男と女は、光と影。

光がなければ、影もない。

互いが、互いの存在によって成り立つ。

だから、恋は生きること。生きることは恋。




片思いでも、失恋しても、

男は一人になると、過去の出来事を思い起してしまう。


言われたことがあります、私も。

時々、声も出せないぐらい、遠く悲しい目をしてるんですね・・・(゜o゜)

女性からは、ミステリアスに見える・・・らしい。 (*^_^*)


一方で、私は、輝いている女性に惹かれます。

ずっと携帯をもってて、つまらなそうにしている女性に

心ひかれることはないですね。


表情が明るい、目に光がやどっている女性は美しいです。

明るくしようとしている・・・のでしょうが、美しいと思える。



なぜこんなことを思ったか、理由を書きましょう。



仕事帰り。HMVに立ち寄る。


徳永英明のCDのサンプルを聞いた。


ふとっ 思い出した曲があった。


「セーラー服と機関銃」


そう、かなりお子様の頃に聞きましたね。


歌詞に ♪ 愛した男達を輝きにかえて、いつの日にか僕のことを思い出すがいい ♪


来生えつこさんの詞ですね。


また、更にさかのぼり中島みゆきさんの「わかれうた」の詞も思い出した。


♪ あなたは、憂いを身につけて 


多少、大人になって詞の深さに、じわっときました。

別れた恋人と友だちになれる? ブログネタ:別れた恋人と友だちになれる? 参加中
本文はここから

結論 別れた後でも”友達”って、ありません


●男性の立場からは、”恋人”になっていなかったって考えます。

sexの関係はあっても、
自分と対等もしくは、互いに補える精神的な関係に
気づかない場合
やはり”友達”以上、”恋人”未満かな・・・って感じています。

男性から
  「”友達”にもどりたい・・・」
って場合、心のなかでは【友達のまま】なんです。

つまり、
友達として連絡してくる男にとって
恋人でもなかったんです。

●回転すしなら

でも・・・男性は
精神的に打たれ弱いお子様なんで、
とりあえず集めて、安心したいんですね。

恋人候補として、
次々と流れている美味しそうに見える皿を
自分のテーブルへ並べてしまう。

そして、
美味しそうな皿の流れが途絶えた時、
テーブルの皿を比較して食べるんですね。
(女性からは、一般に”ひきょうもの”と言われます)


当然ながら、こんな食べ方はNGです。
テーブルの皿は、暖かい場所で鮮度が悪くなります。

良い食べ方は、
見ていて一番食べたいと思ったものを、
目の前にきたら、すぐ食べることです。
●故に
女性は、いつでも鮮度良く、美味しそうにしていてください。
もちろん、
江戸前に見る職人の仕事がはいったイキ(粋・活き)のいいのは
いうまでもありません。


道端で、思いがけず1万円ひろうと、かなり嬉しい。


しかし、10円だったら、拾わず道を急ぐでしょう。



同じことが、この人生の道端で起きている。


ちょっとした出会いで、少し心を通わせる。


でも、”明日の1万円”があるかもしれない。


これは、”せいぜい100円”の出会いだよね。



存在しない未来と比較して、今の価値を値崩れさせている



本当は未来じゃない、かなりメタボリック気味の自我と比べている。


謙虚になれば、自分等身大の幸せをつかむチャンスが増えるのでしょう?


「遠くばかりみないで、今の手の中のものを良く観たほうがいい。」


そんなことを、言われた気がした。



こんな当たり前のことに、今頃きづいている。目


愛情に条件なんてない


ただ、あなたがいる


それだけだった。



条件つきの承諾は


条件が難しいほど


強い拒絶となります。叫び



親は、子供へ実現できないことを条件にして

愛情をしめしません。


条件をつけるのであれば、

愛情ではなく放棄というものでしょう。



不倫になってしまったからといって

未婚が条件でないでしょう。


離婚を条件にいれれば、既に

愛情ではなく執着というものではないでしょうか。



子供が死んだ親にとって、生も死も条件でありません。


ただ愛していますよ、と思う気持ちは


生きている頃よりも


胸のずっと深いところから湧き上がる泉の様に


私の心を潤してくれます。虹



愛情に条件などない


ただ、あなたがいる


それが全てだった、これからもずっと。

あなたは、身近にいる人に本当に敬意を持っていますか?」


いやなことが起きたときに、自分に上の疑問を投げかけます。

自分自身の「感情」と「理性」のバランスをチェックするのです。


(具体的に)

例えば、恋人・配偶者について

家に帰って、ちょっと遅めの晩飯

彼女は準備を淡々としています。


でも私は、気分は、まだ仕事を引きずっていてPCを眺めていた、

としましょう。


その時、声が聞こえます。


「なんで、かたづけないの?

 なんで、私だけが用意しなくちゃいけないの?」パンチ!


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」えっ

 何も、弁護の言葉が浮かびません。


 なぜなら、”なんで” には

自分が唯一の正義と信じて

相手の不正義をせめる言葉だから。


全ての反論は、”却下”なのです。



 自分の思考を中断されたことに、反射的に”怒り”が湧き起こります。

 ”俺の人生を邪魔するために生まれてきたのか、お前は?!”

 (言葉にはしません。しかし、態度に現れてしまう。)


殺伐とした雰囲気になってしまいます。手裏剣



きっと正しい答えは、「ごめんなさい」ですね。(*´Д`)=з




彼女がどういう気持ちで、自分を待っていてくれて、

料理をしてくれたのか。


「理性」で考えれば判ります。


「感情」に「感情」で応えれば、全てを失う危うさを感じました。



そこで、気づきました。

今の自分が、バランスがとれているか、確認する方法。

それが”敬意”です。


自分から遠い人に対して、”尊敬”すると言うのは簡単なこと。

なぜなら、直接的に利害がないからです。

しかし、

自分のすぐ隣の人に対して、いかなる場合も”敬意”を示すことは

難しいことです。

なぜなら、直接的に利害を共有してしまうからです。


”敵”といわれる人に対しても、

人として自分と同じ存在価値を認める”敬意”を失わず、

「理性」で対応できる。


そんな自分でありたい、と思います。m(_ _ )m


10代・20代・30代の恋愛の違いは? ブログネタ:10代・20代・30代の恋愛の違いは? 参加中

(前置き)

恋愛や人生のとらえ方・感じ方は気分で変わってしまいます。

快いことがあった時は、すごく前向き。

不快なことがあった時は、後向き。

過去のことであっても、事実の解釈によって異なってくる場合が多い、と感じています。

”とどまることのない感情に、左右されて生きている自分”が現実なのでしょう。

過去の歴史はかわらない。
でも見方は時に変わります。
さなぎから蝶になるように、事実から真実が現れることもあるのです。

(本題)

それぞれを1言で、さらに自分のテンションを横軸に表現します。

10代 ---------------> 「あこがれ」 ラブラブ
20代 ---> 「現実」叫び
30代 -------->「ルネサ~ンス!」アップ


「あこがれ」   :いろいろなメディアの影響か、過剰な期待と不安で
           舞い上がっていたのかも。

「現実」      :社会人生活の中、恋愛と仕事の両立が課題でした。

「ルネサ~ンス!」:現実との折り合い・妥協・・・などもあり。
            時には、不倫? 純愛?な~んてことも。

            30代のうちに、ある感覚があります。
            それは、人によっては人生の壁であったり
            山を登りきったとき突然開ける、
            人生のすそ野の広さの様な感覚。
            一言で言えば”自由”ということ。

   そうです。30代の恋愛は、「あこがれ」を現実のものとできる
   復興・再生のルネサンス時代なのです。
          
                                                                   以 上

いつも思うことがある。


それは、ブロッコリーをゆであげて


箸でつまんでいる時


決まって、耳の奥に聞こえてくるテーマ曲


あのち~へいせん かがやくのは~


小さいラピュタ・・・

「花は、ただ自分ために花を咲かせる、人のためにでなく。」


ひさしぶりに見かけた仕事の後輩の姿が、たくましく思えた。


その姿と、今朝自宅で見つけた小さな変化が重なった。


自然の「たくましさ」「美しさ」が、私を密かに勇気づけているような気がした。



ふと気づくと、家にあるシクラメンの鉢植えに、花がさいていた。


数日前に、蕾がふくらんでいるのは気づいていた。


いつ咲くのか、私は、密かに期待していたようだ。


花は、人の期待を読んで咲く訳ではない。


いつしか、咲いているものなのだ、


ただ自分のために。


人の期待に答えようと無理せず、ただ自分のために咲く花でありたい、と思う。

ヒトは論理的な動物です。

ただし、論理の展開は、本人の頭に中だけに限ります。


一般的には、”妄想”と言われます。

客観的には、非論理であっても、本人の頭に中ではつじつまが合うのです。


最近の例で、具体的に言うと

週刊誌的には、”年金テロ”とよばれた事件。


容疑者の供述にある

”家族(飼いイヌ)を殺された。

 だから、組織のトップを殺した”

というもの。


高級官僚の自宅および当時の組織状況についての調査力、

宅配便を装う犯行手順と

ギャップのある供述内容。

あまりに稚拙な犯行動機と綿密な犯行の実施。


ヒトは、そのギャップの説明のため、”何者かの教唆”をそのギャップに

埋め込んでしまうのです、しかも反射的に。


客観的に論理的でない事件に、論理を摘要しようとする。

事実を根拠としない”何者かの教唆”もやはり妄想ということです。



ここに、仮説検証による問題解決の限界があることを

ヒトの生理機能から理解し実践しなければ、

我々は、何度でも過ちを犯してしまう、と思います。

一日何時間欲しい? ブログネタ:一日何時間欲しい? 参加中

結論としては、欲しい時に、必要なだけ時間が欲しい。


人間は強欲です。

もっと楽しみたい

他人より良い結果を出したい

もっと・・・・・ +・・・

より・・・・ ++

・・・ ++++ -> ∞

欲しい時間は、永遠になってします

しかし、

人間、知っていても受け入れがたい事実

それは、人間も死亡率は100%

80年生きたと仮定しても、たった3万日弱しかない


だから、私は思います

時間が貯められればいいのに、と

でも、物理法則に適いませんね


もうちょっと頑張って考えました


目的を強く持つと、充実感という快楽があり

さらに単純に継続を求めるのが人


物理法則に適い かつ 充実した時間にするためには

少なくとも、この「継続」の妄想を明らめなければ

目的のある時間を創り出すこともできない。