唐招提寺歌碑

 

 

 會津八一は歌人・書家として知られているが、東洋美術並びに日本古代美術についての研究者であり早稲田大学で後進を指導した学芸の人でもあった。1881 明治14年8月1日に新潟市に生れ、早稲田大学で学び、母校の教壇に立ち、戦後は故郷新潟で活動して1956 昭和31年11月21日に新潟市で75歳の生涯を閉じた。

 

 2018 平成30年3月に京都の東寺に、さらに大阪の観心寺にも2020 令和2年9月に八一の歌碑が建立された。没後60年を超えてなお歌碑が建つのはその知名度が必ずしも全国的とは言えないことを考えるとまことに稀有なことと言えよう。

 

 會津八一は明治末年に初めて奈良を訪れて以来その地の古寺古仏、四季折々の風情を酷愛し、その思いを31文字の歌に表現してやまなかった。その成果が歌集『鹿鳴集』(1940年刊) として世に出たが、和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919年刊)、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』(1943年刊) と並んでこの歌集は大和の古寺古仏を訪れる人たちに愛読されてきた。この歌集に著者の古代美術研究の成果などを加えたのが『自註鹿鳴集』(1953年刊、岩波文庫にあり)であるが、総かな書きの歌が後世に誤りなく理解されるようにと詠者自身がすべての歌を言葉に句切りをつけて表記したことでも知られている。


   會津八一の自筆の歌碑は生前に建立されたものが 6基あり、奈良に 4基、新潟に 2基である。中国において王羲之の書が拓本で伝えられ、西安をはじめ各地の碑林に貴重な書や文化が伝えられていることを念頭に置いたのであろうか、八一は歌碑の建立にあたっては極めて慎重で、原稿となる歌を何度も書き、石に彫るに際しては細かい注意を石工や関係者にしたことが知られている。

 

 會津八一は生前に建てられた自分の歌碑について「私の歌碑」(1950 昭和25年1月)で次のように述べている。

 

「私のための歌碑は、漢文でなくて歌を彫るのだと聞いて、失望する人もあるかも知れない。けれども私の記念なら私の歌でなければならない。そして私がそれを自分の筆で書いたものであれば、さらに記念の意味が強くなるわけだ。」

 

「もし万葉集あたりの作者、一人でも二人でも、自分で歌を書いて石に彫らせたものが、今日何処かから出て来たとしたら、どんなに面白い、そしてありがたいことでもあらう。」「私などの歌でも、石に彫るからには、保存さへよければ、優に千年あまりの後までも伝はる。それが上手だとか下手だとかいふのでなく、遺りさへすれば、だんだん値うちが出て来るにちがひない。歌も字もへたくそだといったら、ますます面白いかも知れない。だからいよいよ作るなら、いろいろの条件をよく考へて、出来るだけ忠実に作っておきたいと思ふ。」

 

 自らの歌碑にかける八一の強い思いを窺うことが出来よう。

 

 會津八一の歌碑は全部でいくつになるだろうか。確認のために調べてみたが、その結果歌碑は51基、歌碑に準ずるものとして銅鐘銘の1首となることがわかった。このうち八一生前の歌碑は前記のように 6基あり、最晩年の銅鐘銘にも深くかかわったが、残念ながらその完成をみることは叶わなかった。地域的には奈良県が20基、故郷の新潟県が16基とこの 2県で大半を占めるが、他の11都府県にも歌碑15基と銅鐘銘がある。


 私は日本古代の歴史や文化への関心から會津八一を知りその歌に親しんでいたが、いつの頃からか八一の歌碑巡礼を志して30年を超えるだろう。これまでに個人宅の 2基を除いたすべてをみてきた。なかには首をかしげる歌碑があるのは残念だが、総じて八一生前の歌碑と没後の歌碑はやはり一線を画して考えるべきだと思っている。


 以下に歌碑一覧を載せた。これは展覧会 「會津八一の世界」(2012 平成24年 京都 相国寺承天閣美術館)の図録所収の歌碑一覧に補正を加えたものである。それぞれの歌碑の歌や建立の事情などについてはブログ掲載の歌碑の紹介やエッセイおよび参考文献を参照してほしい。

 

 

 歌 碑 一 覧
 

奈良県 20基

奈良市内 14基

*新薬師寺 1942 昭和17年 4月

*春日大社神苑 1943 昭和18年秋

*唐招提寺 1950 昭和25年秋

*東大寺 1950 昭和25年10月

法華寺 1965 昭和40年11月

秋篠寺 1970 昭和45年

海龍王寺 1970 昭和45年

般若寺 1970 昭和45年

旅館 日吉館(旧碑)1974 昭和49年 4月 

旅館 日吉館(新碑)1991 平成 3年 1月

 (1995 平成 7年旅館廃業、現在両碑は隣の飛鳥園の庭に建つ)

猿沢池前 1998 平成10年 7月

薬師寺 1999 平成11年 9月

興福寺 2007 平成19年 3月

喜光寺 2010 平成22年10月

 

奈良市外 6基

法輪寺 1960 昭和35年11月

原  家 1979 昭和54年 5月( 2014 平成26年11月 法隆寺夢殿の後に移転)

中宮寺 2010 平成22年11月

法隆寺 i センター 2012 平成24年 9月

上宮(かみや)遺跡公園 2012 平成24年11月

法隆寺 2014 平成26年11月

 

新潟県 16基

新潟市内 12基

*新潟県立図書館 1950 昭和25年 8月(1992平成 4年 3月現在地に移転)

*北方文化博物館新潟分館(南浜秋艸堂)1955 昭和30年11月(會津八一最後の居宅)

新潟県立新潟高校 1972 昭和47年10月

旧會津八一記念館 1981 昭和56年 4月      

千歳大橋 1985 昭和60年 5月(欄干意匠の一部、金属製)

會津八一生家跡 1986 昭和61年11月

瑞光寺 1989 平成元年 6月(會津八一菩提寺)

西海岸公園 1989 平成元年10月

伏見家 1993 平成 5年12月

浦山公園 1996 平成 8年 3月

西海岸公園 2011 平成23年 7月(中宮寺歌碑の姉妹碑)

新潟日報社 2016 平成28年10月

 

新潟市外 4基

市島家 1970 昭和45年 3月

太總寺 1978 昭和53年11月

丹呉家 1982 昭和57年11月

柴橋庵 2015 平成27年 7月

 

その他 11都府県 15基と銅鐘銘 1

東京都 法融寺 1960 昭和35年11月

東京都 早稲田大学演劇博物館前 1998 平成10年10月

長野県 旅館風景館  1970 昭和45年 7月

栃木県 高橋家 (建立年月不詳)

愛知県 篠島北山公園 1987 昭和62年 2月

京都府 東 寺 2018 平成30年 3月

大阪府 四天王寺 1983 昭和58年 9月

大阪府 千里南公園 1987 昭和62年 5月

大阪府 観心寺 2020 令和2年9月

兵庫県 宇原文学の森野外文学館 1981 昭和56・7年頃

岡山県 法界院 1988 昭和63年 4月(3基)

*香川県 八栗寺 1957 昭和32年10月(銅鐘銘)

福岡県 片江風致公園 1960 昭和35年

熊本県 木葉猿窯元 1996 平成 8年10月 

  

】 2022 令和4年6月現在の歌碑は51基と銅鐘銘の歌1

           歌碑・銅鐘銘は 1基を除きすべて會津八一の自筆である。

           建碑に會津八一が直接かかわったのは 6基(*印)、銅鐘銘はかかわったがみ             ていない。

 

参考

ブログ 「エッセイと写真」 

ブログ掲載のエッセイ(2022年6月現在)
  會津八一歌碑巡礼 

  落合の秋艸堂山鳩の声わたつみのむさしのの落合の画家たち
  秋の奈良にて幻影 “かすがのに” の歌碑独往の人
 

【参考文献】 

『秋艸道人 會津八一の歌碑(増訂版)』早稲田大学文学碑と拓本の会編 1981年11月

『會津八一のいしぶみ』會津八一記念館監修 2000年11月

『會津八一歌碑』奈良・京都編 會津八一記念館 2019年3月

 

  各歌碑の説明 →