大変な事態。大地震。。。。
本当に大変なことが起こりましたね。
昨日午後2時46分。
江東区高橋の会社3階にいました。
最初は船酔いみたいな感じで、とにかく最近よく揺れるんで、「また揺れてる」ってみんなで言い合っていた。ところがおさまるどころか、どんどん強くなってきた。
棚から物が落ちそうになったりで、これは脱出しないと、と、みんなで会社の下の道路に。
1度、戻ったが、また強い余震。
これはぐずぐずしていたら帰れなくなるかも、と、私は家を目指すことにした。
会社にはまだほとんどの人が残っていたけど、埼玉に家があるR子さんに続き私もすぐに会社を出る。
思ったとおり、電車は動いていない。
バスも銀座方向や渋谷方向は走ってないので、この状況ではタクシーに頼るしかない。
でも、そのタクシーも既に乗っているか、空車かと思うと回送になっていたりで、すぐには拾えそうにない。
でも清澄庭園を過ぎたあたりで運よく掴まえることができた。
しかし、その運転手、首都高に乗りますとか言って、あっという間に下町方向へ。いや、逆だろって、大体首都高動いてるわけないでしょ。
案の定、入り口は閉鎖されている。
そこから246を目指すが、その分だいぶ損したのと、既にもう渋滞が始まっていて、とにかく動かない。
特に六本木通りに入ってからは50センチ動くのに15分以上かかっているし、どんどん止まったままの状態が多くなる。
車の中から外を見ると、道路は歩いている人でひしめきあい、タクシー乗り場にはいつ来るかわからないタクシーを待って長蛇の列。
バス乗り場も人であふれている。
救急車かパトカーのサイレンの音がそこここで聞こえる。
動かないので、メーターは上がるばかり。
どうしよう、これで一体どれぐらい時間かかるのか。
歩いた方が早いかも。
ついに渋谷を過ぎた池尻のあたりで車を降りる決意。
タクシー代金10585円を払って、降りました。
で、246を黙々と歩く,歩く。
その間、何度、娘たちに電話を試みたころか。全くかからない。
仕方なくメールするが、これも、すぐには届いてなかったようで(今日、娘からの連絡で判明)。
よっぽど、玉川に住む長女のところにお世話になろうかと思ったが、家にひとり待っているくっちゃんが心配で心配で、たまぷらまで歩くことに決める。
寒い、風が強くて、だんだんと足の膝小僧が感じなくなる。
足の裏も相当痛くなる。なんか、もうろうとしながら歩いている。
でも、とにかく目指せ、我が家である!
たまぷらまで辿り着くのに、5時間ちかく!
清澄でタクシーに乗ったのが3時半頃か。
渋谷でタクシーを降りたのが6時40分頃。で、たまぷらでバスに乗って(ああ、ありがたいと思ったわ!)家に辿り着いたのが11時40分頃!
で、家の中、大変なことになってました。
本棚からは本が落下、整理棚の扉があいて、中から本の束が全部下に落ち、棚の上にあった置物なども全部落下してそこかしこに転がり、さらに額縁も壁から落ちてました。
食器棚が開いてコップなどが落ちてなかったのは幸いだった。ガスは止まってしまっていたので、ガスメーターのところで再起動。電気が通じていたので、すぐにテレビをつけました。
で、12時頃にようやく夕ご飯を食べられた。ほんとにほっとした。
娘たちも無事だった。彼女たちも私のことをいちばん心配してくれていたみたいで。
そりゃ、あんな下町に毎日通って仕事してるんですからね、関東大震災で最も被害が甚大だったエリアに毎日通ってるわけで、私自身、その危険性はいつも感じているのです。
思えば、私の祖父母はその深川で関東大震災に遭遇、祖母は橋があるときに先に逃げたが、祖父は橋が焼けて欄干だけが残っている中、それにつかまって這うように逃げたという。
川は火の海で多くの人々がそこに落ちて阿鼻叫喚地獄だったと、かって祖父から聞いたことがある。
こうして書いている間もときどき余震が起こってます。
震源地がどんどん南下しているので、それも不安感を煽ります。
でも、色々な方からお見舞い、様子伺いのメールや電話を頂き、本当に恐縮。
多くの方に支えられていることを再確認しました。
昨日午後2時46分。
江東区高橋の会社3階にいました。
最初は船酔いみたいな感じで、とにかく最近よく揺れるんで、「また揺れてる」ってみんなで言い合っていた。ところがおさまるどころか、どんどん強くなってきた。
棚から物が落ちそうになったりで、これは脱出しないと、と、みんなで会社の下の道路に。
1度、戻ったが、また強い余震。
これはぐずぐずしていたら帰れなくなるかも、と、私は家を目指すことにした。
会社にはまだほとんどの人が残っていたけど、埼玉に家があるR子さんに続き私もすぐに会社を出る。
思ったとおり、電車は動いていない。
バスも銀座方向や渋谷方向は走ってないので、この状況ではタクシーに頼るしかない。
でも、そのタクシーも既に乗っているか、空車かと思うと回送になっていたりで、すぐには拾えそうにない。
でも清澄庭園を過ぎたあたりで運よく掴まえることができた。
しかし、その運転手、首都高に乗りますとか言って、あっという間に下町方向へ。いや、逆だろって、大体首都高動いてるわけないでしょ。
案の定、入り口は閉鎖されている。
そこから246を目指すが、その分だいぶ損したのと、既にもう渋滞が始まっていて、とにかく動かない。
特に六本木通りに入ってからは50センチ動くのに15分以上かかっているし、どんどん止まったままの状態が多くなる。
車の中から外を見ると、道路は歩いている人でひしめきあい、タクシー乗り場にはいつ来るかわからないタクシーを待って長蛇の列。
バス乗り場も人であふれている。
救急車かパトカーのサイレンの音がそこここで聞こえる。
動かないので、メーターは上がるばかり。
どうしよう、これで一体どれぐらい時間かかるのか。
歩いた方が早いかも。
ついに渋谷を過ぎた池尻のあたりで車を降りる決意。
タクシー代金10585円を払って、降りました。
で、246を黙々と歩く,歩く。
その間、何度、娘たちに電話を試みたころか。全くかからない。
仕方なくメールするが、これも、すぐには届いてなかったようで(今日、娘からの連絡で判明)。
よっぽど、玉川に住む長女のところにお世話になろうかと思ったが、家にひとり待っているくっちゃんが心配で心配で、たまぷらまで歩くことに決める。
寒い、風が強くて、だんだんと足の膝小僧が感じなくなる。
足の裏も相当痛くなる。なんか、もうろうとしながら歩いている。
でも、とにかく目指せ、我が家である!
たまぷらまで辿り着くのに、5時間ちかく!
清澄でタクシーに乗ったのが3時半頃か。
渋谷でタクシーを降りたのが6時40分頃。で、たまぷらでバスに乗って(ああ、ありがたいと思ったわ!)家に辿り着いたのが11時40分頃!
で、家の中、大変なことになってました。
本棚からは本が落下、整理棚の扉があいて、中から本の束が全部下に落ち、棚の上にあった置物なども全部落下してそこかしこに転がり、さらに額縁も壁から落ちてました。
食器棚が開いてコップなどが落ちてなかったのは幸いだった。ガスは止まってしまっていたので、ガスメーターのところで再起動。電気が通じていたので、すぐにテレビをつけました。
で、12時頃にようやく夕ご飯を食べられた。ほんとにほっとした。
娘たちも無事だった。彼女たちも私のことをいちばん心配してくれていたみたいで。
そりゃ、あんな下町に毎日通って仕事してるんですからね、関東大震災で最も被害が甚大だったエリアに毎日通ってるわけで、私自身、その危険性はいつも感じているのです。
思えば、私の祖父母はその深川で関東大震災に遭遇、祖母は橋があるときに先に逃げたが、祖父は橋が焼けて欄干だけが残っている中、それにつかまって這うように逃げたという。
川は火の海で多くの人々がそこに落ちて阿鼻叫喚地獄だったと、かって祖父から聞いたことがある。
こうして書いている間もときどき余震が起こってます。
震源地がどんどん南下しているので、それも不安感を煽ります。
でも、色々な方からお見舞い、様子伺いのメールや電話を頂き、本当に恐縮。
多くの方に支えられていることを再確認しました。
再編集版:あれから1年たちました。。。。
昨日書いた記事は、書いている視点が私やら娘やらに飛んで、定まってなかったので、書き直しました。もう1度目を通してくださいませ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3月6日は、次女一家がアメリカから移住してきて丸1年のアニバーサリーです!
思えば、あの日から、ほんとに色んなことがありました。
驚き、悲しみ、怒り、失望、苦しみ。。。。
次女とそのムコ殿Pトにとって、日本にやってきて、よもやこんなことが待っていたとは、というハプニングの連続だった。。。。
母の死、私の身辺の異変。。。。
そんな大きな出来事を、最初はこのせま~い我が家で同居生活しながら、一緒に耐えました。
でも、同時に家も探していて、隣の駅近でいいアパートがみつかって、去年3月の終わりに無事引越。
Pトの仕事は、幸いなことにアメリカにいる時点でもう決まっていたので、トレイニングに通い、仕事場も同じD線ですぐの場所という、理想的な環境に。
たくさんの喜びもありました。
Q姫の著しい成長ぶり。まだ歩けなかった彼女は、しっかりと歩いて、おしゃべりもするようになり、益々可愛くて見ているだけでとろける思い。
私にとっても孫が身近にいることがこんなにも幸せで元気をもらえるものなんだと知って、亡き母の気持ちをようやく理解したのでした。。。
そして、娘や婿殿を支えてくれた大勢のお友達。
娘の小学校時代からのなかよしさんや、中学高校で一緒だったお友達など、たくさんの仲間が娘を慕ってくださり、またPトもかつてアメリカの大学で一緒だった日本人の友人とも旧交を温めるなど、いいこともいっぱいあって、そうした方々に支えられたことも、大きな喜びでした。
彼らにとって、日本で迎える2度目の春ーーー
昨年のお花見は気持ちが重くて、とても楽しむ余裕はなかったけど、今年は一緒にお花見も楽しめそう。
お互いにサバイバルしてきた1年。
みんな、精一杯の気持ちで生きてきたから、すっきりとした気持ちで、春の訪れを祝うことができると信じています。
次女たちには、あなたたち頑張ったね!というエールを込めて、昨日は、シャンパンをプレゼントしたワタクシでした。。。。
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3月6日は、次女一家がアメリカから移住してきて丸1年のアニバーサリーです!
思えば、あの日から、ほんとに色んなことがありました。
驚き、悲しみ、怒り、失望、苦しみ。。。。
次女とそのムコ殿Pトにとって、日本にやってきて、よもやこんなことが待っていたとは、というハプニングの連続だった。。。。
母の死、私の身辺の異変。。。。
そんな大きな出来事を、最初はこのせま~い我が家で同居生活しながら、一緒に耐えました。
でも、同時に家も探していて、隣の駅近でいいアパートがみつかって、去年3月の終わりに無事引越。
Pトの仕事は、幸いなことにアメリカにいる時点でもう決まっていたので、トレイニングに通い、仕事場も同じD線ですぐの場所という、理想的な環境に。
たくさんの喜びもありました。
Q姫の著しい成長ぶり。まだ歩けなかった彼女は、しっかりと歩いて、おしゃべりもするようになり、益々可愛くて見ているだけでとろける思い。
私にとっても孫が身近にいることがこんなにも幸せで元気をもらえるものなんだと知って、亡き母の気持ちをようやく理解したのでした。。。
そして、娘や婿殿を支えてくれた大勢のお友達。
娘の小学校時代からのなかよしさんや、中学高校で一緒だったお友達など、たくさんの仲間が娘を慕ってくださり、またPトもかつてアメリカの大学で一緒だった日本人の友人とも旧交を温めるなど、いいこともいっぱいあって、そうした方々に支えられたことも、大きな喜びでした。
彼らにとって、日本で迎える2度目の春ーーー
昨年のお花見は気持ちが重くて、とても楽しむ余裕はなかったけど、今年は一緒にお花見も楽しめそう。
お互いにサバイバルしてきた1年。
みんな、精一杯の気持ちで生きてきたから、すっきりとした気持ちで、春の訪れを祝うことができると信じています。
次女たちには、あなたたち頑張ったね!というエールを込めて、昨日は、シャンパンをプレゼントしたワタクシでした。。。。
母の一周忌
早いもので、あれからほぼ1年。
昨年3月8日に亡くなった母の一周忌法要を今日とり行った。
場所は、江東区猿江の重願寺。
参列してくださったのは、大人19人、キッズ3人。
母のいとこや兄弟たちも高齢になり、出席人数が危ぶまれたが、思ったよりも来てくださり、本当に嬉しい。
やはり、母の人徳でしょうか。
しかも、この晴天!
本当に感謝です。
お経のあと、ご住職が、この1年、楽しいことも辛い事も悲しいことも色々あったでしょう、とまずおっしゃられたので、何かこの1年の私や娘たちの生活が見透かされたような感じで、ドキッ。
死んだ人は応えてくれないから、会話はなりたたないかもしれないけど、でも私たちの想いは受け止めてくれているというお話で、私は、母が天国に逝っても、ずっと私たちを見守って支えてくれていると再認識したのでした。。。。

すべて無事につつがなく進み、久しぶりに会えた親戚の方々と旧交を温めることもできて、楽しく、貴重なひとときでした。
昨年3月8日に亡くなった母の一周忌法要を今日とり行った。
場所は、江東区猿江の重願寺。
参列してくださったのは、大人19人、キッズ3人。
母のいとこや兄弟たちも高齢になり、出席人数が危ぶまれたが、思ったよりも来てくださり、本当に嬉しい。
やはり、母の人徳でしょうか。
しかも、この晴天!
本当に感謝です。
お経のあと、ご住職が、この1年、楽しいことも辛い事も悲しいことも色々あったでしょう、とまずおっしゃられたので、何かこの1年の私や娘たちの生活が見透かされたような感じで、ドキッ。
死んだ人は応えてくれないから、会話はなりたたないかもしれないけど、でも私たちの想いは受け止めてくれているというお話で、私は、母が天国に逝っても、ずっと私たちを見守って支えてくれていると再認識したのでした。。。。

すべて無事につつがなく進み、久しぶりに会えた親戚の方々と旧交を温めることもできて、楽しく、貴重なひとときでした。







