歴史・文学・美術などと旅のエッセイと写真のブログです。
美輪明宏さんが亡くなったことが今日報じられました。心から哀悼の意をささげます。反戦と平和、愛を求めた生涯だったと伝えています。昨年書いた文章をリブログします 。
今年の梅雨は荒れ気味ですが、花菖蒲はそろそろ終わりになりそうです。私の住んでいる東村山市には、昔は田圃だった菖蒲園に約600種、8000株、10万本の花菖蒲が咲きます。大変賑わいますが今年は行けなかったので、コロナの時期の静かな菖蒲園の花をリブログしますのでご覧ください。
庭に少しばかり植えてあるクロチク(黒竹)に花が咲いてやがて枯れていく様子について「竹の花」(2024年12月)「竹の花、その後」(2025年9月)に書いてきた。120年に一度の花というので最後まで見届けようと竹を切らずにいたら、上の写真のように今はほぼ枯れたようにみえる。ところが竹の上の方を見ると、緑色の新芽が伸び始めている。これが順調に伸びたとしても竹の本来の姿とはほど遠いが、これをどう説明したらよいのだろうか?もう一つの変化は、最近竹の根元の辺りから枝の先のような細い芽がいくつも出てきて、驚いたことに花が咲き始めたことだ。枯れつつあるクロチクの根茎から出た新しい芽だろうが、これはどういうことなのだろう?花に気付いてからもう一年半以上になる。本当は新しい竹に植え替えたいのだが、竹の最期も見届けたいのでどうしたらいいだろう。梅雨空のようにすっきりしない心もちだ。(竹とは関係ないけどサッカー、オランダに負けなくてよかった。)
5月23日の新聞が「民家 初の国宝指定へ」という見出しで、兵庫県の現存最古と2番目の古民家が初めて国宝に指定されそうだと報じた(朝日新聞)。私はこの記事を読んで、「民家が国宝になる時が来たのだ」と感無量だった。もともと鉄道旅の車窓風景として、地域によってさまざまな姿を見せてくれた民家は昔から多くの旅人たちを楽しませてくれた。その多くが姿を消して都会と同じような建築資材による都会と同じような形の家が立ち並ぶ眺めに変ってきたのは1960・1970年代の高度経済成長と列島改造の時代辺りからだろう。危機感を持った建築史の専門家たちが、調査と研究を繰り返す中で民家の歴史が明らかとなり、古民家が各地で保存されるようになってきた。今回の国宝指定は、最古の民家と考えられる14世紀ころの箱木家住宅(神戸市北区)と2番目とされる15世紀の旧古井家住宅(姫路市)である。どちらも江戸時代より前、室町時代の民家ということになる。 私はどちらの民家もこれまでに訪ねているが、古井家は遠いところを2度も訪ねているので思い出も深い。同家は当初建てた場所に今も建ち、近年まで住み続けてきたので生活感が色濃く残っていたのが記憶に残っている。この家は兵庫県の安富町(現姫路市)にあり、江戸時代の文献に既に千年家と書かれているという。江戸時代は1603年に始まるが、現存する建築年代のはっきり分かる古民家は農家も町家も17世紀前半以降になる。しかし15-16世紀まで遡れそうな古民家がいくつか各地に残されているがその数は10棟に満たないと考えられている。写真の古井家はこうした最も古い民家の一つで大変に貴重な遺構といえる。私がはじめてこの家を訪ねたのは30年以上も前だが、いささか忘れられない思い出がある。姫路から乗ったバスは西国観音霊場の一つ円教寺の建つ書写山の西麓を川に沿って北に向かったが、終点の皆河(みなご)で古井家のおばあさんと一緒に降りる好運に恵まれた。その頃は家の人たちは古い家のすぐ前に建てた新しい家に住んでいたが、古い家の中にもまだ家財がいろいろと残されていたので生活の匂いがした。集落は西の山地の裾が斜めに広がった台地の上下に不規則に広がっている。千年家は見晴しのよい台地の端に建っていたが土地が傾斜しているので部分的に石垣を築いていた。弓なりの木を利用した自在鉤のあるイロリのそばには、おばあさんと亡くなったおじいさんがこのイロリ端で新巻鮭を持ってニコニコしている地元のデパートの大きな広告が貼ってあった。おばあさんは、おじいさんの自慢話やこの家のこと、代々伝わる亀石のことなどを話して下さり、土産に手作りのフキノトウ味噌をもらったことが思い出される。古井家は軒が低いのでまるで竪穴住居に低い壁がついたような印象を受けた。家の中から外を見ると軒のために視界が遮られるほどだ。建物の周囲は壁が柱を塗りこんでしまう大壁で、開口部はほんの少ししかない。まるで穴蔵のような造りになる。右手の出入口の脇にはトイレがあり、広い土間に入ると前後左右に柱が何本も立っている。部屋の部分は表側が横長の広い板の間(オモテ)で裏側に閉鎖的なチャノマ ・ ナンドがある古い型の三間取りで、チャノマ ・ ナンドの床が竹スノコなのは板が貴重だったからだろう。どの部屋にも柱が何本も立っている。これらの柱の多くは建築当初のもので、カンナではなくハマグリのような刃をつけたチョウナで削ってあるので暗い室内ではまるで蛇の鱗のように黒く光って見える。このような屋内の様子は、太い柱や梁を使って邪魔な柱を省略し、カンナを使うようになる以前の古い民家に共通する特色といえる。それから20年ほどたって再訪して驚いたのは、すぐ前に建っていた今の古井家がなくなって姫路市の管理となり周辺が整備されたことで、その分古民家から生活の匂いが消えていた。しかしすぐ近くに家がいくつも建っている様子は変わらないのでやはり火事が心配になる。これまで何度も火事を防いだという亀石のご利益を頼みにするしかないのだろうか。神戸の北の方にあった同じような千年家が1962年に火事で失われた例がある。最近は訪ねていないのでどのようになっているか分からないが、今度国宝に指定されたらいっそうその管理や保存策が厳重になるだろう。その分住民の匂い、生活感がなくなってしまうのではないだろうか。難しい課題だ。
白壁となまこ壁の建物の美しい町と言えば、倉敷市の美観地区をあげることにおそらく異存はないだろう。最後の2枚のJR倉敷駅の写真からも倉敷の人たちの意識がうかがえる。いわゆる美観地区とは、大原美術館と大原邸の辺りから倉敷川を挟む一帯と、その北側に並行する本通り・本町通りの町並みの辺りをさすのだろう。倉敷川の辺りはやや大きい建物 が多いが、通り筋の建物は新旧入り混じりながらもよく昔からの町のようすを伝えており、今もほとんどが商売に使われているところに価値があると思う。大原邸はこれまで非公開だったが、近年その一部を公開するようになった。写真はその周辺の小径(こみち)の眺めである。上の写真は大原邸の裏の四つ角に建つ古風な街灯、左手の建物は大原邸主屋の裏に並ぶ蔵で、今は大原家の歴史を伝える展示室になっている。公開している離れ座敷の庭の新緑がすばらしかった。大原邸の隣には小径を挟んで別邸有隣荘。その間の小径から眺めた学生の集まる美術館前、傘をさして先を急ぐご婦人。右手の白壁は大原邸。有隣荘の先の狭い小径から倉敷川の方を眺める。川沿いの道を歩く人の姿。どの写真も倉敷ならではの眺めと言えそうだ。本通り・本町通りの白壁となまこ壁の商店が連なる眺めは、数年前のブログですでに紹介している。コロナ騒ぎの時だったので人通りが少ないが、今は賑わっている。ぜひ見て欲しい。今も健在だ。商店街は今風に姿を変えながら駅近くまで続いている。クリック → 倉敷の町並みにて(この中で紹介している井上家住宅の改修工事はすでに終了して公開している。)
前回「風に揺れるジーンズ」で紹介したジーンズストリートの終るところに塩田(えんでん)王野﨑家の広大な邸宅が建っている(国重要文化財指定 2006年)。敷地面積約3000坪、建物延床面積約1000坪というとてつもない広さである。建物や庭園などが創建当時に近い形で保存されているのは珍しいことだろう。(写真2)大きな長屋門から邸宅内に入ると左手に表書院が建っている。客を迎える建物で、広い2つの部屋があり庭には茶室がある。客は専用の御成門(おなりもん)から出入りしたそうだ。(写真3-5)表書院の奥に建つ横長の大きな建物がこの野﨑家の住まい(おもや、主屋、母屋)で、9つの座敷が連続してあり、その長さ23間(けん)、約42mに及ぶという。(写真6)この住まいの横に5つの土蔵が並ぶ眺めがなんとも素晴らしい。皆同じような姿だが、窓と外壁の造りがそれぞれ異なって変化を楽しむようなセンスが魅力的。左端のやや大きな蔵は内蔵といい、出入り口が住まいの側にあり、後ろに小さな夜具蔵があることから、住まいでの生活に必要な調度品のための蔵かと思われる。この右に大蔵・書類蔵・新蔵・岡蔵の順に4つの蔵が並んでいる。どれも本瓦葺きの切妻屋根の妻側を正面とするが、窓と外壁の造りに個性がある。上から白い漆喰(しっくい)の壁、その下に帯のようになまこ壁、下半分は焼き板を縦に貼っている。なまこ壁とは正方形の平瓦を並べて目地(めじ)に漆喰をかまぼこのように盛り上げる造りだが、平瓦の置き方によって2種類の模様となる。倉敷ではどの造りもあちこちで見られるので、この土蔵群はまるで外壁の見本展示場のようでもある。(写真1,7)ではこのような大邸宅を造り上げた野﨑武左衛門(1789-1864)の富の源泉はどのようなものであったのだろうか。それは19世紀前半期の児島周辺の大規模な塩田開発と藩命による大干拓事業にあった。その功績で大庄屋になり大邸宅を造った。江戸時代も終りの時期にあたる(1868年が明治元年)。その富がいかに大きなものであったかは、明治の世の中になって1890 明治23年に議会制度が始まると、武左衛門の孫武吉郎が 3期16年間貴族院議員を務めたことからも想像できる。当時の貴族院令をみると、貴族院議員は、皇族・華族・学識者・多額納税者からなり、多額納税者は各府県で候補者15人から1人が選ばれて任期は7年とされた。野﨑武吉郎は岡山県でただ一人の多額納税者貴族院議員だったことが分かる。(下の写真は岡山藩主からいただいた享保雛。邸宅内のあちこちに飾ってあった雛人形の一つ)
昔は本州から四国に行く時に東の玄関口とも言うべき高松へは、岡山から宇野へ出て宇高航路の船に乗るのが普通だった。しかし、瀬戸大橋ができてJR本四備讃線が開通(1988年)してからは坂出経由で高松へ向かうのが当たり前になって(愛称 瀬戸大橋線)、宇高航路は1991年に廃止された。こうした時代の変化で存在感を高めてきた土地が児島(倉敷市)と言える。今では駅周辺はすっかり都会化してどこにでもある知られた店が立ち並び賑わっているようだ。ところで児島半島の歴史を代表するような旧家野﨑家住宅を訪ねた折に出会ったのが写真のような光景である。いくつものジーンズが人の歩く通りの上で風に揺れる光景は、まずほかの土地では出会えないだろう。旧野﨑家の辺りから児島駅の近くまでがジーンズストリートで、道筋にはジーンズを扱う専門店がいくつも集まっている。若い人たちが結構歩いていた。染め・織り・縫製や加工にいたるまで、すべてに職人の技が生きている児島のジーンズは、ジーンズの聖地としてレトロな雰囲気のある味野商店街の活性化事業として、ジーンズストリートという愛称で2010年にはじまったそうだ。イタリア生まれのジーンズは、戦後のアメリカの影響で日本でも普及してきたのだろうが、国産ジーンズの生産がここ児島の辺りで盛んになったのは、周辺の町村を合併して巨大な市となった倉敷市南部の干拓の歴史と深い関係がある。もともと瀬戸内海の一部だった沿岸部の干拓(陸地化)は江戸時代にまでさかのぼるが、新しい陸地では塩の影響に強い綿花やイグサ(藺草)が栽培されて、綿織物や畳表・花筵(はなむしろ、花ござ)の生産に発展していったという。観光地倉敷を代表する大原美術館・アイビースクエア(倉敷紡績跡地)・大原家住宅がそれを端的に表している。戦後しばらくは倉敷は学生服生産の町として知られていた。塩田王野﨑家住宅が昔の児島の歴史を物語るならば、ジーンズストリートの光景は今の児島の姿を端的に見せてくれるといえるだろうか。
3月の半ば、瀬戸内海を間近に見たくて渋川の海岸に出かけた。児島半島(岡山県)の東南端に位置する海水浴場で西南端にあるのが鷲羽山(わしゅうざん)。瀬戸大橋がここから塩飽(しわく)諸島の島々を結ぶように香川県の坂出に通じている。海はあくまで穏やかで、海岸には貝殻も海藻も漂流物もなく、小さな波が繰り返し寄せてくる。砂浜からあまり遠くないところを大きな船が瀬戸大橋の方へいくつも行 くのを見ると、海底は岸を離れると急に深くなるのだろうか。海岸のすぐ近くに建つホテルの外壁には「津波緊急避難所」と大きな字で書いてあった。まだ海岸で遊ぶ人も少ないが、フト上を見るとハンググライダーが青空を背景にのんびりと海の上を静かに舞っていた。海の代わりに空で泳ぐかのように。 春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村
東海道新幹線に乗る楽しみは富士山を見ることではないだろうか。天候に恵まれれば、新富士駅の辺りで写真のような富士山が見られてうれしいが、雨でなくても雲が多かったりして実は見えないことが結構多い。(写真は2月15日撮影)ところが、5日のNHK TVが「富士山大噴火」で、近いうちにほぼ確実にやってくるであろう富士山の大噴火で、東京を含む麓の一帯は降り積もる火山灰のために大変なことになるだろうと放送した。新幹線からの富士山の姿を「素敵な眺め」と喜んでばかりいられないようだが。ところで、今回不思議なことに気づいた。上の写真は在来線の倉敷駅(岡山県)での撮影だが、ホームの椅子が線路に直角に置かれている。近辺の駅もそうなのか覚えてないのでなんとも言えないが、岡山駅から新幹線に乗った時に観察してみた。上の2つの写真は新幹線の姫路駅と西明石駅だが、どちらも線路と直角に椅子が置かれている。ところが西明石駅の次の新神戸駅になると写真のように線路と平行に椅子が置かれているのが分かる。次の新大阪駅・京都駅になると人が多くてホームには椅子は少ないようだがベンチになって線路と平行に置かれている。これだけの観察で結論を急ぐのは無茶だろうが、ホームの椅子やベンチの置き方はどうも神戸の辺りを境にして変化しているように思われる。それはなぜだろうか?
東京のサクラが満開となり、春本番といったところですが、山や野の花もいろいろと咲き競う季節となり、花の好きな人たちにはうれしい日々ですね。私は1月末からつい最近まで事情があって岡山県の倉敷に滞在していました。その間パソコンとは縁のない生活でした。従ってメールやブログをみたり、することもありませんでした。その間、市内をはじめ周辺のあちこちを訪ねる日々でした。約2か月間家を留守にして帰ってみたら、庭の花たちはもう終ったものあり、これからのものありで、勝手に種が菊鉢に飛び込んで育ったエイザンスミレが大きな花を咲かせて迎えてくれたのがうれしかったです。(写真)庭ではアズマイチゲ・キクザキイチゲの花は終り でしたが、イチリンソウ・ニリンソウ・八重ニリンソウが花の盛りでした。(写真)これから東京での生活が再開し、ブログも再開しますのでよろしくお願いします。倉敷での見聞の一端も紹介できたらと考えています。
12月に続いて同じ喫茶店で写真を3枚展示した。今度は春の山に咲く花の写真3枚を並べたが、店の光線の具合があまりよくなくて写真が見にくいの が残念だった。(上から)ハナネコノメ(花猫の目) 山地の渓流など湿気の多い場所に群生して咲いていることが多い。写真は東京の高尾山北麓の日影沢で撮影。まだ寒々とした沢筋の小さな崖のようなところに群生しており、萼片の白と葯の赤が美しい小さな花を探して何回も尋ねた思い出がある。ある年には雪がたくさん積って小さな崖が半分崩れてしまい心配したこともあった。福島県から京都府の間に分布と図鑑にはある。セツブンソウ(節分草) 東京あたりでは文字通り節分の頃に花が見られる。私が関心を持ったころには花を見たくて遙々栃木や秩父の方まで出かけたが、今では立川市の昭和記念公園など近いところで春の到来を感じることができるようになった。自宅でも鉢植えを庭におろして殖やしてきたのだが一昨年の酷暑でほぼ絶滅状態になり、生き残った実生の小さな株の成長を待っている。写真は都立野川公園で撮影。タカオスミレ(高尾スミレ) 東京の高尾山で最初に発見されたのでタカオスミレと言うそうで、日影沢の林道でわりと見られる。毎年のようにお目にかかっては撮影した。ヒカゲスミレの変種で、葉の表面が赤褐色なのが特色。3枚の写真で早春から春本番の頃を感じられたらと思って並べてみたがどうだろうか。写真が鮮明でないのが残念。春は山の花、野の花の最も華やかな季節だから、また写真で紹介できたらと思っている。
大寒波が襲来して北国や日本海側は大荒れ、大雪のようですが、東京はそれほど寒くなく、陽が照っています。これから変わるのでしょうか。寒々とした庭に一輪のバイカオウレン(梅花黄連)の花が咲いています。まさに春のさきがけ(魁)ですね。スノードロップも咲き始めました。これも早咲きのご常連ですが、日本生まれではなくて地中海西部の辺りが故郷とか。ユキノハナ・マツユキソウという名もあるようです。
謹 賀 新 年世界に平和を、災害に十分な備えをと強く思う新年ですがみなさんお元気に新年をお迎えでしょうか。本年もよろしくお願いいたします。(写真は庭のセンリョウ)
冬 の 日 差 し冬の柔らかい日差しが火鉢のある古風な和室に差し込むある午後のひととき。カメラを少し斜めにして画面に変化をつけ、セピアでまとめてみた。(小金井市 江戸東京たてもの園)散 り も み じ12月になると木々を彩った紅や黄の葉が寂しく散っていく眺めに出会う。地上を埋め尽くすように落ちた紅葉・黄葉とは異なり、冬の季節の到来をしみじみと感じる。京都東山の南禅寺から疎水に沿った道を北に進むと樹々の奥に隠れるようにある法然院の庭。小さな素朴な門をくぐると砂盛が2つ目に入るが写真はその左側の眺め。かつては非公開だったが今は訪ねる人が多いようだ。床に座ったご本尊阿弥陀如来像とその周りの散華が印象的だった。(京都市)今 昔 の 眺 めこの写真は10月に紹介した東京スカイツリー。ほぼ根元から眺められる少ない場所ではと言問橋に行って撮影。台東区側の交差点で観光人力 車と運よく出会った。信号待ちで車がすべて停っているわずかの間に撮ったので、スカイツリーと人力車が重なってしまったのが残念。セピアで今昔の感じを表したつもり。(東京都)******今回の展示は、知り合いのいる喫茶店から声をかけられて実現した。大きな壁の展示スペースには6~7枚の写真が展示できるので、今回は写友と2人で3枚づつ並べてみた。年が明けたら写真を代えて1月末まで展示の予定。caféそらいろ 京王線 中河原駅前
今年も残り少なくなった。あっという間に正月が来そうで怖い。と言うのはまだ何もやっていないからだが、一年前に考えたとうりに成就できそうなことが一つだけある。それは『折々のうた 三六五日』(日本短詩型詞華集 大岡信 岩波文庫)が昨年末の12月に出版されたので、今年は毎日その日の「うた」とプラスいくつかの「うた」を味わおうと心に決めたことが挫折せずに成就できそうなことだ。ここ二三日心に沁みる「うた」に巡りあったので紹介しよう。******12月9日 冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋桜子「作者の高弟石田波郷が、秋桜子先生の句を一つだけ挙げるならこの句だといい、その理由として「洗練されきった叙法、明澄な気品」をあげたことは有名である。他の花がしだいに失せたあと、ひとり咲く菊の花に、われとわが身から湧く光をまとって立つものの、厳しさとすがすがしさを見ている。」という著者の言葉に深く頷けたのだった。たまたま石田波郷について近々書こうと考えていたので不思議な縁を感じた。12月10日 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 松尾芭蕉1694 元禄7年10月に芭蕉は旅先の大坂で亡くなったが、死の床に集まった弟子が辞世の吟を乞うと「折々の句がすべて辞世だと答えたという話が伝わっている。俳諧への執念の人はまた、それを妄執として刻々に断ち切ることを念じた人でもあった。それゆえ、この句は辞世の吟である。」と書いている。私はかつて芭蕉の最期について「旅に病みて」と題して「芭蕉は死んでも旅をしたのである」と書いた。12月11日 雪のやうに木の葉のやうに淡けれ ばさくりさくりと母を掬へり 馬場あき子作者は5歳で生母を失い、継母に育てられた。「長い歳月がたち、母は老い、「雪のやうに木の葉のやうに」淡く軽い骨に還った。無量の思いと思い出を詰めるには、歌は軽やかになるほかなかった。」と著者は書いている。今年も多くの知名の人が亡くなった。家族や親類縁者に悲しいことのあった人も多いことだろう。私もその一人だ。別れは必然とは言え、歳末は無量の思いと思い出をあらためて深くする時と言える。
真冬並みの寒さがやってきて、着るもの、からだがついていけない感じですが、小さな庭も秋から冬に急速に模様替えです。そんな中でひときわ紅葉の赤が鮮やかなのはツクモドウダンの鉢です。鉢植に向いた矮性、白花のドウダンツツジです。寒さにめげず鮮やかな黄色の大輪の花を次々と咲かせているのはツワブキです。葉に艶があるので庭によく植えられますが、よく広がって他の草に影響が出るの でわが家では少々困りものです。園芸品種があるそうなので写真の花はそうかもしれません。近所に九州出身の方がいて、フキといえばこのツワブキでよく食べましたとの話にビックリしたことがあります。そう言えば手元の図鑑には「若い葉柄をつくだ煮にするが、これが本当のキャラブキである。」と書いてありました。秋に咲く花と言えば私はキクです。上の写真は西日本に咲くノジギクの仲間で、咲き始めたアシズリノジギクです。四国の足摺岬周辺の海に面した崖などに群生しているようです。花も葉も小形で、葉には白い毛が密生しています。サガギク(嵯峨菊)もそろそろ終りです。咲きはじめはみだれ髪のようですが、やがて花弁がほぼ真直ぐとなり、最後には再び乱れて枯れていきます。この花の姿の変化が嵯峨菊の魅力です。今年はあまりうまくできなかったので、来年のことを考えながら冬を越すようにしましょう。
今年もカンラン(寒蘭)が咲いてくれました。これは宮崎県の産で、わが家に来てから代を継いでもう50年くらいになります。11月になると花芽が伸び始め、寒くなる今頃に見ごろになります。カンランは西日本産のランですが、四国・九州で多くの銘花が発見されたようです。冬の初め、寒い日が多くなる頃にやや大ぶりの花がいくつも咲き、その凛とした姿が魅力的です。写真の花は花弁の先端を結ぶとほぼ 一辺が8cm の正三角形になります。寒い時季でもあり花はとても長く楽しめます。黄色い実がたくさんなってミカンのようですがスダチ(酢橘)です。徳島県の特産で知られていますが、小さな苗木を売っていたので庭に植えたら大きくなって10月にはたくさんの青い実がとれます。売っているのはピンポン玉かゴルフの玉くらいですが、実の数を少なくすれば大きくなります。写真は大きくなった庭の木の採れなかった実が熟して黄色くなったようすです。1000個以上はあるでしょう。ヒヨドリが飛んできて食べてくれます。青い実の汁は爽やかな香りと味でどんな料理も引き立ててくれます。もちろん焼酎のスダチ割りもいいですね。店で買うのは 汁が少ないのですが、庭になるのは汁がたくさん出て喜ばれます。悩みは木がだんだん大きくなって写真のように採れない実が増えていくことで、この冬は木の枝を思い切って切らなくてはと考えているところです。東京でもスダチが育って味わえるという話でした。
11月は菊の花の季節ですね。各地で大菊の展覧会が開かれたことでしょう。東京でも日比谷公園や新宿御苑などで大きな展覧会が開かれま した。私も一時は大菊の栽培に熱心だったのですが、今は自己流で嵯峨菊を楽しんでいます。今年は夏の暑さの影響を心配したのですが、枯れることもなく、そろそろ花の見頃を迎えたようです。ただ花が小さくて、花弁がきれいにまっすぐに揃わないのは、蕾の整理を怠った私のせいではと思ったりしています。一年に一回の花を見て反省してもやり直しの結果を見るのは来年のこと、菊に限らず日本のたいていの花はそうですね。そのせいか一年に何回も花が咲くのにはどうもなじめません。嵯峨菊は、五月の初めに小苗を植えてそのまま育てたのでは秋に丈(たけ)が大きくなりすぎます。私が初めて京都の大覚寺で見たのはそんな嵯峨菊の姿でした。そこで私はある程度大きくなったら切り戻して、出てくる脇芽を選んで栽培し、やがてたくさん出てくる蕾を整理します。今年はこれまで切り戻して捨てていた芽をその菊の根元に挿し芽してみました。私はツツジやサツキの花が終って枝を整理する時に同じようなことをして小苗を作り、鉢数を増やしてきたので菊ではどうかと思ったのでした。水やりもこれまで通りです。その結果は?驚いたことに挿し芽全部が発根して育ち始めたのでした。そのままにして様子を見てきましたが、今は花の咲いているものあり、あまり成長しないものありです。来年はまた工夫してみようと思っています。
今年は春 4月に信州の佐久市まで行ってそこの西方寺で催された一遍上人(1239-89)ゆかりの踊り念仏をはじめて見学した(踊り念仏の今)。そこで今度は秋10月に催される踊り念仏を相模原市(神奈川県)の無量光寺で見学してきた。当麻山(たいまさん)無量光寺は相模川左岸の亀形の丘陵にある時宗の由緒ある寺院で、一遍が諸国遊行(ゆぎょう)で川の対岸のお堂(厚木市)に来た折に、妙見菩薩のお告げを受けてここ無量光寺の地に留まったと伝えている(1261年)。その後何度も一遍は遊行の折にこの地に留まったようだが、一遍の没後に教団の形成に尽した後継者真教上人が活動の拠点としてこの地に無量光寺を建立した(1304年)。しかし、江戸時代以前、江戸時代、明治時代(1893年)とたびかさなる戦乱などによる火災で建物をはじめ多くの寺宝も失われて今日の姿となったという。時宗の大寺院というと藤沢市(神奈川県)の清浄光寺(遊行寺)の方が今では知られているようだが、こちらは3世智得没後に後継者をめぐる対立で無量光寺から独立した寺で、無量光寺は時宗教団の由緒ある大きな寺院だった。踊り念仏は、毎年10月23日の開山忌にいろいろな行事の一つとして行なわれる。開山忌とは「一遍上人の功績を称え、お祈りする法要」だそうで、この日はご本尊である一遍上人像が特別にご開帳となるが、そばには近づけず暗いのでよく見ることができなかった。期待していたので残念だった。上人の立像は木造で、おそらく旧本堂の跡地に建つ銅像がその姿を写しているのであろう。踊り念仏は、このご本尊の前の30畳ほどの広さの部分で、何の飾りもなく、中央に横長の太鼓が置かれ、一人の女性が太鼓を担当、その音とともに始まった。全員が紫の着物姿で、先達の3人の後に胸に吊り下げた小さな鉦を叩きながら反時計回りに10人ほどの人が続く。やがて太鼓を囲んで輪になると、中心に向かって踊り、再び列になると踊りながら前に進んでいく。踊り手の動きはそんなに激しいものではない。「踴躍歓喜」(ゆやくかんき)というのがあまり伝わらないというのは見学者の無責任な感想。この間約20分でお目当ての踊り念仏は終了したが、説明も資料も何もないのが物足りなかった。これで午前の部は終了し、午後は法要や稚児行列が行なわれるので人がたくさん集まってくるのだろうか、境内には縁日らしいいくつもの屋台が準備されていた。私のように遠方から踊り念仏を見に来た人たちはここで帰る人が多く、私も好天に恵まれた丹沢の山々を間近に眺めながら下当麻駅(JR相模原線)に向かったのだった。(お寺の境内のようすについては次回に)
先日ある会誌を読んでいたらこんな文章に出会った。最近家で地下鉄に乗り鉄に行くといったら、奥さんから、「地下鉄に乗って何が楽しいの、真っ暗でしょう」と言われて、返答に窮したと。趣味とはそんなもので、興味のない人には理解に苦しむことが多いだろうと思う。現在日本の鉄道の総距離数は約 28,000kmで、その人はその99.8% に乗っており、あとは4路線とのこと。鉄道とは乗客を乗せて線路の上を走る車両(列車)と考えるならば、各地の市街電車も含まれるのだろうか。もしそうだとすれば(そうでなくても)99.8% という数字は凄いことだと思う。その楽しみというのは、どのように乗ったらうまくいくか、安く乗れるかと計画を立てる事にあり、旅に出たら列車の内外のさまざまなことに興味を持って楽しむことにつきる、とも書いてあった。私は〇〇鉄と自分で言うほど鉄道に興味を持っているわけではないが、若い頃から山登りや旅が大好きでよく鉄道を利用したので、いろいろな思い出がある。そしてなによりも自慢できるのは、今の若い人たちが絶対に体験できない、廃線になる前のいくつかの路線に乗った経験があることだろう。大学を卒業した年の夏、友人と東京から本州の西半分を一巡りする初めての大きな旅を経験した。今は瀬戸大橋が架かる塩飽諸島に小さな船で渡って島の人たちの生活の一端を見聞したり、四国で乗った列車の窓からは塩田のある景色を初めて味わったのを覚えている。そして山陰線では、沿線の民家のあの色瓦の屋根の連なる眺めが深く心に残った。こうした眺めはその後の高度経済成長時代に姿を消していった。それから数年後の夏、今度は山の友人と北海道の大雪連峰の縦走をして、その後網走・利尻島・知床半島と利尻岳・羅臼岳の登山を目指したが悪天候で断念、襟裳岬などをめぐって函館から青函連絡船で帰京した。北海道の鉄道はその後廃線になった部分が多いので、今は再体験できない山旅・鉄道旅となった。一番新しい廃線直前の旅は三江線で、長距離路線の廃線ということで話題となった。まだ乗ったことがなかったので2015年の秋にはるばる乗りに出かけた。(三江線に乗る)今は新幹線が開通したので敦賀から福井まで20分で行けるが、昔は今庄までの山岳部を越すのが難所で、スイッチバックを繰り返していた。やがて北陸トンネルの開通で時間が短縮された。その山越えをしていた時代に駅からの眺めの良いのが知られていたのが杉津(すいづ)駅で、柳田國男が「「越前の杉津の駅頭から、海に臨んだ緩傾斜を見おろした眺めなどは、汽車がほんのもう一分だけ、長く止まって居てくれたらと思はぬ者は無い。(「旅人の為に」)」と書き残しているのを知って、私はぜひその眺めを見てみたいと現地(駅跡地)に行ったこともあった。(杉津駅のこと)私が世の中に出て私用・公用でよく鉄道を利用するようになった時期はSL全盛の時代から電気機関車、電車の時代へと変っていく時期だったが、貨物列車にはまだSLが多く利用されていた。(都内から出発した最後のSL旅客列車は1969年8月 両国発 勝浦行)大きな駅には必ずホームに大きな手洗いがあり、駅弁売りがいたのもこの時代だった。このアメーバのブログには全国の駅に行くことを目指している人のブログがある。名付ければ駅鉄か。私の場合は、どちらかというと先ほどの杉津駅の成立ち、人々とのこと、眺めといったようなことに関心があるので、普通に言う鉄道の歴史とは異なる意味の歴史鉄、略して歴鉄と言えるかもしれない。こんな言葉があるかどうか知らないが、今年の夏に「8月15日正午に列車は?」というのをブログに書いた。(写真は庭に咲くホトトギスとタイワンホトトギス。もうすぐキクの季節ですね。)