こんにちは。
聖書好きの知音です。
(いかにもクリスチャンホームな名前なんです)
 
 
 
 
 
また、感動的な聖書箇所に出会ったので、ブログを開いていましたが、なんだか今日は個人的な話を書いてみたいという気分になりました。
 
 
 
 
子供と信仰の話です。


私が10〜13歳くらいの頃、
主に牧師家族の集まる〝修養会〟という夏のイベントに参加していたのですが、
 
 
 
そこで〝信仰告白とは何だと思うか?〟というグループワークを子供たちの中で、したことがありました。
 

 

友人たちは〝喜び〟だとか、〝大人〟とか〝早くしたい〟とか〝憧れ〟という、ポジティブなことを挙げていたような記憶があります。
 
 
 
 
自分はというと、こう答えました。
〝義務感を感じるもの〟
 
 
 
 
教会の子供として生まれて
キリスト教は〝信じなければいけないもの〟として、信仰告白は〝大人に期待されている事象〟として捉えていたんですね。 
 
 
 
 
修養会で、同じように教会を重荷に感じている子供と出会えるのでは…という、淡い期待は崩れ去り
 
そのワークでは、驚くほど従順に親の信念を鵜呑みにする子供たちとの隔たりに寂しさを覚えたものでした。
 
 
 
 
クリスチャンの皆様、周りの思春期の子供たち
信仰に葛藤されたりしていないでしょうか。
はたまた、ご自分自身は如何でしたでしょうか。
 
 
 
 
家でも、教会でも、学校でも
分かち合える価値観を見つけられずに
孤独を感じる子供時代を過ごされた方はいないでしょうか。
 
 
 
正直、私の周りには聖書の本質を語る大人がおらず、キリスト教に対する喜びを感じることはありませんでした。
 
 
 
 
周りの大人たち自身が、本質の教えによっては
救われていなかったのだと思います。
 
 
 
 
ですから当然、聖書がこんなにも素晴らしい本質を抱えているだなんていうことは、知る由もなく
 
■友人と違う、十字の付いた家に住む自分
■日本文化と違うものを教わる自分
■社会の授業では、踏み絵の話を振られる自分
 
多感な子供には〝はみ出し物〟の意識だけが
強く覆いかぶさって、ポジティブなイメージを持つ隙さえなかったんですね。
 
 
 
 
 
 
〝2000年も伝わってきている聖書なのだからキリスト教は本物に違いない〟と、半ば強引に自分を信じ込ませようとしていた時期もありましたが、結局本心は動くことがありませんでした。
 
 
 
 
そんな風にして、今も日本のどこかに
葛藤を抱えたクリスチャンファミリーの子供がいるんじゃないか。そんなことに思いを馳せる自分に気づきます。
 
 
 
思春期から青年期の若者と
この聖書の本質について分かち合って語り合いたい欲求もあるのですが、
   
 
 
 
自分が当時味わった、
劣等感にも似た、はみ出しものの意識
溶かしたい部分もあるのかもしれません。
 
聖書は本当に素晴らしい。
あなたの触れているものは、本質なんだと、
当時の自分に語りたい部分もあるのかもしれません。
 
 
 
◼︎子供の頃、大人から聖書の実践的な素晴らしさを聞きたかった。
◼︎子供の頃、現実の体験として
聖書を語ってほしかった。
 
 
 
昔話としてではなくて。
字面だけではなくて。。。!!!
 
 
 
そんな思いを思い出した今日でした。


大人になった今、私が
子供の自分の望みを叶えたい。  

だから、これからも
聖書の実践的な素晴らしさ
■実体験としての聖書
 を綴ります。



最近のクリスチャンティーンは
いかがお過ごしでしょうか。
相変わらず素直にしていますか?
 
 
 
知音