よりも3割も少ないというのだ

 

このこと一つとっても現代の気温上昇が

 

炭酸ガスの影響だと言い切るには根拠が薄いと思うけどね

 

もちろん原因の一つではあるかもしれない

 

しかし世界中に号令をかけて人の営みや経済にまで切り込むのは

 

政治的な意味合いを強く感じる

 

 

この「地球環境」をメインテーマとする政治的な行動は

 

IPCCやCOPは云うに及ばず

 

国連の活動なのだが

 

SDGsの中(13:気候変動に具体的な対策を)にも示されている

 

どうせ開発するならこういう方向性でやりなさい、と

 

国連が示している訳だ

 

2015年に国連サミットで採択され達成目標は2030年だ

 

結構な内容に感じるけどこれ15年で道筋がつくもんかな

 

自動車の電動化や

 

太陽光パネル、発電用風車なんかを見る限り

 

そこにはやはり政治色の強さしか感じない

 

(もちろんエネルギーを輸入に頼る日本にとっては好都合なんだけど)

 

そもそも国連って西欧色が強い

 

化石燃料とITを軸にした経済のグローバル化は

 

莫大な資本投資の恩恵を受けた途上国の発展を促進した

 

途上国は急速に豊かさを手に入れ

 

先進国を脅かす技術力や開発力を見せ始める

 

かつて日本車が世界の自動車産業を脅かしたように

 

中国や東南アジア、そしてインドなどグローバルサウスと呼ばれる国々は

 

日に日に存在感を強め

 

すでに先進国はそれを脅威と感じているのだ

 

しかしそんな国々にはまだまだ弱い部分もある

 

爆発的に増える人口はGDPを押し上げこそするが

 

国民の大半は貧しい

 

コストの問題から化石燃料に依存する割合も高い

 

そこで今ヨーロッパが脱化石燃料へと舵を切れば

 

途上国はもう一度遅れを取る可能性があり

 

先進国は今後もイニシャティブを握り続けることができるという構図だ

 

―――いじめだ

 

だってこのまま行ったら地球環境は取り返しがつかなくなるんだから

 

しょうがないじゃん

 

ということなんだろう

 

 

17世紀ごろ地球規模の経済が胎動を始めると

 

人間の歴史は劇的に進み始める

 

紙幣の使用などはその象徴だが

 

時代の空気は科学的な興味をも変化させ

 

「類似」から「表象」へと大きく転換しながら

 

その後18世紀の末には、それを見る「人間」という概念が生まれ

 

興味の中心は必然的に「人間」へと移っていく

 

実を云えば人間への興味は富の時代が始まった16世紀ころから

 

すでに「人間」への興味は生まれつつあったのだ

 

それは資本家たちからは単に「労働者」としか認識されず

 

彼等の底知れない欲望の波に容易く飲み込まれ

 

20世紀に2度の世界大戦を経験するまで再び浮かんでくることはなかった

 

何と野蛮で自己中心的だったことか

 

政治も経済も科学もみんなみんな最低だった

 

その反省からヒューマニズムを掲げた考察もなされはしたが

 

結局は傍観者的な歴史の糾弾や視点のすり替えに走っただけだった

 

前世代の人たちの間違いだったのだ、

 

それはもう済んだことなのだ、とウソブキ

 

今度は核兵器というファンタジーで世界を黙らせ

 

巧妙に全体支配を続ける

 

そしていまグローバル化が進む現代においても

 

そのイニシャティブを握り続けるため

 

支配者たちが「地球環境」を提示し

 

いまや後ろから両手で無理やり頭を押さえつけて

 

無理やりにでもそちらへ全体を向かせようとしている

 

しかし、ミシェル・フーコーが予言したようには

 

「人間」と云うエピステーメーはまだ消されはしない

 

なぜならそれはまやかしに過ぎないからだ

 

いまこそもう一度、この世界に真の人間性を見出すべき時だ

 

古代ギリシア以来求め続ける人間の善を、そして人間の正義を

 

 

秋の野に咲く彼岸花や萩の花を見ていると

 

なぜ人間だけがこんなにも変化を求められるのか

 

なぜ金銭的な豊かさにばかり目をやり続けるのかと

 

もはや疑問を通り越してやり切れなさすら感じる

 

このまま人間の生活がテクノロジーに最適化され続けていけば

 

自然との関係性や身体性、偶然性、感情の揺らぎが徹底的に排除されてしまうだろう

 

その中ではもはや「人間らしさ」はノイズとしてしか扱われないのだ

 

あれもこれもみんな手に入れたい

 

ここへもあそこへも全部行ってみたい

 

これが欲しい、今度はあれが欲しい

 

ああ、金が欲しい

 

ああ、時間がない

 

これではまるで泳ぎを止めれば死んでしまうマグロだ(サメでもいいけど)

 

大丈夫だよ

 

立ち止まっても

 

死にはしない

 

そうすれば逆に今までよく見えていなかった自分の足元がはっきり見えるさ

 

そうだよ

 

わるくないだろ?

 

これで十分しあわせだ

 

 

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こんなの見たことないですか?

 

 

これ、コーナリングラインを示した図だと思うんだが

 

なんだろうね、違和感しかないのはボクだけか

 

 

このライン取りはサーキットを意識したものだというけど

 

こんなライン取りしてるの見たことないよ

 

レース中にこのラインならバンバンにインから突っ込まれる

 

いえね、もちろん云いたいことは理解してやるけど

 

減速しながらできるだけ深く進入してクイックに小回り

 

それはそのあとの直線的な加速を重視してのことなのだ(ろう)多分

 

でもね

 

これ、伝わるんでしょうか

 

そもそもこの図が示すライン取りは可能なのか?

 

そして、クイックな向き変え(バンキング)からの小回りって

 

もはや宗教的な呪文にしか聞こえない

 

かくいうボクはこのクイックなバンキングと小回りと云う呪文のせいで

 

何十年もコーナリングを理解できなかった

 

ハマるときは確かにあるが、多分間違いだ

 

それは体重移動がオートバイコーナリングの核心だという妄想が

 

ずーっと蔓延しているのと同じくらい深刻で

 

オートバイなんて基本、乗り手が曲がる意思を伝えれば曲がるのだ

 

ライダーはオートバイの曲がる効率を妨げないような荷重位置にいればよい

 

リーンに同調させて、時としてやや先行させて、姿勢を変えればよいだけの話で

 

歩いているとき、走っているとき

 

自転車に乗っているとき

 

それらと全く何も変わらない

 

歩いているときは何の意識もなしに体を捻って荷重移動させているのに

 

オートバイとなるとなぜあんなにも難しい「理論」になるんだろう

 

もしライダーの体重を移動させることでオートバイがリーンしていくのなら

 

シケインの切り替えしをどう説明するのか聞いてみたいものだ

 

(もちろん旋回効率の面では体の使い方は非常に重要になってくる、がしかしオートバイを公道レベルで旋回させるのにそこまでシビアな身体工学はいらないと思う)

 

サーキットであろうと公道であろうと

 

コーナリングラインは滞りのない滑らかな弧を描くべきで

 

ジムカーナですらその描くラインは美しく滑らかにみえる

 

 

 

実際にボクたちが走っているワインディングはこんなのだ

 

しかも深いコーナーには高低差がついていることが多い

 

ヘアピンカーブは多分たいてい勾配が強い

 

公道なのでサーキットのようなラインは取れないが

 

クルマよりは走行ラインに余裕があるだろう

 

コーナーの終端に向けて立ち上がる時

 

しっかりとアウト側へ向かっていない人が多いと思う

 

右コーナーではガードレールや側溝が怖いし

 

左コーナーでは対向車が迫ってくることもある

 

ただクリアな状況でもアウト側へオートバイが寄っていかないのなら

 

それはCP(クリッピングポイント)を取る位置が遠いと思う

 

特に浅いコーナーではそうなりやすい

 

(逆にヘアピンなんかの深いコーナーはCPが近くなりがち)

 

浅いコーナーに深く進入してクイックに回り込むと

 

CPがどうしても奥になる

 

そして立ち上がりのラインがそのまま直線的なので

 

アウト側に寄って行かない

 

公道はそれでよい、という人もいるだろう

 

安全が第一だからね

 

けれどコーナリングには滞りのないスピードコントロールも重要になるが

 

それはコーナリングラインの滑らかさ在ってのものだ

 

ちぐはぐな走りはリスクを呼ぶ

 

ボクはそう思う

 

 

もう一度実際のワインディングを見てみる

 

グーグルマップの画像だが上手く曲がれないコーナーを

 

こうして上から眺めてみるとCPの位置が深すぎたり浅すぎたりに気づける

 

このカーブは見てのとおり相当深いコーナーだ

 

こういう時逆にCPが近くになりすぎておっとっとになりやすい

 

最適と思われるCPに目星をつけたら

 

ストリートビューで実際の目印を探すとコーナリングのヒントになる

 

 

これはこのコーナーに近づいた位置

 

速度によってはブレーキングを開始するかもしれない

 

実際は下り坂なのでトレールブレーキが有効だ

 

 

短い橋が架かっているがすでに曲がり始めている

 

この橋の向こうで強く曲がって見えるので

 

旋回を始めたいが次の画像を見るとそれがまだ早いとわかる

 

全く先が見えず、しかも曲率が強まっている

 

橋のすぐ先(赤丸の位置)でクリップさせスロットルを当てていたら

 

そのあとすぐに「深い!」と焦るかもしれない

 

 

前方の道路の右側だけど支柱が2本見える

 

手前の背の高い方は街灯だが

 

このイン側あたりがCP(緑丸の位置)になる

 

とすると青丸の位置辺りが向き変えポイントになるだろう

 

 

クリッピングポイントを過ぎて

 

いよいよトラクションをかける

 

スロットルをスパッと開けて強く後輪をけり出す

 

 

この写真の位置では明らかに曲率が弱まっている

 

シートやタンクに触れている部分に強く荷重がかかり車速が乗っていく

 

 

もうコーナーの終わりが見えた

 

深く進入するために強めた減速も

 

この部分の強い加速で一気に快感に変わるだろう

 

 

青丸は旋回ポイント(向き変えポイント)

 

ブレーキを引きずりながらスピードを殺し

 

当て舵でこの旋回ポイントを目指して進入していく

 

赤丸の位置でクリップしたくなるが

 

ブレーキを引きずりながら当て舵を続ける

 

向き変えポイントで当て舵を弛め緑丸のCPへ向けて旋回する

 

 

カーブが始まるポイントをしっかりと見極め

 

ゆっくりと当て舵を保持してリーンを始め

 

CPとカーブの終端が見えてくるまでブレーキを引きずる(トレールブレーキ)

 

CPが決まったら当て舵を弛めて一気に旋回

 

正しくCPを設定できていれば

 

車体はきれいにアウト側へ弧をつないでいく

 

 

コーナーのイン側線が描く弧よりも

 

オートバイが描く弧の方がゆるくなるのは当たり前で

 

アウトインアウトはそのための基本だ

 

わざわざ鋭角なラインを取り入れるなんてナンセンス

 

最初に見せたような「概念図」は理解しようとする人を混乱させるだけだ

 

もちろんもっとも重要なのはスピードの抑制だ

 

カーブの曲がりに適した速度まで減速する必要がある

 

ただ実際の限界スピードはかなり高いところにある

 

マン島TTを見ればそれは一目瞭然で

 

他の交通や路面状況が担保されていれば

 

あんな次元のパフォーマンスを出せる

 

公道での減速は予期せぬ路面状況への対応や他の交通への配慮から必要なのだ

 

公道で競い合うのがナンセンスなのは

 

安全への意識の次元は各自異なるレベルだからだ

 

遅いのではなく安全意識が高いのであって

 

速いのではなく安全意識のネジがパーなのだ

 

 

けれど高いスピードでなく

 

公道レベルのスピードでもしっかりとオートバイに荷重を乗せた

 

気持ちの良いコーナリングは体験できる

 

そのためにも向き変えポイントやクリッピングポイントは重要な要素で

 

雨の休日なんかグーグルマップで自分のラインを検証するのは楽しい

 

いかが?

 

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年齢的な要件でオートバイの運転に違和感をもったり

 

なぜだか周囲の人間から止めるように窘(たしな)められたりと

 

老いてもなおオートバイ(もちろんクルマもだが)を運転し続けることは

 

社会問題とまで云われるようになっているのが現状だ

 

該当年齢を迎えた人

 

該当年齢に近づいている人

 

ともに何となく肩身の狭い思いをしているのではないだろうか

 

一方では現実として中高年のオートバイ事故も率としては確実に増えている

 

中高年のオートバイ事故は

 

「リターン(ライダー)」と「マス(ツーリング)」の問題だとボクは考えているので

 

確率が示すこのバイアスにどれほどの意味があるのか甚だ疑問だ

 

何パーセントであろうと当事者は当事者だし

 

そうでない者は当たり前だがそうではない

 

飛行機で事故死する確率は580万回に1回(0.000017%ちなみにジャンボ宝くじよりは当たる確率が高い)

 

非常にわずかな数字だがその飛行機に乗っていればほぼ助からない

 

確率なんて直面する状況ではいつもリセットされているみたいなもんだ

 

そもそも中高年だから、気を付ける訳ではなく

 

道路を走る人は歩行者も含めて最大限に気を付けるべきなのだ

 

 

前回、法に基づいて交付される免許を受けている以上

 

運転する資格、能力を有しているはずだし

 

またそうでなければいけないと前提した

 

公道を利用するものが法規を遵守する義務は当然だが

 

事故を防ぐことも義務に近い

 

交通安全は努力義務ではなくて判然たる義務だ

 

「事故」というとなんだか向こうからやってくる

 

回避不可能なものだと思っているフシがある

 

しかし対人、対物ともに事故には過失の多い第1当事者が存在するように

 

原因を作る側がいるのだ

 

この原因を作る側にならない意識を強く持つことは非常に重要だ

 

センターラインを無自覚のまま習慣的に割り込む運転や

 

合図の不履行や遅れ

 

TPOを無視した非常識な速度超過

 

優先走行車にブレーキを踏ませる合流車、右折車

 

こういった行為が事故を引き寄せているのではないだろうか

 

もちろん単独の自爆事故なんて問題外だ

 

そんな輩は今すぐ運転を止めたほうがいい

 

それでも本当に事故の原因の一つが高齢ドライバーなのだろうか

 

一括りにしてレッテルを張り

 

思考停止のまま議論を打ち切る現代人の悪いクセだ

 

 

今乗っているオートバイが自分には大きすぎるんじゃないか、と云って

 

もっと小さくて取り回しのいいものにしたい、とか云うおっさんたちを

 

「ただ新しいオートバイが買いたい」という苦しい言い訳だと

 

前回は切り捨てた

 

まあこれまでのオートバイライフにおいて

 

都合32台もオートバイを買ってきた自分が云うもオコガマしいとは思うが

 

「体力の衰え」をいい訳にしてオートバイを買おうなど

 

老トルライダーの風上にも置けぬというものだ

 

欲しいなら買え!

 

理由などそれで十分だ

 

オートバイなんてそんなもんだ

 

それに多くのオートバイを経験することは

 

確実にオートバイへの理解を深めてくれる

 

 

そんなこんなは様々あったとしても

 

老いて、体力面の問題でオートバイを諦めるのかどうかを

 

ダウンサイジングという視点で考え直してみるというアプローチは

 

今後ますます一般的になるかもしれない

 

80歳の自分の体力や認知力など想像では理解できない

 

実際にオートバイの取り回しがしんどくなった時

 

「もう少し(車重が)軽ければいいのに」とは考えるかもしれない

 

けれど良くも悪くもレプリカ世代のボクたちが

 

オートバイなら何でも良いということは有り得ないんじゃない?

 

 

ボクがオートバイに乗り始めた1980年頃は

 

自動車免許の普及一般化が進み

 

二輪ではその普免でも乗られるソフトバイクと云われる

 

女性向けの原付が大当たりしていた

 

テレビコマーシャルに女優さんや外タレを起用するほど注目され

 

国内2輪メーカーはシェア争いに突入していった(俗にHY戦争と云われる)

 

こうして2輪車が身近になることで

 

若者を中心とするバイクブームへとつながっていくが

 

しかし、一方で交通戦争とまで云われた交通事故増加を背景に

 

大型2輪車への規制は強化され(メーカーによる馬力の自主規制も始まった)

 

中型限定(排気量400cc未満)免許の導入や教習制度の見直し

 

また全国的に高校生には2輪を禁止する「3ない運動」も広がった

 

国内市場におけるシェア争いは中型を中心に展開され

 

2スト250ccと4スト400ccはパワー競争という

 

わかりやすくも不毛な戦いへ突入していった

 

400ccが48psから水冷化されて59psへ

 

250ccの2ストは最高馬力が45ps(メーカー自主規制値)だが

 

トルクは3.8kgf-mと400ccとまったく遜色なかった

 

実際2スト250ccのダッシュ力は車体の軽量さもあって異次元で

 

公道のスポーツバイクはおそらくこれが最適解なのだと今でもそう思う

 

 

「いま、私と出逢えるライダーは幸福である。」

 

とは88NSR250R(NC18)のカタログにあったコピーだが

 

正にあれを経験できただけでも20世紀に生まれてよかったと心から感じるほどだ

 

それは良いのだが

 

結局その頃のボク等はメーカーの戦略にどっぷりと嵌り込み

 

オートバイについてまともに考えようとしていなかったと思う

 

思い返せばメーカーもそんな尖ったモデルばかりではなく

 

今見ると興味深い面白いモデルも確かにしっかりとラインナップしている

 

けれどごめんなさい

 

あの頃のボク等にはまったく目に入らなかったのだ

 

 

20代も後半になって

 

このまま免許制度を言い訳にして

 

400ccに甘んじていることへの疑問が湧いてきた

 

大型に乗った経験もなく中型に乗り続けるだけでは

 

本当にオートバイを理解したことにならないだろうと思ったのだ

 

巨摩群は普通にCB750Fに乗っていたし、聖秀吉は750カタナなのだ

 

しかし限定解除試験は難関だった

 

というより未知の領域だったのだ

 

合格率2パーセントとか云われて運転免許の中でも難易度が高かった

 

試験場へ見に行くと確かにほとんどの人が試験中止だったし

 

完走しても合格者は出なかったりしていた

 

けれど中型限定という条件付きの免許は

 

「下手くそにはナナハンは無理無理」と云われて

 

大人しく引き下がっているようにも感じたし

 

本当にこの先もオートバイに乗っていくのなら排気量の壁は取り去っておきたかった

 

幸いなことに大型2輪免許制度の改正に向けて自動車教習所でも準備が進み

 

限定解除試験向けの練習場として開放され始めた

 

ボクの近所にも試験場と同じレイアウトの練習場が出来たのでしばらく通った

 

なぜだかそこの先生はみんな厳しくてつらい練習ばかりだった

 

S字と8の字を延々と後ろから追われながら走ったり

 

1速のままコースを走らされたり

 

ハンドルをフルロックのまま曲芸のように延々とクルクル回らされたこともあった

 

しかも褒められることはまずないしね

 

あの頃はそんないい時代だった

 

おかげで無理だと決めつけていた限定解除試験に2回で受かった

 

1回目で完走できたけど優先道路へ合流する左折で

 

ギア抜けしてバランスを崩した減点が大きかった

 

 

練習場に通っている間

 

つらい練習の日々のモチベーションアップのために

 

レッドバロンへよく中古車を見に行っていた

 

ジェネシスエンジンのFZ750とか気に入ってたけど

 

結局、カワサキ好きだった流れでカワサキ初のTT-F1レプリカ

 

ZXR750なんて買ってしまった

 

当たり前だけどこいつ滅茶苦茶速くて狂暴だった

 

中型のレプリカなんて「騙されてた」とすぐに思った

 

そこからさらにオートバイ漁りは続き

 

最終的にZX12Rにたどり着いてようやく目が覚めた

 

 

その頃のボクのアベレージスピードはヨーロッパレベルで

 

今こうして誰も傷つけず自分も生きていられることに感謝したい

 

本当に反省と贖罪の日々だ

 

サルにパワーを与えるな、ということらしい

 

そのあと反動でボクはオフ車で山の中を走り回ることになるが

 

オフロードを求めて四国や紀伊半島へと遠征するうちに

 

長距離ツーリングに嵌ることになる

 

根本健、永山育生両氏に触発されてBMWにたどり着いた

 

それほど興味はなかったけれど

 

実際に走り出してみると

 

それはようやくスピードとパワーから解放されて

 

純粋にオートバイを走らせるよろこびに目覚めた瞬間だった

 

 

買い物に出たり病院に通ったりなら原付(原2も)でいいかもしれないが

 

楽しみでオートバイに乗るのにそこまで落とすと多分すぐ飽きる

 

APE100がかわいくて都合2回も買ってしまった経験があるし

 

仕事の都合でマジェスティCに乗ったこともある

 

なんとなく大型を遠ざけてエストレヤを乗り回していたこともある

 

けれど原2や軽2ではボクは満足できなかった

 

のんびりトコトコ、なんて無理だ

 

脳内の進む速度と実際の速度のズレが大きくて

 

どんなに見かけがかわいくてもイライラしてくる

 

駆動力!

 

駆動力がグッーと欲しいんじゃー!

 

もちろん現在でも2スト250こそベストだと思っているが

 

今となってはもう現実的ではないので諦める

 

ボクがもしダウンサイジングするのなら

 

「最低ライン」はエンジントルクが3kgf-mだということか

 

車重が200kg切っていれば2.5kgf-mでもいい

 

経験的にこれがオートバイに求める最低条件と最近は感じている

 

もちろん車重は軽いほうがいい

 

軽さはすべてに勝る

 

トルクが6kgf-mを超えていて車重が200kg

 

現行の600cc前後が公道を走る市販車のベストバランスと思うが

 

年金暮らしにはちと値段が高すぎる

 

だからダウンサイジングの最低ラインで云えばヤマハのMT-03あたりか

 

中古車を視野に入れれば選択肢は広がるから

 

エンジンの形式とかまで考慮できるかもしれない

 

 

ただ繰り返すがこれはボクのオートバイ歴も踏まえての考えだ

 

だからオートバイのスペックや外見に求めるものは

 

人の数だけあるはずだ

 

ただ単純に、取り回しがしんどいからダウンサイジングして、は

 

オートバイを知らなさすぎないか

 

もっとこだわって欲しい

 

だって好きでオートバイに乗っているんでしょ

 

好きなオートバイのためなら腕立てとスクワット

 

できるよね?

 

結局、コレ

 

 

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