7月10日は歌人・書家として知られる會津八一の養女きい子(1912~45)の命日である。

 會津八一
(1881~1956)は1945 昭和20年4月、東京への空襲が激しくなるなか故郷新潟への疎開の準備を終えたその直後に空襲で万巻の書籍類とともに居宅-目白文化村の秋艸堂を失った。

 會津八一ときい子は新潟県中条町西条(現胎内市)の丹呉家に身を寄せることとなったが、八一の身辺の面倒を献身的にみてきたきい子は、過労と環境の激変のために体調を崩して結核の病状がにわかに進み、丹呉家の持仏堂である観音堂で亡くなった。まだ33歳の若さだった。

 
2012 平成24年の夏、新潟市の會津八一記念館できい子生誕100年の記念展が開催された。きい子の死に寄せる八一の深い悲しみ、哀切な思いは、歌集 『寒燈集』 所収の 「山鳩」 21首の歌と長い詞書に凝集されているが、私はこの記念展を見て改めて戦争の終る一ヶ月前に一人さびしくその短い生涯を終えたきい子に思いを馳せたのだった。 
 

 記念展では、きい子の亡くなった日におそらくその枕頭で悲しみをこらえながら書いたのであろう會津八一の般若心経の一節と、小さな手帳に小さな文字でびっしりと書かれたきい子の最後の日記を見て、その一部を会場で読んで激しく心を打たれた。



 

 2015年の7月には會津八一の新しい歌碑が柴橋庵(中条町柴橋)に建てられた。柴橋庵は八一の 「山鳩」 詞書に 「雛尼を近里より請じ来るにその年やうやう十余歳わずかに経本をたどりて修証義の一章を読み得て去れり」 とある貞乗尼が守ってきた小さな庵であるが、庵主はこの歌碑の完成を待たず4月に急逝されたという。小さな庵の庭先に等身大の細身の歌碑が身を屈めるかのように建っていた。歌碑には 「山鳩」 から選ばれた一首が彫られた。 


やまばとの とよもすやどの しづもりに  なれはもゆくか ねむるごとくに
(山鳩のとよもす宿のしづもりに 汝はも逝くか眠るごとくに)


<山鳩の声がひびいてくるこの観音堂の静けさの中で、おまえは眠るようにして逝くのであろうか>
 
 今年の6月私はこの新しい歌碑を訪ねた。羽越線中条駅で降りると柴橋まではバスの便がないのでタクシーを利用し、西条にも久しぶりに立寄った。西条には八一・きい子が身を寄せた丹呉家・観音堂・菩提寺太總寺があった。中条町(胎内市)を訪ねるのはこれで3回目になるが、町の人たちの會津八一顕彰の動きは近年活発で、新しい歌碑をはじめ、會津八一通りが誕生し、新しい説明板がいくつも立てられた。静かな町は訪れるたびに少しずつ姿を変えていたが、八一・きい子が身を寄せた当時の丹呉家も観音堂も今は姿を消してしまった。しかし現地を歩くといろいろと発見のあるのが旅の楽しみで、以下は2回目の訪問の後にまとめた小文である。
 
 

  1945 昭和20年前後の歌を収めた歌集 『寒燈集』 の自序に、會津八一は 「時はあたかも未曾有の国難にあたり、たまたま予は老齢を以て職を辞したるに、たちまち身辺の一切を喪ひ、蹌踉として故園に帰り来れり」 と書いている。この歌集には奈良の古いお寺も仏たちも登場しない。まさに未曾有の体験をした八一の沈痛な思いが全篇に溢れている。
 
 1945年4月、八一の命ともいうべき万巻の書籍と貴重な資料が一夜にして焼失した。疎開の準備が整った直後だった。文化村秋艸堂の紅一点きい子は 「四月十八日頃が発駅への持込指定日になる様子でその様用意致し置きました。一方表記へ廿日頃疎開することに急に決心し準備中四月十四日早暁の空襲に罹災全焼、月末当地へ参りました。前記の様の次第にて遂に一物も余さず焼失杖代りの傘一本にて着のみ着のままに相成りました」 と、信州の吉池進への手紙で述べている( 5月 6日付。長坂吉和 『會津八一をめぐる人々』 新潟日報事業社)
 
 會津八一の実弟高橋戒三夫人の妹にあたるきい子が八一の身の回りを世話するために落合の秋艸堂にやってきたのは1933 昭和 8年 3月だから(豊原治郎の説による)、1912 明治45年生れのきい子21歳の時にあたる。あまり健康には恵まれなかったが、学問に、教育に、歌に、書にと多忙ななかにも充実した日々を過す八一を裏で支えてきた。きい子が信州戸倉温泉の吉池進(八一の知人)宅に転地療養した頃秋艸堂で手伝いをした河田ネイはきい子について次のように語っている(豊原治郎 『會津紀伊子抄』 中央公論社)

  「私は、紀伊子様が、先生の秘書役、来客の応接、先生の原稿の浄書、校正、先生の良き聴き役、相談相手、適切な助言者、進言者のお立場等々、実によく先生の身辺のお世話をきめこまかい配慮をされながら、なさっておられたお姿を、いまでも、はっきり覚えています。

  先生も紀伊子様には実の娘のように、やさしく、実にこまやかなお心づかいを、つねになされていました。先生は大学のこと、ご自分のお仕事のこと、学生さんのことなど、なんでも、紀伊子様にくわしくお話しなさっていました。夜おそく まで、二階の先生のお書斎で紀伊子様がよく先生とお話しなさっておられました。 本当に、紀伊子様は、先生を心から敬愛され、先生は紀伊子様をいつも心の頼りとされ、心の支えともされて深く信じておられたご様子が、いつまでも、私の心に深く残っております。」

 
 きい子はただ家事をするだけではなく、八一の仕事の助手でもあり、相談相手でもあった様子がよく伝わってくる。彼女が高橋家の六女として生れた頃には裕福だった生家は家運を傾けており、きい子は小学校・高等女学校と優秀な成績だったが上の学校には進めなかったという。そこに秋艸堂の話があって上京した。會津八一は彼女にとっては長姉の夫の兄にあたるので血はつながっていない。毎日のように出入りする弟子や学生達の面倒をみるのは病弱なきい子には決して楽なことではなかったろうが、家の中には膨大な書籍や資料が存在し、客との学問的な会話が耳に入るような環境は彼女の知的な関心を十分に満たすものであり、また彼女自身の気付かぬ間に十分に知的な女性に成長していったのであろう。

  先の吉池進宛の書状は 「會津八一代紀伊子」 と署名されているが、文面も文字もよく整ってその署名に恥じない出来であることに感心する。されば八一が後に 「山鳩」 の詞書で 「よく酸寒なる書生生活に堪へ薪水のことに当ること十四年内助の功多かりしはその間予が門に出入せしものの斉しく睹(み)るところなるべし」 「きい子は平生学芸を尚び非理と不潔とを好まず」 と書き、「をのこごにうまりたりせばひたすらに ひとつのみちをすすみたりけむ」 と詠んだのがわかる。八一は、1944 昭和19年にきい子を養子にした。
 
きい子は 「色白く、眼の涼しい、声のキレイな人だった」(料治熊太) と伝えるが遺された写真を見てもそのように感じられる。名前は、養子縁組の戸籍では 「キイ」 となっているが、本人は手紙では 「きい子」 「き以子」 「紀伊子」 「紀伊」 などと書いており、晩年は 「紀伊子」 が多いようだ。「キイ子」 と書いている本もある。小文では、八 一が 「山鳩」 で使った 「きい子」 とした。
 
 
 
 戦災で無一物となった會津八一はきい子とともに新潟県中条町西条(現胎内市)の丹呉康一家に疎開することとなった。知人・友人のなかには八一父娘を迎えようと申し出る人もいたが八一は丹呉家を選んだ。父の思い出につながる故郷の遠縁の家だった。父政次郎は新発田の市島家の出で新潟市古町の會津家に養子に入った。政次郎の母は越後有数の大地主である市島本家の出で、母の姉は丹呉康平の祖母にあたる。こうした縁で政次郎は幼いときに丹呉家で過したことがあったそうである。また康平の息協平は早稲田で八一の教えを受け親しい間柄であった。八一が愛した落合不動谷の秋艸堂は市島家第六代謙吉(春城)の別荘だった。
 
 戦争末期の当時は郵便を初めすべてが混乱していた。連絡が不十分なままきい子が丹呉家に先に着き、少し遅れて八一が着いたのは 5月 2日だった。父娘は広大な屋敷の母屋とは離れた大きな門にある座敷に落着いた。協平は 「この家の屋敷内には百年、二百年以上を経た松を主とし、杉、欅などの巨木が鬱蒼としていて、それが風となると、枝と枝とのふれ合う音が、うなりとなってひびき、風の止んだ後は松脂の強い香りが庭一面にただよい、小枝が飛散して、庭木をいためたものである。私の家内なども、はじめは風の夜は松風の音が物凄くおそろしく不安で眠れなかったという。しかし今は戦時中の供木で昔日の面影は全くないが、それでもなお残る叢松の松籟は、住み馴れぬ者には不安と寂寥の感を与えるらしい」 と書いている(「続會津八一先生の思い出」 『秋艸道人を語る』 継志会所収)。きい子にとっては一人として知る人のいない、しかも疲労の重なった病身での新しい生活のはじまりだった。八一にとってもすべてに不如意ななかで丹呉父子の好意に感謝しながらの毎日だった。
 
 きい子の吉池進宛の先の手紙は次のように続いている。
 
  「羽越線中条駅より二十丁位の至って閑静な農村で終日小鳥の声がいたします。澄明な空気、空襲等とはほとんど無関係な日々、身体にも必ず好影響あることと存じおりますが、ただ困った事にお米の主要供出地なるがゆえにむしろ配給量の外は絶対雑穀も芋類もお米も入手出来ぬとの事今より先々案じております。……御飯茶碗皿類は既にもらひものにて間に合っており茶道具も揃ひましたが、当地の雑貨商荒物屋等何品も無くそれに顔なじみ薄く、その上町より遠いため宿の方々のお世話もそこ迄は及ばぬので御座います。」
 
 こうした厳しい生活はきい子の病気を一気に悪化させた。開放性の喉頭結核と分ってからは丹呉家の人たちとの生活をさけて、7月 3日に近くの観音堂の庫裏に移って八一と二人だけの生活となった。
 

 


  中条町は新潟市の中心部から東北に約40kmのところにある。初めて訪ねたのはもう四半世紀前になるが、もっと近いと思っていたのが意外と遠かったために時間がなくなり12月の雪の降るなかタクシーを利用しての慌しい訪問になったことを覚えている。そこで今度はゆっくりと見学するために10年後西条を訪ねた。
 
 會津八一ゆかりの西条は、今も昔と変らぬ静かなところのようでしかし確実に変っていた。八一の歌碑のある太總寺の前を過ぎると道が二またとなるが、その右手が昔観音堂のあったところにあたる。しかし今は地域の集会所が建ち、あとは民家が建ち並んで昔の面影は全く失われていた。集会所の前に 「會津八一疎開の地」 と彫った石柱が立っているが右手後方にある丹呉家の墓地だけが当時のままの姿を留めているようだった。
 
 


   この観音堂は、1768 明和 5年丹呉家二代の平兵衛が建てたお堂で、左手の生垣に囲まれた庫裏には僧が住んでいたこともあったが、八一らは当時住んでいた疎開者に立ち退いてもらって移った。当時は都会からの疎開者が村に多数おり、純朴な村も何かと平穏を乱された大変な時代だった。観音堂は草葺きの小さな建物で、なかには西国・坂東・秩父百観音霊場のそれぞれの土などが台座に納められたという小さな観音菩薩像100体が祀られていた。観音霊場巡拝が夢のまた夢だった村の人たちに功徳を分け与えようという思いから建てられたのであろう。庫裏は普門庵といったが観音堂で通っていた。
 
 広い敷地にはいろいろな樹木が茂り古い石塔や石仏がいくつもあった。庫裏の生垣の傍には柘榴があり初夏には朱色の花が咲き、やがていくつもの実がついた。当時の道路はもちろん土で道の脇の用水にはきれいな水が流れていたが、今は舗装道路と蓋をした側溝になってしまい、流れの幅もうんと狭くなった。側溝の中をのぞいてみるときれいな水が音もなく流れていた。「この庫裏は、先生が我家へ復帰後、再び人が住んでいたが、観音堂解体、堂内百体仏、境内の石仏、三重石塔の菩提寺への移転につづいて昭和四十四年八月、とりつぶして廃棄してしまった」 「我家では維持にも修理にも耐えられなかったやむを得ぬ処置であった」 と丹呉協平が書いている(前掲書)
 
 丹呉家の菩提寺太總寺を訪ねて昔の観音堂を拝観した。草葺きの屋根が瓦葺きになって本堂の左後に建増したように接続しているので写真で見る旧観を窺うことは全くできないが、骨組みは昔のままだそうでつややかな柱や梁は十分に古びて時間の流れを感じさせた。また本堂脇の間に移された観音堂の大きな厨子の中には100体の観音菩薩像が祀られていた。案内してくれた大黒さんは、「歌にあるかねはこれのことです」 と上から叩くあまり大きくない鉦を指し示した
 
   
 
 境内に建つ會津八一の歌碑には、
 
ひそみきて たがうつかねぞ さよふけて  ほとけもゆめに いりたまふころ
(潜み来て誰が打つ鉦ぞ小夜更けて 仏も夢に入り給ふ頃)

と 「観音堂」 10首のなかの1首が自画観音菩薩像とともに彫られている。1978 昭和53年11月に丹呉協平を発起人代表とする中条町の人たちの協力によって建てられた歌碑である。
 

 
観音堂に移った頃のきい子は病勢が進み死を覚悟するような情況だった。6月14 日から死の 3日前の 7月 7日まで手帳に記された日記には、死と向き合うきい子の痛切な言葉が書き残されている(豊原治郎 前掲書)
 
「6月18日  
今の衰弱状態にては十日の絶食にて完全に死に至る筈故 他人に厄介をかけるよりもむしろ十日の絶食の方安意(易)に思はるゝも 格別切実に死のせまり来るとも思へず心は平坦なり……

7月 3日
死期近づき廻りの人々用意しそのつもりらしきも自分には死ぬ事も死なぬ事も何の心の動きにならず むしろ戸まどひの型なり この苦しさをまだまだ続くるならばたった今にても死にたし……昨日より一家大さわぎにて用意しくれらりし観音堂に午後よりリヤカに乗りて引うつる 如何にわびしき(気)持のするらんと考へおりしも これも死に対すると同じく担々たり……

7月 4日
観音堂前庭は殺風景なるも東側木立の藪はよろしき 夏も涼しき風入るらし 但し自分には後幾日の命なりや 甚しく苦しき手足緑色だちて見ゆ…… 道人余程疲労らしき 申訳ナシ

7月 7日
あまり苦しき故に夜明に叔母上道人を起してほうじ茶を飲ましてもらふ 生き返りたる様なり 既に死を覚悟したるも弱々乍ら脈あり 人々に迷惑をかけ生きる事心苦しき 年を重ね月日を重ねる毎日に恩になる事のみ多し 果して恩返しが出来るものなりやとひしひしと想ふ」
 
8日になるときい子は床の上に坐って、世話になった方への感謝の言葉を伝えてくれるよう八一に頼んだ。死の 2日前である。後に八一は 「床上に端座して、遠近の知己に感謝の伝言を拙者に懇願いたし候。実に感慨に不堪候」 と知人に書き送った。実の親姉妹から離れ、寂しく死に直面してなお己を失わないきい子の強い精神力には驚くばかりだ。「心は平坦なり」 「担々たり」 「死を覚悟したるも」 といった表現に、病床で苦しみながらも死を見据え、死を超えた彼方に安心(あんじん)を見つけたきい子の心境を感じる。

  7月10日の會津八一の日記

「未明にキイ子危篤に陥る。恰も空襲警報中。午前、八幡の来診を乞ひ葡萄糖注射の後顔面一変し苦悶するにつき安臥せしめ余も暫時まどろみ居るところへ沼垂(ぬったり)の人々来る。物音に目さまして病人を見れば仰臥のまますでにこときれてあり。午後四時頃なり。……」

 
 
丹呉協平は後に次のように語った(豊原治郎 前掲書)

「ちょうど五月から七月は山鳩がしょっちゅう来て鳴くんですよ。デデッポイ、デデッポイポイと低いこもったような寂しげな鳴きかたをする鳥ですがね。キイ子さんはそれを聞きながら、満足な手当てもなく病んでたんですね。十日にキイ子さんは息を引きとったのです。……」
 
やまばとの とよもすやどの しづもりに  なれはもゆくか ねむるごとくに
 

 
 新潟市の會津八一記念館で色紙より大きい赤い紙に般若心経の一節を書いた掛軸を見た。
 
 「菩提薩埵(さった)の般若波羅蜜多(みた)に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖(くふ)有ること無し。一切の顛倒夢想を遠離(おんり)して、究境涅槃(くきょうねはん)す」 と読む。
 
一 番短いお経といわれる般若心経は 「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」 で始まるが、上の一節は経の中程にあたり前半を要約する部分といえる。名著とされる高神覚昇の 『般若心経講義』(角川文庫)によれば 「菩薩(菩提薩埵)の般若の智慧を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想をうち破って、ほんとうの涅槃の境地に達することができる」 という意味で 「「涅槃に入る」 ということも、決して死ぬのじゃなくて、永遠なる 「不死の生命」 を得ることなのです。したがって 「往生」 することが、成仏すなわち仏になることです。仏となることは、つまり無限の生命を得ることなのです」 と説いている。(写真は複製を撮影)
  
 色紙の左端には 「昭和乙酉七月十日」 と書いてある。「乙酉」 は昭和20年の干支である。おそらく、會津八一は人の出入りのなくなった深夜、息を引き取ったきい子の傍らで筆を取ったのであろう。まるで八一に尽すために生れてきたような彼女の死を受けとめねばならない八一の深い思いを知ることが出来る。
 

 
 きい子が亡くなると、丹呉家からこちらに移るようにと八一は再三勧められたがそれを断り観音堂での独居自炊の生活をしばらく続けた。知人に宛てた当時の書信で八 一は 「罹災もこの度のことも、拙者にとりてはよき打撃たらしめたく静思致し居り候」 「波瀾あり浮沈ありてこそ、人生は味ふべきなり」 と述べている。この間に、亡くなったきい子を偲び、自己を見つめる生活から 「山鳩」 21首 「観音堂」 10首 「柴売」 6首の歌が生れた。きい子への挽歌 「山鳩」 とその特別に長い詞書には八一の痛切な思いが凝縮している。その一節に 「きい子は平生学芸を尚び非理と不潔とを好まず 絶命に臨みてなほ心境の明清を失はざりしに 時恰も交通のたよりあしく知る人の来りて枕頭を訪ふもの殆ど無かりしば 予ひとり側にありて衷心の寂莫を想うて しきりに流涕をとどめかねたり」 とある。最初は 「山鳩」 ではなく 「紀伊子」 という題を考えていた。これまで小文に引用した歌はいずれも 「山鳩」 からだが、他にこんな歌もある。
 
わがために ひとよのちから つくしたる  ながたまのをに なかざらめやも 
<私のために一生の力を出しつくしてくれたおまえの短い命にどうして泣かないでいられ
ようか>
ひとりゆく よみぢのつかさ こととはば  わがともがらと のらましものを 
<おまえがひとりで行く冥土の役人が何ごとかを問うたならば、會津八一の仲間だと言え
ばよいのだ>
かなしみて いづればのきの しげりはに  たまたまあかき せきりうのはな
<悲しみつつ観音堂を出ると、軒に近い茂り葉の中に、たまたま朱い石榴の花が見えた>

(石榴はザクロ、大意は西世古柳平による)
 
 独居自炊の生活を歌った 「観音堂」 から。
 
かたはらに ものかきおれば ほしなめし  うどんのひかげ うつろひにけり
   かどがはの いしにおりゐて なべぞこの  すみけづるひは くれむとするも
   このごろの わがくりやべの つたなさを  なれいづくにか みつつなげかむ
 
 會津八一が100日余の独居自炊の生活から丹呉邸に戻ったのは10月下旬だった。やがて寒くなると母屋の大きな囲炉裏端は夕食前後は賑やかだったが 「時には囲炉裏にくべた木炭が白く灰になっても炉端でじっと考え事をしていられる先生であった。そんな時は、両足をかかえる様にして黙然とさびしげであった」(丹呉協平)。八一は亡き父を偲び、風の音に耳を澄ませていたのであろう。
 
ふるさとの ほたのほなかに おもほゆる  うらわかきひの ちちのおもかげ
ひといねて ひろきくりやに くだつよを  まどしろたへに いでしつきかも
くりやべに ひとなきよはを ふきあれて  うしほにまがふ むらまつのこゑ
 
 罹災ときい子の死といった出来事は八一を打ちのめしたが、それに堪えることで人間としての深みを増したといえよう。『寒燈集』 の歌のかずかずはこうした八一の姿をよく示している。「その内容の索莫として殆ど無一物に似たるものあらむも、もし後人の世を隔てて仔細にこれを看るものあらば、必しも花なく、月なく、また楼台なきにあらずして、かへって興趣の汪洋として尽くる無きものあらむか」 と 「自序」 で述懐している。
 
 年が明けた 7月、會津八一は新潟市南浜通の伊藤文吉別邸(北方文化博物館新潟分館)の洋館に移ったが、丹呉協平宛の礼状には 「拝啓 昨年罹災以来貴邸内にて御手厚き御待遇を受け物資最も窮乏時代ものんきに相暮し候こと真に忝く奉存候……」 と感謝の思いが込められていた。
 
 ところでこんなエピソードがある。會津八一は桜桃が好きだが、おいしい桜桃は高い木に登って採るのに八一は僅か 1メートルばかりしか登れない。ところが歌には 「あうとうのえだのたかきにのぼりゐて はるけきとものおもほゆるかな」 とあるので 「先生、枝の高きに登りゐてなんていう歌が出来るのですねェ」 とからかい半分のにくまれ口をきいた。また、ある座談会で 「実は私どももあの 「なべそこのすみけづる……」 には驚きましてね。……父が 「先生、鍋底の炭をけずっていなさるんですか」 とおききしたわけです。その時先生は 「いや、あれはまあやってみただけのことで」ということで、何でも作品イコール事実と考えていた我々はびっくりしたものでした。」 と丹呉協平が語っている(前掲書)。「虚実皮膜」 という言葉が思い出される。

 とかく 「悲哀、孤独」 といった言葉とともに語られる會津八一の西条での生活は、土地の関係者には微妙な違和感があったようで、実際には丹呉協平をはじめ多くの人たちがよく尽 していたことは、現地を訪ね、書かれたものを読めばよく分るし、八一も感謝していた。
 

 


 丹呉邸を訪ねた。観音堂のあったところの別れ道を左へ行くと右手に大きな木が茂っている。ここが丹呉邸の庭の裏手にあたり、手前を右に曲がるとすぐに入口がある。といっても門があるわけではなく、少し入るとごく普通の今風の家が建っているのが意外だった。老婦人が一人で家に住んでおられると聞いていたが幸いご在宅だったのでお話を聞くことが出来た。写真で見るあの豪壮な邸宅は1949 昭和24年の火災で焼けてしまい、また戦後の農地改革や二度の代替りなどで邸宅の敷地や所有地に大きな変化があったらしい。写真や文章で知る昔の面影は全くといってよいほど失われていた。

 老婦人は静さんといい1917 大正 6年生れだが大変お元気で、駅のほうまで買物にも出かけるそうで話もはっきりしていた。よくお聞きするとなんと協平氏の未亡人であった。突然の訪問だったので長い時間話をお聞きすることは遠慮したが、きい子の少し年下にあたり、「大変もの静かな方でした」 と話された一言が心に残った。生前のきい子を知っている方とお目にかかることが出来るとは思ってもみないことだった。

 庭にある歌碑を見せていただいた。庭は昔のままのようで、大きな池の向うに築山があり、その上に小さな歌碑が建っていた。

 
「庭のもみじ山の一隅に数奇屋風の一屋があり、その入口には、聴泉亭と浮きぼりにした蘭台の木額が風雨にさらされてかけられていた。ここからは前方の松林をへだてて水田が見渡され、その彼方には遠くの山なみがはるかにつらなっているのがながめられたし、四季の変化も美しかった。部屋の後方の窓下は泉水から流れる水が渓流となって、せせらぐのを見下すことが出来た。池水に落ちる滝の音も、常に絶えることなくドウドウと轟いてきこえた。道人は好んでここを読書屋としてすごし、午睡し、心経を写し、歌想を練った。」

と丹呉協平が書いているが(前掲書)、この建物の跡に歌碑が建っていることになる。
 
  會津八一が丹呉邸に居たときに協平の持っていた八一の歌集 『山光集』 の見返しに 「ふるさとのこのま涼しもいにしへの 於ほきひしりのからうたのこと こは災後西条丹呉氏方に寄寓してその庭上にてよめる歌の一なり 秋艸道人 八月二十三日」 と書いたのをいつか歌碑にと願っていたのが1982年に実現した。「石は聴泉亭の手洗いの側にあった紀州石です。碑面は、色紙二枚を横に並べた程の大きさで黒御影です。石の大きさは高さ幅共に八十センチ位です」 「腰の高さほどの小さい碑ですが夫は大変気に入っていました。その夫も今はなく、會津先生のことも、紀伊子さんのことも、夫のことも、皆茫々として、碑面に往時を偲ぶばかりです」 と静さんが書いておられる(『會津八 一のいしぶみ』 新潟日報事業社)
 
歌碑のある築山の上からの眺めは往時の様子が失われているが、碑の周囲には杉苔が密生して、まるで緑の池に小さな碑が浮んでいるかのように感じられるのがなんともいえずよかった。