今日は
人間関係に恵まれるって、
やっぱり「目の中の丸太を」
いかに抜くかにかかっている
っていう話。
「友達から誘われて再就職する~~」が叶って
(医療特有の細かなこだわりもクリアでした)
あれから1か月が経ちました。
そこで感じたのが、
びーーーーーーっくりするほど
人間関係が良好だということ。
尊敬するしかない人たちばかりが
揃っているということです。
アンポンタンな私に対して、
心の底からジャッジのない方達なんですよ。
(わたし、エネルギーに敏感なので…)
優しいがすぎる!感謝です。![]()
これからも
課題は与えてもらえると思うし、
自分の目の中の丸太は
すべて外したいと思っています。
今後、何が起きても受け入れるけど…
ただ今は、
「自分を取り巻く環境が史上最高にいい。」
そう感じています。
一般的には
✔女社会
✔医療関係
これは、お局様の匂いしか
しないものなんですよ。
医療関係のみならず、
再就職で苦労される女性の大半は
ここかもしれません。
・看護師さん
・介護士さん
女性中心の職場を生き残るには
以下の3択だと思います。
①修羅の道を我慢・無視できる、鋼のメンタルを作る
(ただ、身体にはストレスが溜まっていく)
②要領よく人柄をかぎ分けて、うまく立ち回る
(ただ、歓びが湧いてくるわけではない)
③運を磨いて、良い職場に当たる
わたし昔は①だったし、
最近は割と②だったし、
それでいいとも思っていたんですけど
自分の目の中の丸太を抜き続けたら
③キターーーと、今のところ思ってます。
(1か月とは言え、割と人を見抜く目があるタイプだと思ってる)
改めて書くと、
いいんですよ。今後、何が起こっても。
最高のことしか起こってこないですからね。
(わたしたちは最高のものしか与えられていない。マタイ7:9)
共同生活15年。
夫との関係も、またひとつよくなりました。
(夫はアスペルガー気質なので、
カサンドラになるリスクもある立ち位置なんですけど、
これも聖書実践のお陰様でうまくいきます。)
最近、食事に関して地味にストレスになり始めていたんですけどね。
「食事を心地よいスタイルに変化させる~」
ってオーダーしたら
※ 自分でもイメージ湧いてない
・夫が自分でお弁当を詰めていくスタイルに変わり、
・食事はビュッフェスタイルに変わりました。
・スーパーはやめて生協のネット自動注文。
各自が自分の世話をするようになりました。
これが超らく。
こんな日常の細々したことも
ちゃんと神様って叶えてくれるんですよね。
しかも、自分がアイディアを持っていなくても
自分に何が合うのか分かっていなくても
私たちのことを自分以上に理解してくれているから、
流れに身を任せて、
神と繋がって(ヨハネ15:4)聞いていればいいの。
「自分に合うやつ、よろしくー!」ってね。
私、平行して接客業もやってるんですけど、
新人さんから、教育を「ご指名」されるんです。
これは自分でいうのもなんだけど、
「裁き」のエネルギーをかけないから、
若い子もやりやすいんだと思うんですよね。
人間というのは多くの場合、
それを使って人をジャッジし(裁き)
そこから人間関係のモヤモヤやゴタゴタやが始まるので、
人間関係に恵まれるって、
やっぱり「目の中の丸太を」
いかに抜くかにかかっていると思っているんです。
※これの良いところは、
「抜いた丸太」に後戻りは無いということ。
同じテーマ(丸太)で人間関係のトラブルは二度と起こらないということです。
それは、上記のように
裁きのエネルギーを手放すことでもあるんですけどね。
(で、ここから余談っちゃ余談なんですが)
そうすると最終的に、聖書的には、
“完全なものがきたとき”
“顔と顔を合わせてみるようになる”
世界線に立つってことに、
繋がっていくわけなんですよ~。
※いつも、マタイ7章(丸太の箇所)を読むと
この箇所(コリント13章)がリンクして思い出されます。
↓↓↓
「わたしたちは、今は、
鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがその時には、
顔と顔を合わせて見ることになる。」
この箇所は、キリスト教的には
「神」と「人」が顔と顔を合わせる
と解釈されたりもするみたいなんだけど…
(ERV訳:この目で直に神をみるときがくる)
実はここ、原文には主語も目的語もなくて
実は断定されていない箇所みたいなんですよね。
顔と顔…
は、誰の顔なのか?
現代人の解釈に
ゆだねられているっていうことなんですよね。
どう思います?
そして、
「鏡におぼろに映ったものを見ている。」の部分も、
おぼろに映った
何を見ているのか?
目的語がハッキリしないみたいなんです。
ギリシャ語で目的語が省略される場合、
「文脈上あまりにも明白」か、
「全体・あらゆる対象を包括」しているからだそうです。
つまり「全て」のこと。
わたしたちは今、
鏡に映った全てを
おぼろげにみている
そして、いずれ、
完全なものが来た時に
はっきりと
全てとはっきりと
顔を見合わせることになる。
“完全なものがくる”というのは、
※完全なものが来たときには(コリント1 13:10)
ギリシャ語の原文で「ト・テレイオン」
テレイオンとは、
1.目的に達した状態
2.成熟・大人になった状態
3.欠けたところのない調和
のこと。
現代のキリスト教的には、
「再臨」とか「新天新地」が起こり
世界が天国になるような、
外側のストーリーを期待しているのが
割と一般的だと思うんですが、
天国はいつも、
「救世主が現れて、平和にしてくれる場所」とか
「死後に行く素晴らしい場所」
ではなくて、私たちの意識の中にあります。
(ここで言う、あなた方の「間」=原文・エンティスは、内側・心の中の意もあります。)
だから、要はどういうことかというと、
「ト・テレイオン」
成熟・大人になった状態、
調和した状態になったとき
=完全なものが来るとき、
つまり、自分の目に大きな丸太
(自我の偏見・裁き・恐れ・執着など)
が外れ調和したなば、
はじめて、すべての顔
(真実・そのもの自体)をみることができる。
ただ、今は、
(目の中に丸太がゴロゴロしているから)
鏡に映った全世界をおぼろにみえていて
すべてに対してそのものの実体を見ることができていない。と。
丸太が抜けきるほどに、成熟したのならば、
ありのままの(美しい天国のような)世界を
見定めることができるであろうと。
そういうことだと思いません?
私にはそう読めるんです。
実体験上でも、
ホントに丸太を抜けば抜くほど
フィルターを外せば外すほど、
ありのままが見えはじめるし、
自分の世界が天国になっていくんですよね。
(世界は自分の心=エンティスの投影なのでね。)
フィルターを抱えた人たち同士では、
フィルターがゆえに世界が歪んで見えて、
世界(他者や環境)に痛みを感じ、
被害者意識で争いになることも多いのです。
まさに地獄絵図ですよね。
それが、今の地球。
仏教でも
ありのままをみることができるのは
ブッダくらいのものであるとも聞くように、
「色即是空」「如実知見」のように
私たちが幻想をみていることや
ありのままをみることの難しさを解かれています。
教会に行くと、
「戦争している国に平和が訪れますように」という祈りをよく聞きます。
30年前からそうでした。
世界平和を願うなら、
ひたすら自分の丸太を抜いていくこと。
それしかないと、思うんですよね。
私たちの願いは聞き届けられています。
オーダーによって与えられた今を受け入れて、
丸太を抜いていくのが良いと思うんです。






