こんばんは!!

1週間の間、ブログを書こうと思ったら、

書くテーマが思いつかず、

今日、テーマが決まりましたので、

それで、ブログを書くことになりました。

 

クリスチャンにとって、

一番大切なものがあります。

それは”聖書”です。

 

聖書は、ただの本ではありません。

これは、神の御霊によって人々を通して、

書かれている書物であります。

 

”聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と

義の訓練とのために有益です。”

(テモテⅡ3章16節)

 

”主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。”

(イザヤ34章16節)

 

ですので、聖書は、神の言葉として、

クリスチャンにとって必要なものなのです。

 

聖書は、ほかの宗教の本と違うのは何か。

地球の誕生から先の将来のことまですべて書かれているのです。

地球の誕生、人間の誕生など歴史のことだけでなく、

人間と神との関係も書かれているのです。

 

人間と神との関係を鮮明に書かれているのは、

聖書しかありません。

 

私たち人間は、神との関わりがあるのです。

神を知ることによって、

私たちが生きていくべき道を示してくれるのです。

 

この世に生きていて、

罪の中に生きていて、

神と離れている私たち人間。

 

だから、今の私たちは、

神を知らずに歩んでいるのです。

 

私が生まれながらにして、罪がある者として、

神から御怒りを受けるべき者でした。

 

”私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”

(エペソ3章3節)

 

しかし、神の御子がこの世に生まれ、

十字架にかけられ、死に渡してよみがえられました。

その御子とは誰なのか。

 

これはイエス・キリストなのです。

その方がこれまで通して教えていたことを、

3年間という短い間に人々に伝えられたのです。


また、十字架とよみがえりという驚くべき行為によって、

その方を信じることによって救いを得るという

福音を与えられました。

その方を通して、世界中に福音が伝えられています。

その福音が、聖書によって伝えられているのです。

 

神によって生きることの大切さ、

私が歩むべき道を教えてくれる書物として、

現在、聖書を通して、学んでいるのです。

 

聖書が本として

簡単に手に入れるようになった現在、

聖書を蔑ろにしている教会が多く存在しているのです。

 

聖書は歴史を語るだけでなく、

近い将来の出来事も語っているのです。

その近い将来とは何か?

 

これから来るべきであろう、

携挙と患難時代そして、千年王国という

うれしい出来事と悲しい出来事があるのです。

 

うれしい出来事というのは、

”携挙”のことであり、携挙は、イエス・キリストを信じ、

その御言葉(聖書)を守った者が天に引き上げるという

出来事なのです。

 

悲しい出来事というのは、

”患難時代”のことであり、イエス・キリストを信じない者が

携挙にならなかった自称クリスチャンが地球に残され、

これまでにない大きな災害に見舞われて、

生き残る者が現在の人口より3分の一が残ります。

これほど、ひどいことがおこるのです。

 

患難時代の終わりに、イエス・キリストが地上に再臨され、

生き残った者の中に、裁きがあり、

信者とユダヤ人とユダヤ人を助けた人々が残り、

それ以外の人々は裁かれ、火の中に投げ込まれます。

 

その裁きから残った者が

携挙された信者とともに千年王国が始まるのです。

 

【参照ブログ】

聖書の全体像・神様のご計画 〜創世記~黙示録〜

終末における三つの裁きの座

 

この近い将来の出来事に、

この世に生きている私たちは、

選択するべきことがある。

 

それは、神とともに生きるか。

それとも、悪魔についていくか

 

という選択

 

神とともに生きるという選択をしている

クリスチャンは神を信じて、この世に生きるのではなく、

神の言葉である聖書に従って生きていくべきであります。

 

聖書を蔑ろにして教えている、

聖書を私的解釈して教えている牧師などは裁かれるのです。

 

”それには何よりも次のことを知っていなければいけません。

すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない

ということです。”

(ペテロ第二1章20節)

 

”私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。

もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある

災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、

神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、

その人の受ける分を取り除かれる。

(黙示録22章18-19節)

*預言のことば、預言の書→聖書のこと

 

聖書に私的解釈や取り除いてはいけない理由は、

聖書の御言葉は神の言葉であり、

清く正しい神の言葉を捻じ曲げているということになるからです。

 

ですから、聖書は蔑ろにしたりしていはいけません。

 

清く正しい神の言葉で書かれている聖書に、

私たちは読み、神の言葉を理解し、

御言葉に従っていこうではありませんか。

 

なぜなら、預言は決して人間の意志によって

もたらされたのではなく、

聖霊に動かされた人たちが、

神からのことばを語ったのだからです。

(ペテロ第二 1章21節)