こんにちは!
聖書大好き、知音です。
今日は、私がこのブログを
運営している理由について書いてみようと思いました。
…
突然ですが私は、
「〝実践的な〟聖書の学び」を
教会の若者(心が若者ならウェルカムです)と
分かち合いたいと思っています。
私は、日本の教会にいる人達が
幸せ溢れていくことを望んでいて、
その魅力で日本中の人達をふりむかせるくらいになったらステキだななんて思うんです。
教会員の方たちが不幸だとか
パワーがないと言いたいのではないですし
人間的に尊敬する方も沢山いらっしゃるのですが
ただ、今の「キリスト教」はどこか
聖書の本質的な愛からズレているのでは?と感じるところがあるのです。
(私が存じ上げないだけで、皆が皆そうではないと思います。私の勝手な戯言ですので、どうぞお気になさらず。)
今、
教会の若者不足が進んでいると聞きますが
それは、彼らの素直な感覚で
魅力を感じないというのが正直なところかもしれません。
私はキリスト教に力が集まることを
望んでいるのではなく
教会に集まる人に
幸せが多くあることを望んでいます。
私にとって教会は故郷のようなところだから、かもしれません。
繰り返しになりますが、
教会の人達が幸せに満ち溢れて、その魅力で人々をふりむかせるくらいになったらステキじゃないですか?
神の愛によって、人が振り向く。そんな瞬間です。
「わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。」 コリント人への第一の手紙 13:11-12口語訳
とありますが、
誤解を恐れず言うと、
教会の大人たちが
心と心で関わって、顔と顔で
出会っている様子を感じるでしょうか?
子どもの頃から、よく思っていたことがありました。
素直な、子どものような心同士の付き合いが
そこにあるんだろうか?と、いうことです。
心のない関係がそこにあっても、なくても
全くの自由なのですが
ただ、教会の中のトラブルを見るにつけ聞くにつけ
聖書の本当の実践的な救いが
伝わっていないような気がしてならないと感じることがあったんですね。
聖書は、ただの昔話ではなく
ただの経典でもなく
今ここで活きている法則・愛・エネルギーのように感じます。
だからもちろん、古くなることはありません。
なのに、当時の私のように
〝何か、ありがたいだろう、他人事の話〟
のように字ずらをなぞっていることが多くはないでしょうか。
聖書の教えは
〝万有引力の法則〟くらい当然に働いています。
この感動的な体感を
特に教会の人たちと分かち合いたいんですよね。
そんなことを思いつつ、
今は、身の回りの人から
小さな分かち合いを楽しんでいます。
やっぱり私は聖書が好きです。
今日は、
活動への思いについて書いてみました。
それではまた!
知音