この間の、

「望みは叶えられる」はずなのに、

何故その精度には個人差があるのか?

という話の続き。

 

 

 

 

 

 

そもそも現生利益と聞くと

なんとなく聞こえが悪いんですけど、

 

自分の花を咲かすことは、

神も世界も望んでいる自然なことだと思うわけなんですよ。

 

自然の中で湧いた望みは

無理なく叶えられて当然

なのものなのだと。

 

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ところが、

求めれば叶うはずのものの結果が様々であるとき、

大きな原因になっていると思われるのは

いかにブレーキを踏まずにいられているか?

ということです。

 

 

 

 

 

・こうじゃないと、愛されない(条件)

・こうじゃないと、うまくいかない(条件)

・こうじゃないと、叶ってはいけない(条件)

・絶対叶わない(否定)

・そんなことは起こらない(否定)

・叶わなかったらどうしよう(恐れ)

・どうにか叶いますように(執着)

 

そんなふうに無意識に観念のエネルギー

望みへのブレーキを踏んでいるのが私たち。

 

それだと、

叶うものも叶いにくくなるんですよね。

 

 

 

 

 

 

一時期、 

大病を奇跡的に完治させた人たち

研究していたとき、共通点をみつけたんです。

 

 

 

 

 

 

それが、望んだ後、

ブレーキを手ばなしていたということでした。

 

 

 

 

 

 

 

望みへの抵抗がなかったんです。

どちらでもいいんですけど、

ブレーキから足が離れていたんですよ。

わたしが思うに、2つのパターンが見えました。

 

 

 

 

 

①サレンダーパターン

・完全に諦めてお手上げしていた

・病気なんて知らん!と忘れて楽しんでいた

 

②信頼パターン

・絶対叶える(治す)と決めていた

・叶う(治る)ものだと思っていた

 

この2つのパターンです。

 

 

 

 

 

 

この間のヨブの話にもあったように、

ヨブが幸福を望んだのに災いが来た

というように、

 

 

 

 

 

 

 

宇宙を流れる愛って大抵、

望みを放ったあと最初に、

望みへのブレーキ外しなさいよ!っていう

導きを送って来るんですよ。

 

 

 

 

 

きっと神の目線ではそれが、

花が軽やかに幸せに咲く条件だからなのですが、

人間の目には災いに見えるんです。

 

 

 

 

 

 

だって、望みを叶える時に、

私たち人間が非協力的にブレーキ踏んでいたら

流石に、ちょっとブレーキ外してよ!

ってアドバイスされますよね。

 

神が導く自動運転の車なのに、

理解を超えた導きが怖くて怖くて

ハンドルを握って離さないし、

ブレーキ踏みまくりなのが人間なんですよね

 

抵抗して人間がブレーキを踏めば踏むほど、

「災い」は痛みを生じます。

 

 

 

 

 

 

望みへのブレーキ外しなさいよ!という導き

の、言い方を変えると、

「丸太を抜くことに心開く」ということ。

 

そう。マタイによる福音書の丸太です。

 

 

私たちの目の中には丸太が何十本と入っていて泣き笑い

 

丸太があればあるほど、世界が歪んで見えて、

望みへのブレーキになる上に

ヨブで言う「災い」が来ます。

 

 

 

 

 

 

この、丸太を抜けば抜くほど

ブレーキによる抵抗が減って、

望みも自然と叶いやすくなるように感じています。

 

 

 

 

それでも、

叶えるために、丸太を抜くのでもなく

叶えるために、サレンダーするのでもない

わたしは思っています。

(それすら作為・不自然だから。)

 

 

 

 

 

 

いつも、神の導きに

応えていさえすればいいのではないかなと。

心配しなくても、

人生は丸太を抜く導きのオンパレードですしね泣き笑い

 

 

 

 

 

本心に素直に、

そして与えてもらった運命を全肯定して

丸太を抜くためのギフトを

受け取っていればいいのではないかと。

そんなふうに感じます。

 

 

 

 

 

わたし自身実践者ですし、

まだ素直になる余地が沢山ありますが、

 

神の導きと一体になり

神の御心をこの世になせますように。

神の愛をこの世界に体現できるように。

と、望んでいます。

 

どんどんと、宇宙の愛のお陰で

シフトしていけますように。

神の愛そのものになっていけますように。