波動の合わない人と
話が通じない。
こんな現象ってありますよね。
一つの言葉でも、
相手の観念(クセ付いた思いこみ)次第で
光が屈折するかのように
変化球になって受け取られて
「そういう話じゃないけど。。。まあ良いか」
のようになる。
そういう現象です。
スピリチュアル的に言うと
同じ舞台上にいるのに
違うパラレルに居るような感じかもしれません。
聖書でも似たような現象があります。
同じ「聖書」という媒体なのに
自分の素直さ次第で
違うものが見えてきます。
自分が思春期の頃は、聖書に対して
「十戒」とか「十字架」とか「罪」とか
〝この話、超重いんですけどぉ~~〟
という印象が圧倒的でした。自分が、そういう目線を無意識に持っていたためです。
そういう意味で、
今日取り上げる箇所の受け取り方は
(この捉え方が正しいと言いたい訳ではないんですが)
分かち合える人が少ないかもしれません。
ローマの信徒への手紙7章です。
「罪」と「律法」について
潔く書かれています。
これまた口語訳が秀悦なので、
合わせて読みたいと思います。
(太文字は聖書、下の文章は私の翻訳、≒以下はスピリチュアル的要約です。)
7:1
それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。
律法って、生きてるとき限定のものなんだけど〜、
7:4
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
キリストの体に結ばれると、
律法に対しては、死んだも同然になるんだよね〜。
(≒ハイヤーに結ばれれば、How to とか掟とか関係ない次元で生きるよね〜。)
7:6
しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
私たちはもはやキリストに結ばれたから、自分を縛ってた〝律法〝っていう「あーだこーだ」の細かいレシピからは解放されたんだよねー!
だから、霊に従う生き方、いわば「良い塩梅」で生きていけるようになったのよ〜。
7:7
それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
じゃぁ、「律法」なんて無ければよかったっていうこと?いいえ。そうじゃなくって。
あーだこーだという「律法」「すべき」があったからこそ、私たちは「罪」=「神の的を外れること」を知れたのよ。
そもそも、掟があったから、掟をやぶるということを知れたのね。だって、そもそもは〝素直さ〟しかなかったんだから。
8(新共同訳)
ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
「すべき」という掟によって、人は「神の意思を外れる」ということを体験できたのよ。
掟によって、私たちはあらゆる種類のむさぼり(的外れ)を体験できたわ。
「掟」がなければ「罪」って成立しないのよ。だって「すべき」がなくなってしまえば、「的外れ」の体験だって消滅してしまうんだもの。
(≒観念があったからこそ、ハイヤーと不一致になる経験が出来たので、律法もまたよかったよね〜。)
9わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
かつての私たちは善悪を知らず、律法と関係なく生きていたの。でもね、善悪を知る実🍎を食べたことで掟が登場したのよ。それで、罪が生き返って、
10わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
罪が生き返ったことで、私たちは死んだのよ。生きるのに役立つはずだった「掟」によって、罪(的外れ)を得て、その〝罪〟が熟して〝死〟に導かれるってことを知ったわ。
11罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
罪(的外れ)っていうのはね、
「掟」によって存在しうるんだけど、
「掟」は正しそうな顔をして私たちを欺いて、 それによって私たちを殺すのよ。超怖いんですけどぉー。
12こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
そういうわけで、律法は聖なるものだったの。
( 意味わかるかしら? )
13それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。
へ?じゃあ、聖なる善いものによって私たちは死んじゃうわけ?
決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
いやいや、そうじゃなくって。
そうやって、罪(的外れ)によって
死ぬほどに苦しむことで、神の導きに外れること(罪)が、どんだけサイアクなものか、分かるんだってこと。
[神と離れるってサイアクゥ〜!]って分かる。それこそが、「律法」の最高に善いところなわけ。
16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
もしあなたが、あなたの心が望まないことをしているのなら「律法」自体を、善いものとして認めているっていうことよ。
17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
でもね、その、望まないことをしているというのは、自分自身ではなくて、自分の中に住んでいる「罪」なのよ。
(≒望まないことを選択するというのは、もはや自分ではなく、意識の中にある「カルマ・観念」がやっているんだよ。)
18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
私たちって、自我の中(肉)には神の意思(善)なんて住んでいないって、分かっちゃいるんだけど、
肉体を持ってる以上、つい罪(≒カルマ・観念)に翻弄されて行動しちゃうんだよね。
19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
だからつい、自分の本心が望んでいる「神の栄光をあらわす行い」をせずに、的外れなことばっかりしちゃうんだよねー!はい、ウッカリさん!
20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
だからね、罪を犯すのも本心じゃぁないんだー。
21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
善悪を知る実🍎を排泄しない限り、
つい体の内にある毒から行動しちゃうの。
素直な心でいようと思っても、罪がつきまとってウッカリしちゃう!っていうのはある意味法則ね。
22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
本心では私だって、神の法則が第一なの。
23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
でも、体の中に罪の法則が働いちゃってるんだよね〜🍎仕方なし〜!
24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
ホント、悪気無いのに超かわいそうなアタシ!
だれか助けてーーー!
25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
私たちって、そういうとこあるけど、神とイエスの完璧な愛が、そんな私たちを導いてくれるんだよね!マジ感謝ー!
っということで、
ローマの信徒への手紙7章 翻訳版!でした。
「律法」は、神の導きに反する苦しみを知るために善い物だった。そんなふうに捉えられて大納得!の箇所でした。堅苦しいので、ついつい楽しく書いちゃいました。
教会ではそんなふうに言ってないかもですけどね〜。
「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
ローマの信徒への手紙 7:16-17

