主イエスキリストに仕えるクリスチャン

主イエスキリストに仕えるクリスチャン

リブログが多いです
聖書の御言葉
いつも神様とともに
すべての人が救われますように
カトリックで洗礼を受けましたが無宗派です

「御霊も花嫁も共に言った、『来てください』」
‭‭(ヨハネの黙示録‬ ‭22:17‬ ‭)

約二千年前にイエス•キリストはこの世に生まれ、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んで下さいました。墓に葬られて、黄泉に下り、三日目に甦りました。
この事を心から信じて、罪を心から悔い改めると、聖霊が心の中に入ってくださり、全てのことを教え導いてくれるようになります。それが「救われる」ということです。

今の時代は、ヨハネの黙示録に書いてある事が起こりつつありますが、まだ産みの苦しみの始まりに過ぎません。反キリストが現れ、人々に獣の刻印を押しますが、惑沈のように知らずに打たれてしまうかもしれません。刻印を押さないと売買ができなくなりますし、迫害にあうかもしれません。
大艱難がありますが、その前に「携挙」があってクリスチャンと幼児が天に引き上げられるかもしれません。惑沈を打ってしまった赤ちゃんは残されるかもしれません。
いつも神様に祈っていることが大事になってきます。


昨年10月、母が急性膵炎で県立病院に搬送され、四日間の入院、手術、点滴治療を受けましたが、

もう少し長生きしてほしいという願い叶わず帰天しました。

91歳でした。


母が帰天した翌日、母の遺体は葬儀社のセレモニーホールに運ばれて通夜会場に安置されました。

供花の近くに、母が生前に描いた油絵を3枚飾らせてもらいました。

母は油絵を描くのが趣味というか一応プロで、絵画教室で教えたり、個展を開いたり、展覧会に出品して賞を取ったこともありました。

油絵以外にも書道や花道、洋裁、畑仕事などいろいろなことを楽しんでいました。


お通夜は4時からでしたが、3時頃に納棺師さんが来て、納棺の儀が執り行われました。

病院の入院着のままでしたので、母が生前に着ていた服に着替えてさせていただくのですが、

皆んなが見ている前でどうやって着替えさせるんだろう?と思いましたが、白い掛け布で覆いながら肌が見えないように上手に着せていてすごいなと思いました。

途中、遺族の手を借りながら向きを変えたり、湯灌したり、化粧をしていただきました。


4時からカトリック教会の神父様に来ていただいてお通夜を行いました。

神父様が長い鎖が付いた香炉を、棺の回りや参列者に向かって振ると、白い煙と共に良い香りが立ちこめました。これは振り香炉(トゥリブルム)という物で、清めや故人の永遠の安息を祈るために用いられるようです。

カトリック教会の祭儀用のハンドブックみたいなのが1人ずつ配られて、それに沿って行われました。

教会の信者さんが何人か来て手伝ってくれました。

最後に兄が喪主の挨拶をしましたが、悲しみを抑えきれず途中何度か泣き崩れていました。

去年定年退職した兄は、母の介護のために実家に帰ってきて、車の免許を取ったり家をリフォームしたりして、何くれとなく母の面倒を見ていました。



翌日の火葬の時にも神父様に来ていただいて、棺の前で香炉を振って香りを立ち昇らせて、清めと安息を祈っていただきました。

待っている間、いとこたちと思い出話しをして時間が過ぎていきました。

遺体が焼かれて骨だけになったのを見るのはちょっとショックなものですが、聖書によると、肉は何の役にも立たない、この世で生きる為の仮の姿に過ぎない。イエス様を信じ愛していた母の霊魂は天国に行っているのであまりショックはなかったです。



1日間を置いて翌々日の11時からカトリック教会で葬儀が行われました。

いつものミサと似たような形式で、聖体拝領もありました。

この日も教会の信者さんが9人もお手伝いに来てくださいました。ミサの中で讃美歌を歌ってくれたり、典礼文を読んでくれました。

最後にまた兄が喪主挨拶をして葬儀は終わりました。

母は生前、フィリピンに住んでいる貧しい子供に、毎月いくらか援助していたと喪主挨拶の中で話していましたが、そういえば母は隣り近所に住んでいる一人暮らしのお年寄りたちの面倒をよくみていたことを思い出しました。時には話し相手になったり、雨の日に車に乗せてあげたり、料理を作って持って行ってあげたりしていました。



葬儀の後、教会の信徒館をお借りして、家族、親戚、神父とテーブルを囲んで昼食の折詰弁当をいただきました。

従姉妹が芋の子汁やお漬け物などを作ってくれてありがたかったです。

この従姉妹は、カトリック教会に付属している修道院の児童養護施設で40年以上保母をしていました。その関係で教会のしきたりなどをよく知っており、いつもいろいろ手伝ってくれます。

そんな従姉妹ですが、毎日のように修道女たちと接しながら仕事をしてきたのにクリスチャンではありません。どうして神を信じないのか聞いたら、家が代々仏教徒だからだと言っていました。


従姉妹の家は母の実家でもあるのですが、とても家族仲が良いのです。

母はクリスチャンになったけど実家が大好きで、まるで実家を崇拝しているのでは?と感じたことがあります。

実家の兄と父を比べては、父を見下しているようなところがありました。

よその人を大事にするのもいいけれど、もう少し夫婦仲を良くしてほしかったなあと思います。




日本人て結婚式は教会で挙げる人が多いのに、お葬式はお坊さんを呼んでお経を唱えてもらい、高い戒名代を払ってお寺のお墓に入るという人が多いように思います。

うちも祖父母の墓はお寺にありました。祖父母はクリスチャンではなかったので仏式で葬式をして戒名も付けてもらいました。

2015年に父が亡くなったのですが、亡くなる前にお寺のお墓を教会墓地に移したんです。

父が亡くなった時、納骨するためにカトリック教会の墓地のお墓のフタ?を開けたら、祖父母の骨壺だけでスペースが一杯で、父の骨壺を入れるスペースがなかったのです。

なんで?どうしよう?と思ったのですが、父の遺骨はとりあえず実家に置いておくことにしました。

当然母の遺骨もお墓に入らないので、家の仏壇の前に置いてあります。(仏壇はいらないと思うのですが…)


それで最近気が付いたのですが、お寺のお墓は○○家の墓なので、家族の遺骨は一つの墓に納められます。

けれどキリスト教会のお墓は○○家の墓ではなくて、個人のお墓だから納骨スペースが小さい。

最近は家族用のお墓も増えているらしいです。

なので今あるお墓を家族用に作り変えないと父母の骨壺は納骨できないということです。

お墓のリフォームとなるとまたお金がかかりますが、兄がなんとかしてくれるでしょう。


兄が母の遺品を整理していたら預金通帳が見つかり、400万も残高がありました。

兄が毎月5万円ずつ仕送りしていたのですが、母の物忘れが酷くなってそのことを忘れてしまい使われずにしまいこまれていたようです。

兄妹3人で分け合うことになりましたが、それでお墓のリフォームもできそうです。



最後まで読んでいただきありがとうございましたクローバー











1ヶ月半前に実母が急性膵炎のために亡くなりました。
病気のことやお葬式のことなど、忘れないうちに書いておこうと思います。

10月某日夜9時頃、実家に住んでいる母が腹部の激痛のため救急車で救急病院に搬送されました。
私の家はすぐ隣りなので、兄から電話をもらってすぐに様子を見に行きました。
ベッドに腰掛けている母はお腹の激痛で話すこともできず、痛みに耐えていました。
一緒に住んでいる弟が母の隣りに座って付き添っていました。
救急車が来て乗せられてから搬送先を探していたのか30分ほど待たされて、兄が付き添いで同乗して近くにある県立病院の救急外来に搬送されました。
検査の結果は急性膵炎でした。

2023年1月にも急性膵炎で入院したことがありました。
その時は8日間入院して、絶食と点滴で治ったのですが、今回は重症の膵炎でした。

胆管内の結石が移動して、膵液の出口を塞いでしまい、膵液が膵管内に逆流し、膵臓を自己消化してしまったようです。よく“膵臓が溶ける“と言いますが、相当の痛みなのでしょう。

翌日手術をしたのですが、胆管に詰まった結石を取り出すことができなかったようです。
口から内視鏡を入れる手術だったのですが、胆管が狭くなっていて結石がある場所まで届かなかったということのようです。
後は点滴するしか治療法はないようでした。
他にも治療法はあるのではないかと思ったのですが、年齢的に無理だったのか、医者の技量不足だったのかと考えてしまいました。

コロナ禍の時期に入院した時は家族の見舞いもできませんでした。
今回は、見舞いできるのは一家族につき2人、15分だけという決まりでしたが、兄が主治医に掛け合って、3人で2時間にしてもらいました。

兄と私と弟の3人で手術後に病室に行くと、母は点滴や人工呼吸器をして呼吸が苦しそうでしたが、意識はあり、話しかけるとうなずいたり、短く答えたりすることができました。
次の日病院に行った時は、検査があるからと1時間くらい待たされて、病室に入ると、検査する前より呼吸が荒く苦しそうでした。
一体どんな検査をしたのだろう。


急性膵炎になる2日前に、介護保険の認定のために、かかりつけの病院に行って問診をして介護度を認定してもらいました。そのついでに頼んでもいないのに、久しぶりだからと言って血液検査と胸のレントゲン検査を受けたのです。
要介護度は1で、物忘れはけっこうひどかったけど、自分でほとんどの事はできたのです。

なんだか検査や手術などの医療を受けるたびに、母の体調が悪くなっていくようでした。

もう少し遡れば、コロナ禍の最中に、デイサービスを受けるためにコロナワクチンを受けていました。
もしかしたらそれが急性膵炎の遠因だったのではないか?
私はワクチンは絶対に受けないしまわりの人にも受けないほうがいいと言ってきましたが、母がデイサービスに行くのを楽しみにしているので、弟が受けさせてしまったようです。


そして入院して4日目、前の日よりもっと呼吸が荒くなっていて、話しかけても答えることもできなくなっていました。
お母さん子だった兄は、母の手を握りながら話しかけたり、母が日頃よく聞いていた音楽をiPadに入れて枕元で聞かせたりしていました。
演歌歌手の福田こうへいの歌が好きなのでかけていましたが、もう少し静かなクラシックとか讃美歌のほうがいいのではないかしら?と内心思いました。
兄と同じくお母さん子で、3人兄弟の中で最も母に可愛がられていた弟は、もうそろそろ時間だから帰ろうという時には泣いてました。


コロナ以前はこの病院も1人だけなら一晩中付き添っていられたのに、今はダメなのです。
今思うと面会時間を2時間にしてもらって良かったなと思いました。

その日の夜、正確には翌日、午前1時30分頃、母が危篤だという知らせを受けて、病院に駆けつけた時にはもう母は亡くなっていました。

ベッドの前で呆然としていると、看護師から「病室の外で待っていてください」と言われて廊下で待っていました。
20~30分くらいして病室に入ると、点滴のチューブや呼吸器を外された母が、ベッドに静かに横たわっていました。誰かが薄化粧でもしてくれたのかな?と思うようなきれいな顔でした。

その後霊安室に移されてから、葬儀社の車で自宅に運ばれました。
いつものベッドに寝かされ、時間が経つうちに、母の顔はとても安らかな表情になっていきました。
それを見て、「お母さんは天国に行ったようだな」と安堵感を覚えました。


兄や弟は、母の死を深く悲しんでいましたが、
正直に言うと、私はそれほど悲しくなかったのです。
医療や病院に対しては残念な気持ちがありますが…
クリスチャンにとって霊魂は不滅だとわかっているから。
今思えば、主の平安があったのかな?
人が死んだ後どうなるか、臨死体験をしたクリスチャンの動画などを見て知っていたから、
今お母さんは天国に行って、先に亡くなった家族や知り合いと会っているんだろうな、天国の素晴らしい景色に圧倒されているんだろうな、と想像できるのです。
それにあと何年かわからないけど、すぐに再会できるし…

「手術が成功して早く退院できますように」と祈りましたが、同時に「しかし私の願いではなく、主の御心がなりますように」とも祈りました。
母が世を去るのは主の御心だったと思います。

それにこのタイミングでこの世を去ったということは、艱難時代を経験しなくてすんだということでもあります。携挙がいつ起きるのかわかりませんが、それまで母が生きていたとして、母が携挙されるかどうかわかりません。秋田のマリア様の動画を見た後に、「もうすぐイエス様が帰って来られるみたいだね」と言っても母は「私は帰ってこないと思う。」と言っていました。だから取り残されるよりは、福音を信じて聖霊を受けていれば、この世から去っていたほうがいいのではないか?とも考えていました。

母は生前、たまに「自分は死んだら煉獄に行くかもしれない。直接天国には行けないかもしれない。」と言っていました。父といろいろあったから煉獄に行った夢でも見たのかもしれません。
その点だけ気掛かりです…
安らかな死顔を見たらそんな心配はいらないような気がしましたが…

煉獄の根拠となる聖句、
「火の中をくぐり抜けてきた者のように救われる」ってどんな状態を言うんだろう?
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭3‬:‭14‬-‭15‬ 新共同訳‬



翌日からお通夜、火葬、カトリック教会での葬儀と続きました。
それはまた近いうちに書いてみようと思います。
























ラッパの祭りの日、9月23日~24日?の預言が外れてしまいました。
動画を投稿したクリスチャンたち、それを支持した私も大いに恥入っているところです。

しかし非常に多くのクリスチャンが見た夢や幻…
あれが全部惑わしだったのでしょうか?

今だに議論は続いていると思います。
暦が間違っていたのではないか?という考察が出ています。
ユリウス暦が正しいのではないのか?という考察がありますが、
どうなんでしょう?

ラッパの祭りの日が、神が定めた暦とズレていたのでしょうか?


創世記によると、神は太陽によって一年の区切りを定めています。
「神は言われた。 「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」
‭‭創世記‬ ‭1‬:‭14‬ 




ヨベル書という聖書外典偽典が興味深いので、転載させていただきます。
ヨベル書全文は50章あるそうなので、ごく一部になります。


京都聖マリア教会ホームページから転載します。
聖書外典偽典をザクッと読む
司祭 ミカエル 藤原健久

《ヨベル書》

*書かれた背景…紀元前3世紀後半より、外国勢力ギリシアからの軍事的政治的脅威により、ユダヤ社会にそれまでとは異質な宗教、文化が浸透してきた。ユダヤ人の中には仕方なく、また積極的にギリシア的なものを受け入れる者が、少なからず出てきた。それに対して、様々な形で先祖伝来の宗教を熱心に信じ、宗教的実践を厳格に行おうとする人々が出てきた。それらの一つが、イエス様の時代にも活躍していたファリサイ派であり、また、人里離れた死海のほとりで共同生活を行い、「死海文書」を残したエッセネ派(その中の一つのグループがクムラン教団)である。ヨベル書は、彼らによって書かれ、伝えられたと思われる。

 

*内容…「あなたは安息の年を7回、すなわち7年を7度数えなさい。…あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。」(レビ記25:8-10)ヨベルとは全ての負債が免除され、労働や耕作が休止され、人も土地も家畜もすべてに安息が与えられる年。

+世界の初めから出エジプトまでの歴史は、「ヨベル:49年」を一つの単位とした、「49ヨベル」で構成されている。以上の歴史観で、創世記と出エジプト記12章(エジプト脱出)までの物語を採録する。

+モーセがシナイ山で神様から律法を授かった時、天使から今までの歴史を聞く、という体裁で書かれている。

+特徴は、1年364日の「太陽暦」に、厳格に基づいていること。364日は1週7日×52週となる。こうすることによって、年間の祝祭日の曜日は固定化され、安息日との関係も固定化され、どの年でも混乱することなく律法、祭儀を行うことができる。



*紀元前2世紀前半に、ファリサイ派、またはエッセネ派の人びとによって書かれたと思われる。原典はヘブライ語で、それがギリシア語に訳され(現在は紛失)、それがエチオピア語(全文)、ラテン語(1/4)に訳され、現代まで伝えられた。

+死海文書に写本の断片が残され、、ダマスコ文書にも引用されている。他の外典偽典にも引用され、エッセネ派を中心に、広く用いられていた。中世のユダヤ教文書にも用いられており、また今日でも、エチオピア国内のユダヤ人(ベタ・イスラエル)では、正典同様に用いられ、ヨベル書に強く影響を受けた祭儀が行われている。

*50章立て。それぞれの章に20節前後。翻訳本で約120頁。ボリュームがある。

 

*本文の抜粋:『聖書外典偽典4 旧約偽典Ⅱ』1975年、教文館、村岡崇光氏訳より。

 

 主はモーセに言われた。「…律法と証言(あかし)と7年期間とヨベル期間に(はじまって)私が降りてきて彼らとともに永遠に住むまでの過去と未来にわたる全歴史の区分について、今日この山で、私が君に知らせることを君は書き留めるのだ。」

(1:22-26)


 掟の日の合計は52週となり、これで完全に1年となる。このように天の板に刻まれ、規定されており、これを1年たりともずらしてはならない。君はイスラエルの子らに、364日というこの数で年を守るように命ぜよ。これで1年は完全なのであって、その日と祭の時を乱してはならない。すべては証言(あかし)のとおりにその範囲内に巡ってくるべきで、日をやり過ごしたり、祭りをふいにしてはならない。

しかし、もし彼らが彼の掟にもとり、そのとおりに行わないならば、彼らはすべての時を狂わせ、年はこの(順序)からずれ、その順序を乱すことになろう。イスラエルの全ての子らは年の道を忘れて、これを見出せず、朔日も祭日も忘れ、年の順序をいっさい謝るであろう。私は知っているのだ。(だから)これから君に知らせよう。これは私の頭で考えだしたことではなく、このように私の前に本に書いてあるのだ。また、時代区分が天の板に書いてあり、彼らが私の契約の祭日を忘れて、彼らの迷いに従い、無知に従って異教徒たちの祭日を採用することのないようにしてある。

月を細かく観察しようとする者が出て来るであろう。なぜならこれ(月)は時を乱し、年々10日ずつ早く巡るからである。このゆえに証言(あかし)の日を狂わせて忌み日にしてしまい、祭日を汚れた日にし、全てを混乱させ、聖日が汚れた日に、汚れた日が聖日になるというような年が巡ってくるであろう。彼らは月と安息日と祭日とヨベルを誤つであろう。

このゆえに私は彼らに証言するように君に命じかつ証言する。君の死後、君の子らは暦を狂わせ、1年を364日と限定せず、そのゆえに朔日も安息日も祭日も誤ち、なんでも肉を血のついたまま食べるようになるであろう。

(6:30-38)

 







イエスの時代の過越祭り、徐酵祭、初穂の祭りは暦通りだったが、
二千年経ってユリウス暦~グレゴリウス暦になって、日付がだいぶずれてきたのでしょうか?

ラッパの祭りも、レビ記では第七の月の一日だけなのに、今では二日間祝うことになっている。
そして新月🌑を基準にしている。
ヨベル書によると、イスラエルは時を乱し、祭日を汚れた日にしてしまった。


「イスラエルの人々に告げなさい。 

第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。」

‭‭レビ記‬ ‭23‬:‭24‬ 















9月23~24日に携挙があるのではないかと期待して待っていた方々に謝ります。

預言が外れてしまいましたね。

私が言い始めたわけではないですが、預言の片棒を担いでしまいました。

大変申し訳ありませんでした。🙇🏼‍♀️


私のブログを読んでくださった方の中には、懐疑的で様子見だけの人もいたかもしれませんし、

本当に信じて準備して待っていた人もいたと思います。


本当だと信じて待っていた人は、私もそうですが、

非常に落胆されたのではないでしょうか?😩


来ると思ったのに来ないじゃん❗️😡


お怒りの人もいると思います。


私自身も23日が明けて24日になり、夜になり、

25日になっても何もなかったので、ちょっと落胆しました。


やはり人を頼ってはいけないんだと反省しました。

そしてやっぱりその日その時はいつだかわからないのですね❗️

数字がぴったり合うからと言って信じてはダメですね。




ただ、失望はしていません。

近い将来に必ず携挙は起きるから。

予行演習のようなものだったと捉えることもできなくはない。



それに、今回の件で聖書の預言を知って、慌てて聖霊を受けようとした人もいたのではないでしょうか?

だから決して無駄ではなかったと思う。

世界中のクリスチャンを騒がせてしまったとしても、

神は全てのことを益としてくださるので、何かメリットもあったと思います。




それにしても、

今年のラッパの祭りの日付は、パズルがピタッと合ったと思ったんですよね。

みんなそうだったと思う。

だから外れたのは、あまりにも携挙される人が少ないから、

神様が遅らせたのかな?なんて思いました。



「遅れる」と言えば、マタイ25章の10人の処女の話でも、花婿の到着が遅れたと書かれています。


「「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭25‬:‭1‬-‭7‬ 新共同訳‬


この時愚かな処女たちは、油を持っていなかったので婚宴に出られませんでした。

今回の出来事は、本番ではなかったから、まだ間に合うんですよ。

前触れもなく本当に携挙が起こっていたら取り残された人がたくさんいたはずです。



預言は外れた、主がいつ帰って来るかわからない、少し羽目を外して遊ぼう、飲み食いしようなどと思っていたら、今度こそなんの前触れもなく帰って来られますね。


「しかしもし、あなたがたが悪い召使で、『主人はまだ当分、帰って来ないだろう』と高をくくり、 仲間をいじめたり、宴会を開いて酒を飲んだりし始めたらどうでしょう。 主は何の前ぶれもなく、思いがけない時に帰って来て、この有様を見、 あなたがたを激しくむち打ち、偽善者たちと同じ目に会わせるでしょう。あなたがたは泣いて歯ぎしりするのです。」

‭‭マタイの福音書‬ ‭24‬:‭48‬-‭51‬ ‭JCB‬‬



ですからいつも油断せずにいなければなりませんね。

もしかしたら今回のことがクリスチャンへの警告になったかもしれません。


もしかしたら今日かもしれないし、明日かもしれない。

1ヶ月後かもしれない。

世界情勢からするといつでも起こりうる。


この目で見なければ信じないという人もたくさんいますけど…




こんな聖句もあります。


わたしは歩哨の部署につき 砦の上に立って見張り 

神がわたしに何を語り わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。 

主はわたしに答えて、言われた。 

「幻を書き記せ。 走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。 

定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。 

それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。 

たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。

見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 

しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

‭‭ハバクク書‬ ‭2‬:‭1‬-‭4‬ 





最後まで読んでいただきありがとうございましたピンク薔薇














携挙(空中再臨)が近づいているようです。
9月のラッパの祭りの日ではないか?という動画がたくさんアップされていて気になってしまいますが、
とにかく近づいていることは確かのようです。

今日は「獣の刻印」について話している動画を見かけたのでシェアしておきたいと思います。
もし携挙に取り残されてしまった場合、注意しなければいけなくなるので、
新しい知識として知っておいたほうがいいかなと思います。
「Great Miracles Avenue」というチャンネルはあまり見たことがなかったのですが、
これが本当なら恐ろしい事なので一部文字起こししてみました。

「獣の刻印」て、ナノチップみたいな小さなチップを、注射か何かで手か額に埋め込むイメージを持っていたのですが、この動画によると、スキャナーみたいな機械でレーザー光線を額に当てるという簡単な方法でした。
アメリカ、カナダ、イギリス、中国では、実験的にだと思われますが既に行われているという話です。
それを受けると、現金やカード、身分証を持ち歩かなくてもよくなるということなので、機能的に獣の刻印そのものですよね。
獣の刻印=チップ、という思い込みがあると、スキャンするだけと聞いたら受けてしまうかもしれませんね。
知識をアップデートしていかないといけない。
スキャナー以外にもスタンプみたいなものだったりしないかな?

それよりも今、携挙の準備ができているかどうかが1番大事なことですけどね。
9月のラッパの祭りも大事だけど、エルルの月も調べたら大事みたいですよ。



I saw many taking the Digital Mark !

in 4 countries!

Great Miracles Avenue 2025年6月3日



あるクリスチャンの女性が見たビジョンを話しています。
5月22日、体から霊が抜け出てそれぞれの国に運ばれて、鮮明なビジョンを見た。
アメリカ、カナダ、イギリス、中国で獣の刻印を打たれるのを見た。
診療所や技術センター、政府機関のような場所で、どこでも同じような機械が置かれていた。
その機械は清潔で銀色で、スキャナーのような形をしていた。
人々は一人ずつその機械に近づきました。柔らかな光が額を照らし、プリンターのように光るデジタルマークが、肌に優しく刻まれました。プロセスは迅速でした。
彼らは時間を無駄にせず、誰にも奇妙に思う様子もありませんでした。
私が連れて行かれたどの国でも、人々はシステムを信頼していました。
彼らはそれが普通で役に立ち、安全だと信じていました。
人々は騙されました。多くのクリスチャンでさえ騙されました。
彼らは一瞬たりともそれが獣の刻印だと考えませんでした。
パニックも叫び声も、神々が誰かを強制的にその場に押し込むこともなかった。
人々は自らの意思でそれを受け取るために列をなしていた。
すべてが平和に見えた。あまりにも平和だった。
人々は長い列を作っていたが、押し合いへし合いも恐怖もなかった。
まるでコンサートや新しい携帯電話を買う列に並んでいるかのように静かに待っていた。
中には静かに話をする人もいれば、自分のデバイスを見つめる人もいた。
新しい何かに参加できて幸運だと感じているかのように微笑む人もいた。
皆んな穏やかでリラックスしていて興奮さえしていた。
このマークは何のためにあるんだと尋ねる人はいなかった。
こんなことをするべきなのかと尋ねる人さえいなかった。
彼らはシステムを管理する人々を信頼していた。言われたことを信じていた。
そして警備員が人々に、これは安全のためだと説明しているのが聞こえた。
生活が楽になる、未来だ、誰もがやっている、ただのスキャンだ、安全だと言っていた。

しかし私は彼らに感じられないものを感じた。
空気が重くのしかかる、背景に静かな悲しみが広がっていく。
彼らには見えなかったが、私には見えていた。
それはまるで人々が崖に向かって、微笑みながら前方に地面がないことを知らないまま歩いて行くのを見ているようだった。

私はその機械を再び見た。音もしなかった。誰も怖がらせなかった。清潔で柔らかくスマートに見えるように設計されていた。
人が前に出ると機械は素早くレーザー光線で額をスキャンし、そこにデジタルマークを刻む、眉毛のすぐ上に。
マークはかすかに光り、暗闇に浮かぶ小さな光のように無害そうに見えたが、私はそうではないとわかった。
マークが肌に触れた瞬間、何かが変わっていくのを感じた。
体だけでなく、心の奥底にある何かが。

それでもなお人々は次々と自ら進んで無理せず恐ることなくやって来た。
ビジョンで見たすべての建物の中の入り口にその機械が設置されていた。
親しみやすく、モダンで清潔で美しくさえあるように作られていた。
病院や技術センターにあるような鋭い角もなく、大きな音も出ない。
人々は一人ずつゆっくりと階段を登って行った。
機械は静かな光で額をスキャンし、額の真ん中にデジタルシンボルを光らせた。それは大きくもなく痛みもなかった。
スキャンが終わると人々は満足そうだった。
軽く触って微笑む人もいれば、まるで貴重なものを受け取ったかのように誇らしげに立ち去る人もいた。
それは流行となり持っていなければ嘲笑されるだろう。
生活が楽になり、売買が速くなり、変化の激しい世界で安全が確保され、このマークがあればカードや現金、身分証明書を持ち歩く必要がなくなると言われた。
それが賢いやり方、現代的なやり方だと。世界は前進しており、これが次のステップだと。
だから彼らはイエスと言った。
神に祈ることなく、システムにイエスと言ったのだ。
マークされた後、人々が笑い、自撮りをし、その速さを語るのを見た。
中には割引や仕事、無料で使える物を手に入れた人もいた。彼らは幸運だと感じ祝福されたと感じた。
ソーシャルメディアでそのことが広がり、トレンドになった。

多くの人が刻印を受けた後、何かが変わるのが見えました。
彼らの顔に満ちていた興奮と喜びが薄れ始めました。
それは突然ではありませんでした。ゆっくりとまるで時とともに薄れていく灯火のように。
ある人は静かになり、ある人は空虚感を覚え始めました。
彼らの心の中に後悔が湧き上がってくるのを感じましたが、その理由をはっきりと説明することはできませんでした。

そして彼らが教会へと向かう群れが見えました。彼らは神を憎んでいる人達ではありませんでした。
かつて信者だった人達も大勢いました。教会で育った人たちもいました。
かつては神の働きに仕え、聖歌隊で歌い、説教台から説教をしていました。
彼らはただのアップグレード、賢いシステムを受け入れただけだと思っていました。
しかし今彼らの心の奥底から何かが叫び始めました。彼らは神の存在を恋しく思っていました。
再び祈り、再び礼拝し、かつて感じていたものを感じたいと願っていました。
そこで彼らは教会へと駆け戻り、かつて知っていたものを取り戻そうとしました。

しかし次に見たものは私の心を打ち砕きました。
それぞれの教会の外には天使たちが立っていました。
彼らは背が高く、輝き、聖なる存在でした。
彼らの目は怒りではなく、悲しみに満ちていた。剣を握ったり叫んだりもしていなかった。
ただじっと立ち尽くし、扉を塞いでいた。
刻印を受けた人が教会の入り口に近づくと、天使たちは何も言わなかった。
ただ手を上げただけだった。そしてその瞬間、刻印を受けた者たちは教会に入ることを許されなかった。
まるで線が引かれたかのようだった。超えることのできない線が。

ひざまずく者もいたが、扉は閉まったままだった。歌声、祈り、そして神の純粋な臨在が聞こえた。
しかし外には静寂と悲しみが広がっていた。
かつて礼拝していた人々が今、拒絶されている。神が彼らを愛していないからではなく、彼らが別の主人を選んだからだ。
そしてその選択が彼らに永遠に刻み込まれた。彼らは予期せぬ一線を超えてしまったのだ。
獣に身を捧げた後、神のもとに戻ろうとした。しかし、時すでに遅し、扉は閉じられた。
怒りからではなく、神聖さから、そして天使たちは涙を流した。彼らは人々を憎んではいなかった。
彼らはイエスよりも刻印を選んだため、彼らのために嘆き悲しんでいました。
そして今、帰還の時は過ぎ去っていました。
まさにその時に私は目が覚めました。


敵の計画はテクノロジーと現代的な考え方に隠れ、人々を騙して自由と信仰を奪って何かを信じさせるためでした。
敵は刻印を無害で、むしろ役にたつものに見せかけました。ほとんどの人は、自分が獣の体制に身を委ねていることに気づいていませんでした。
ただ賢い選択をしているだけだと思っていたのです。
しかしこのビジョンは私に真実を示しました。
敵の狡猾さは、安全で良いと感じられるものの背後にその力を隠すことにあります。
獣は大きな声で吠えるのではなく、ささやき、多くの人がその道がどこへ続くのか知らずに、それに従います。
神は私にこのビジョンについて分かち合うようにという明確な指示を与えてくださいました。
神は見た目が良いものや簡単に思えるものを単純に信じることはできないということを私の心に植え付けてくださいました。私たちは注意深く、用心深く賢くなければなりません。
私たちは毎日祈り、神に知恵と理解を与えてくださるよう祈る必要があります。祈りは私たちの心と精神を開き、神の声を聞けるようにし、何が真実で何が偽りなのかを見分ける助けとなります。
私たちは神の言葉である聖書を読まなければなりません。
聖書はしばしば暗闇を照らす光のように私たちを正しい道へと導いてくれます。神の真理を知ると、嘘や策略を見抜くのが簡単になります。そして新しい技術、新しい考え、新しい規則など何か新しいものを信じる前に、まず神に尋ねなければなりません。
時間をかけて神の導きに耳を傾けて神の霊を求め、私たちを傷つけるような選択をしないよう守られます。
世界は常に変化しており、新しいシステムや約束が表れては消えていきます。しかし神の真理は決して変わりません。
常に警戒し神に寄り添うことで敵が仕掛けた罠を退けることができます。
さて、神の祝福がありますように。そして、この啓示を最後まで聴いてくださりありがとうございました。


愛する姉妹が語ったこの啓示で述べられたことはなんでも私ははっきりと信じています。
この姉妹の啓示を聞いて最も悲しいのは、刻印を受けたクリスチャンたちが、大きな間違いを犯したことに気づき、教会に入ろうとした時です。この啓示における教会とは、神の国つまり天国を表していると私は信じています。そしてご存じのように彼らは天使に拒絶され教会に入ることを許されませんでした。
牧師たち、聖歌隊で歌っていた人達、主のために多くの事をした人達でさえ、イエスを捨てて獣の刻印を受けようとしたために拒絶されたのです。
皆さんに理解していただきたいのは、かつて神の子であった人々、かつて信者であった人々、あるいはクリスチャンであった人々が、神を捨ててこの世のものを求めてしまったために、天国に入ることを拒否される日が来るということです。
悪魔は、刻印を受ければ簡単に商売ができる、この世の多くの資源やその他のものにアクセスできるようになると皆さんを欺こうとしているのです。
私たちは、この世には多くの苦難があり、悪魔はそれを多くの人を騙すために利用しようとしていると信じ同意しています。この世の苦難に耐えられない人は、獣の刻印を受けることに容易に屈してしまうでしょう。
なぜなら獣はこれらの苦難に対する解決策を与えようとしているからです。
そしてこの苦難を乗り越えるためには獣の刻印を受ける必要があります。
ですからこれは警告です。気をつけましょう。
この世の苦難がなんであれ、何が起ころうとも神に従い続けましょう。
私たちは必ず患難を乗り越え必ず苦難を乗り越えるからです。しかしもし悪魔に屈することなく乗り越えることができれば、必ず神の勝利を得るでしょう。そして神は喜んで私たちを御国に迎え入れてくださいます。
どうもありがとうございます。神の祝福がありますように!

(文字起こしここまで)


コロナ禍の時を思い出しました。
あの時も政府は国民に、ワクチンを打ってください、打てば旅行の割引を受けられます、車が当たります、景品を差し上げますなどと言って打たせようとしました。
病院やホテル、映画館や温泉施設、ありとあらゆる場所に入る際に、体温を測るために手首か額にスキャナーを当てて、ピッと鳴ってスキャンしていましたよね。
あれって、その獣の刻印に慣れさせるための予行演習だったのではないか?

それを受けさせるために、まずマイナンバーに銀行口座、健康保険証、運転免許証などを紐付けていますよね。
何も知らずに政府に言われるがままに受けてしまう人が、大勢いるんでしょうね。
本当に悲しいことです。
一人でも助かるようにと祈ることしかできません。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました赤薔薇