むさしのの くさにとばしる むらさめの いやしくしくに くるるあきかな
 
 會津八一は号を秋艸道人といい、住まいを秋艸堂といったことからすると春よりは秋の方が好きだったのだろうか。私の家の近くに真宗の法融寺という寺があり、その境内には會津八一のこの歌の碑が建っている。
 
 「むさしの」 は 「武蔵野」 で 「とばしる」 は 「飛び散る」、「しくしくに」 は 「頻りに」 といった意味で、秋の雨の歌になる。歌集 『鹿鳴集』 中の住まいの情景を詠んだ歌 「村荘雑事」 に含まれ、この歌碑は東京にある二つの會津八一の歌碑の一つである。
 

 新潟出身の會津八一は、1906 明治39年に早稲田大学を卒業して数年後に早稲田中学の教員になってからは早稲田一筋で、1945 昭和20年に戦災で新潟に移るまで 35年間東京で生活し、その間に学問に歌に書にと後世に残る大きな仕事をしたことはよく知られている。早稲田大学には 「會津八一記念博物館」 があり、會津八一が収集した中国の明器(めいき。墳墓の副葬品)・鏡・瓦などとともに八一の書も展示されているので足を運べばそれらに接することはできるのだが、なぜか東京のゆかりの場所には歌碑が建てられていなかった。

 會津八一の歌碑は全国に49基あるが、奈良に 20、新潟に 16、その他13(東京・大阪・岡山・長野・熊本など)である。やはり古都奈良、『鹿鳴集』 の會津八一、郷里新潟の會津八一なのだろう。したがって會津八一に関心を寄せる人にとっては東京の法融寺にある歌碑はまことに貴重なものといえよう。


  歌碑は高さ約 1m、幅約 1.5mの量感のある大きな石で、これは彫刻家奥田勝と石工喜多桝太郎が奈良で探しあてた生駒石だという。全体が黒っぽくてざらざらとしてお り、碑の面だけが磨いてある。すすきが3本描かれた右に歌が 7行に分けて書かれているが文字は少し読みにくい。會津八一の歌碑の中で歌と絵が彫られているのはこの歌碑と新潟県太總寺(胎内市中条町)の歌碑と法隆寺の近くにある上宮遺跡公園の歌碑だけである。
 
 會津八一は書家であっただけに歌碑の文字の彫りに厳しかった。それに「私などの歌でも、石に彫るからには、保存さへよければ、優に千年あまりの後までも伝はる。」(「私の歌碑」)といった思いもあった。 だから碑に彫る歌はそのために揮毫して石に張って彫らせたという。

 會津八一の生前に建てられた歌碑は 6基あるが、2番目に古くいまは奈良の万葉植物園に建っている最初の歌集 『南京新唱』 の巻頭歌 「かすがのにおしてるつきのほがらかに あきのゆふべとなりにけるかも」 の碑は私費で造ったもので、さきの奥田・喜多両名の尽力により完成した。以後東大寺・法輪寺の歌碑もこのコンビに任された。法融寺の歌碑は會津八一没後のものだが信頼厚かったこの両名が力を尽した碑だった。

 碑陰には 「願主開基釈信願 昭和三十五年十一月二十一日渾斎同人建之 大和石工喜多桝太郎」 とある。「願主開基釈信願」 は法融寺の那須信吾住職のことだが、「開基」 とあるのでこの寺は新しいようにみえる。しかし本堂の前に立つ説明板を読むと、法融寺はもとは江戸時代以来下町にあったが関東大震災および戦災で焼けた後に信願寺と合併して信願山法融寺となりこの関町に移った歴史をもっている。したがって那須住職は信願山法融寺の開基だが実は由緒ある寺といえる。このように関東大震災や戦災で焼けた寺院が東京の西郊に移転した例は少なくない。次の 「昭和三十五年十一月二十一日」 は、會津八一没後 4年の祥月命日にあたる。「渾斎(こんさい)同人」 とは渾斎こと會津八一と志を同じくする仲間といった意味だろうがこの建碑に努力したのは、杉本健吉・安藤更生・上司海雲・奥田勝・長島健といった人たちだった。      


  ではここ法融寺になぜ歌碑が建てられたのだろうか。かつて私の問合せにたいしていただいた返信で住職は、「會津先生は拙寺住職の恩師でありますので、新潟の菩提寺に納骨の際分骨して東京在住の弟子、知友人のために墓参の便宜上拙寺へ墓石を建てたものであります。尚歌碑は三回忌の折に関東に一つもありませんので弟子達が資金を出し合って建てたものであります。毎年十一月二十壱日の祥月命日には秋艸忌と称し て弟子達が集って供養の後小宴を催して居ります。」 と書かれていた。要は、會津八一 の教えを受けた住職が師の没後分骨して墓碑を建てたのが先でその縁で歌碑を建てたというわけである。

 1956 昭和31年に亡くなった會津八一の墓碑は新潟市の會津家の菩提寺瑞光寺にある。新潟市の繁華街古町通の近くにあたるが(西堀通三番町)、會津家の墓地とは別に本堂の前に墓碑が建てられているのにやや違和感をもつのは私だけだろうか。八一の気持に沿ったものとは私には思われないのだが。それに比べて法融寺の墓碑は構えないのがとてもよい。 高さ 1m ほどの青い自然石に 「秋艸道人」 とだけ彫られ、碑陰には 「昭和卅二年十一 月廾一日會津八一先生知友門下生有志建之」 とある。周りには桜・馬酔木・椿が植え られているがどれも春の花の木なのがなにやらおもしろい。
 
 墓地に大きな木がなく土地に起伏がないのが武蔵野台地にある寺院に共通するのだが、したがって陰影に乏しく趣に欠けるのが残念なところだ。それにしても、あの口をへの字に結び眉間に皺を寄せて立つ、強烈な個性を窺わせる會津八一の写真からは想像し難いことだが、よい門下生・知友に恵まれたものである。歌碑の周辺には安藤更生・上司海雲の墓碑、宮川寅雄の詩碑がある。
 

  安藤更生は、大著 『鑑真大和上伝の研究』 で知られるが、没後に刊行された文集 『南都逍遥』 中の 「會津八一の歌碑」 に八一の歌碑にたいする厳しい姿勢を伝えている。1970 昭和45 年10月に亡くなった。

 上司海雲は、東大寺塔頭観音院の住職、後に東大寺管長になった人だが、志賀直哉をはじめ多くの知名人との交遊やいくつもの大きな壷を愛したことでも知られている。文集 『古都鑽仰』 には、會津八一と知り合ったいきさつや大仏の歌碑のこと、その人となり、最晩年に 「以後ながく交際を断つべく候」 と言われた状態のままに會津八一が亡くなってしまったことなどが書かれている。法融寺の住職が書いた墓碑銘には、「夙に学友として親交あり、師は友情寔に篤く、当山創立に際しては貴重なる法宝物を寄せられ、爾来物心両面の惜しまざる援助は深く感銘するところなり」 「茲に分骨を希ふて師の徳を慕う知友と共に永く弔はんとす」 とある。1975 昭和50年1月に亡くなっ た。

 宮川寅雄の詩碑には、「風が鳴る風が/鳴るのは渓あい/に鬼が棲むらし/桜さかせつ 杜ら」 とあり、碑陰には、「會津八一の門に学ぶ。美術史家、和光大学教授。杜良、朱花書屋人と号し書画作陶吟詠にあそぶ。一九八五年秋 或朱花書屋同人建之」 とあ る。『會津八一の文学』 『會津八一の世界』 『秋艸道人随聞』 といった著書のほか會津八 一の著作などの解説も含めて、會津八一についておそらく最も多くを語っているだろう。1984 昭和59年12月に亡くなった。

 画家杉本健吉は法融寺歌碑の設計をしたが、會津八一とは海雲の観音院で知り合い、 1954 昭和29年に八一の歌 20首と書に杉本の墨彩を合わせた歌画集 『春日野』 を刊行した。會津八一最後の著作である。1978年には一回り小さい判の覆刻版が出された。その中の一枚、築地塀の絵に 「たびびとのめにいたきまでみどりなる ついぢのひまのなばたけのいろ」 と書かれたのが拙宅の玄関に毎年春になると飾られる。98歳の天寿を全うして2004 平成16年2月に亡くなった。
 

  法融寺の那須住職が寺を興すにあたって會津八一は、「信願道場」 「法融寺」 と2枚の書を与えた。今も本堂と庫裏の入口に木に彫られて掲げられている。師弟の関係の密なことを知ることができるが、この住職も1981 昭和56年2月に亡くなった。

 何人といえども押しとどめることのできない歳月の進行は、このように會津八一と縁あって結ばれた何人もの人たちを彼岸に運んでしまった。仏教に 「倶会一処(くえいっしょ)」 という言葉がある。真宗では墓石によくこの文字が刻まれる。那須住職の墓碑にも刻まれている。この世の命が終ると極楽浄土の阿弥陀仏や菩薩たちとともに一つのところで出会うことができるといった意味だが、私には會津八一と縁あって結ばれた人たちが浄土で出会い、楽しく語り合っているかのように思われてならない。東京の法融寺はもっと知られてよいと思う。
(練馬区関町東1-4-16。西武新宿線上石神井駅下車、西に徒歩10分ほどのところにある)
 

 
 11月21日の秋艸道人忌には菩提寺瑞光寺(新潟市)で毎年法要と講話などが催され、東京でも長年法融寺で集まりが行われてきたが、近年は同寺近くの会場で偲ぶ会が開かれるようになった。時代の流れが感じられる。それにしても没後61年、学芸と歌と書一筋の生涯だった會津八一が、忘れられることなく多くの人々に関心を持たれ続けていることはまことに稀有なことと言えるかもしれない。2014年秋には法隆寺に歌碑が建ち、京都の東寺にも来春歌碑が建立される。
 
 なお、東京にあるもう一つの歌碑は早稲田大学構内の演劇博物館の前にある。演劇博物館創立70周年記念(1998 平成10年)に建てられたもので、シェイクスピアの講義をする坪内逍遥胸像の大きな台座に 「むかしびと こゑもほがらに たくうちて とかししおもわ みえきたるかも」 と 5行に彫られている。教壇で熱弁をふるう逍遥の面影が彷彿とする。歌集 『山光集』 の 「校庭」 中の一首で1944 昭和19年4月の作である。早稲田で英語を学んだ會津八一の恩師坪内逍遥に対する尊敬の念は終生変わることがなかったという。