german culture
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移民、越境する人々の故郷へ

ベルリンの壁が崩壊して、35年。

 

 まだ10代だった頃、テレビでベルリンの壁崩壊のシーンを見て、ベルリンの壁の向こうの世界が気になって、早35年。

80年代はイギリスや英語圏地域、90年代はドイツやドイツ語圏地域、

2000年代は上海と香港、2010年代は台湾と中国語地域に入り浸っていた。

 

 我ながら、ヨーロッパとアジアの間を行き来しつつ、刺激的な時代を生きてきたと思う。

 

 昨年の9月、僕ははじめてルーマニアに入国した。コロナ禍の後、本当は卒論や修論で調べていた西ウクライナへ、

と思っていたが、戦争が始まってしまい、旅行会社や家族に迷惑をかけるわけにもいかず、

でもできる限り、ウクライナに近いところまで行こうと思った。

チューリッヒ空港からブカレスト空港に向かい、乗り換えて北部のスチャヴァ空港へ。ウクライナ国境までクルマで約30分の町。

スチャヴァはルーマニアではモルドバ地方と呼ばれている。(ルーマニアの隣国にはモルドバ共和国もあるが。)

かつてこの地域はハプスブルク帝国の東端にあった地域。

 

2006年12月のblogで、僕は次のように書いた。

 

おばあちゃんは声をかけている。「私はモルドバから来た。食べ物がない。私はモルドバからきた。私の故郷では、戦争が起きている。私はモルドバから来た。」

 帰国する日、このおばあちゃんはもういなくなっていた。きっと誰かが連れていってしまったのだろう。しかしこの経験が脳裡に突き刺さったまま、僕はパリ郊外の空港へ向かう電車の中にいた。

 

 「モルドバ」という言葉。ここから何を想像すべきだったのか。問いは続いている。

 

2006年12月の翌月2007年1月1日より、ルーマニアとブルガリアはEUに加盟した。(モルドバは2022年6月から加盟候補国)

つまりEU加盟最後の年、僕はパリでモルドバ人のおばあちゃんに会ったことになる。

 

スチャヴァのホテルに泊まり、翌朝、いくつかの修道院を訪問した。

ルーマニア正教の修道院の雰囲気は、荘厳な雰囲気で、静かなヨーロッパ映画のような印象を受けた。

社会主義の時代であっても、修道女たちは宗教的生活を送ることができたらしい。

 

帰り際、スチャヴァ大学に立ち寄った。

この大学には、ルーマニア人学生だけでなく、ウクライナ人やモルドバ人やユダヤ人学生も多いとのこと。

大学職員の方が、極東アジアからの突然の来客に図書館を紹介してくれた。

Mihai Eminescu,Ion Creangă,Tudor Arghezi,Nicolae Iorga,,,

知らない名前だらけだった。

帰国して国会図書館などでも調べたが、日本語に訳された形跡はほとんどない。

 

移民の故郷で出会った人々、そして気になったこと。

そんなことを書き記してみたい。

 

 

 

 

 

 

Schon lange nicht gesehen!

約12年ぶりですが、blogを復活します!元学院でドイツ語クラスだった皆さん、その友人やご家族のみなさん向けに、いろいろと情報発信していきます。

フランス大統領選挙、エロー首相、ドイツ

今月は、フランス大統領選挙がありました。

僅差ではありましたが、社会党オランド候補が勝利をおさめ、

オランド政権がスタートしましたね。


ファビウス外相、サパン労働雇用相、ル・ドリアン防衛相、モスコヴィシ財務相、

ヴァルス内務相などの男性大臣の数と、トビラ法務相、ぺルラン大臣、デュフロ住宅相、

ヴァロー=ベルカセム女性相などの女性大臣の数が、同数になった内閣ですね。


またアラブ系やアフリカ系、さらにアジア系(ペルラン中小企業デジタル経済相)

の大臣も誕生しましたね。(ドイツにはヴェトナム系の大臣がいますね)


フランスの多文化政策が、政治分野においても実現したかのような人事ですね。

多民族政権ということで、幅広い視点をもっているかのように見えます。


ドイツとの関係で考えれば、エロー首相の言動に注目してみたいと思います。


ギリシャ、イタリア、スペインをはじめとしたユーロ危機において、

ドイツの政策決定者たちの言動はこれからも注目されると思いますが、

ドイツのライバルであるフランスについても、今後のヨーロッパの方向性を考える上で、

知っておいて損はないと思います。





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