元々ホテルだった歴史博物館Gedung Joang '45 | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

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2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

今回はスーツケースだけで来たので、去年本帰国の時に

「帰国するときは何も持って帰ってこなくていいからね」と旦那さんが単身で使うだけの捨てても良い食器しか残してなかったので、コップも足りない...

とりあえず買い足しに行って.. .


「そういえばここまだ行ってなかったな...」

Kedaung Home Mentengの隣

Gedung Joang 45

Museum Kesejarahan Jakarta

歴史博物館

外国人価格もなく、大人と子供、学生料金の違いだけ、おとな一人Rp5000

入り口には
インドネシアを独立、向上に導いた女性活動家の手形
スカルノ大統領の第一夫人FatmawatiやHatta副大統領の奥さんの手形や
今もある化粧品やエステサロンで有名なMartha Tilaar

Kartiniの顔も飾ってたけど、手形はなかった
これは2016年にできたとあるので、どうやって手形とったんだろう??
一つ一つ手形に違いはあるけど、ほんまに手形とったんだろうか...?

建物はオランダ植民地時代に建てられたものです。

1930 年代頃このあたりは森で、アラブ人が土地を所有していました。その後オランダ東インド政府に売却され、オランダ人の居住地に使われることになります。
 バタビアの発展とVOCのの農産物輸出の増加に伴い、外国商人、オランダの高官、裕福なインドネシア人などが泊まるためにオランダ人 LC Schomperはメンテン 31 番地にホテルを建設しました。

 建物は、ベランダに大理石の柱がある古典的なヨーロッパ建築で、中央には大きなリビングルームがあり、キッチンの近くには、調理人用の部屋が3つもありました。 

両側には2 つ棟があり、 左には 5 つの寝室、右にはそれぞれにバスルームがある8 つの大きな寝室がありました。

今回、左は閉まってましたが図書館になっていて、右側はオフィス です


展示はパネルとジオラマ中心で、歴史博物館といっても何がテーマなのかはちょっと難しい

1942年、オランダ東インド政府は、日本軍に無条件降伏してインドネシアでは日本の占領が始まりました。 
日本のプロパガンダは、大東亜戦争で兄(日本)を助けなければならない弟(インドネシア)という位置付けでインドネシア人を啓蒙 
インドネシア人は大東亜戦争で連合軍に対し、捕虜となった日本人を助ける準備をし、 何百人もの人々が国中で軍事施設や民間施設の建設に従事させられ、遠いビルマやインドシナにも送られました。 
さらに、日本軍政府に米の備蓄を渡したため、米は不足し多くの人々が飢えていました。
 
しかし日本は、戦争で日本を支援するためにインドネシアの現地軍隊を組織したとき、若者たちは現代の軍事訓練と武器訓練を受けるという良い点もありました。

日本植民地政府が発行した10ルピア相当の通貨

インドネシア共和国学生陸軍の旗

1938年に建てられてからはホテルとしてよりも、ここは独立や闘争の舞台として使用されます。

ここで関わっているのがわかった人物↓↓

のアダム▪マリク

独立を求める青年運動で日本とのゲリラ戦にも活躍 。

1945年、ジャカルタでのインドネシア独立の準備をする青年運動指導者の一員となった。

アダム・マリクを通じて、スカルニ、チャエルル・サレハ、AM・ハナフィという3人の若者が話し合い、このメンテン31ビルは青年運動の本部となった。

 

この青年活動家による

Rengasdengklok事件

レンガスデンクロック

1945年8月15日 日本が終戦

1945年8月16日、スカルノは、当時生後9か月だった長男グントゥールと第一夫人ファトマワティそしてモハマド・ハッタとともに、青年活動家によってレンガスデンクロクに誘拐される。
目的はすぐに武装蜂起して独立宣言を発表するように促すこと、日本軍による独立への介入を阻止することでした。

スカルノとハッタは独立が国際的に認められれば武装蜂起は必要ないと考えていたため、青年たちの圧力に屈しなかった

この誘拐事件はアダムマリクのアイデアだったようで、AMハナフィが語った話によると、アダム・マリクに相談せずに行動の決定を下すことはできなかったそうです。

誘拐事件をしった独立準備委員会のアフマド▪スバルジョと日本軍の前田靖が青年たちを説得し解放されます。
前田邸に移動したあと宣言文が作られます
ここがどっちかわかりにくいところで、独立宣言文を考えて書いたのはここだと思ってましたが、レンガスデングロックが宣言文が起草された場所であるという考え方もあるみたい

そしてこの後スカルノ邸にて独立宣言文が読み上げられることになります。

アダムマリクがこんな重要なことに関わっていたなんてびっくり


独立を守る期間中、アダム▪マリクと若者たちはメンテン31に本部を置く行動委員会を結成


その後アダム・マリクは貿易大臣および外務大臣に任命され、最終的にインドネシアの副大統領にもなりました。


外にはクラッシックカーが三台ありまして、

1939 年にアメリカで製造されたインドネシア政府が所有する最初の大統領専用車。

 当初、REP 1 車両は日本軍の運輸省に所属しており、1945 年にはジャカルタで最高の車両でした。


独立に関連する施設に行くと、どうしても日本占領時代のことも出てくるので、ちょっと後ろめたくなるのですが、歴史の一部ということで、観光として...


まぁKedaung Homeも隣だし、そのままBakoel koffieでもCikiniやMenteng 回れるので道路の向き的に場所は良いと思う


Gedung Joang '45

Jl. Menteng Raya No.31, RT.1/RW.10, Kb. Sirih, Kec. Menteng, Kota Jakarta Pusat

月曜日休館

9:00~15:00

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