11月21日は會津八一が1956 昭和31年に亡くなって64年の命日にあたる。毎年新潟と東京で行われてきた追悼供養の会や偲ぶ会も今年はコロナ禍で中止となり八一のファンにはいささか寂しい秋となってしまった。そこで今は奈良春日大社神苑の万葉植物園に建つ八一の歌碑をめぐってその建碑のいきさつを紹介しよう。

 

かすがのに おしてるつきの ほがらかに  あきのゆふべと なりにけるかも

 

 この歌は會津八一の歌集 『鹿鳴集』 巻頭の歌としてよく知られているが、『自註鹿鳴集』 のこの歌の自註に 「この歌を作者の筆跡のまま石に彫りたる碑は、春日野の一部にて古来 「とぶひ野」 といふあたりに建ちてあり。」 「その位置を春日大社の社務所にて確かめらるべし。」 と書いてある。

 

 『自註鹿鳴集』 の出版は1953 昭和28年だからこの歌碑は当時春日野に建っていたことが分かる。春日野の一部にあたる “とぶひ野” の雪消沢(ゆきげさわ)にある大きな樟(クスノキ)の辺りに建っていたらしい。東大寺南大門から南に少し行くと春日大社表参道に出るが、その南に広がるのがとぶひ野(飛火野)で、参道のすぐ傍に今も水が湧く雪消沢があり大きな樟が3本たっている。この辺りは大仏殿周辺の喧騒が嘘のように静かで今も広い草原が広がっている。

 

 ここはまさに “かすがのに” の歌にふさわしい場所で、歌碑は最初ここに建てることを考えていたがいろいろ規則があって実現できずに八一と縁のあった東大寺の塔頭観音院に保管されていたところ、やがてその場所が春日大社の管理下になり八一の当初の願いが実現することになった。この辺の事情を 「私の歌碑」 という文章に會津八一が次のように書いている(『新潟日報』 1950 昭和25年1月1日)

 

 「これは私のポケットモネーで造らせた。私はもとより春日野へ立てるつもりであったが、その頃は、やかましい規則があって、県庁が許可しない。それで私は、東大寺の観音院の庭へ、いつまでといふ目あてもなく寄留させておいた。」 「それで私も、あの碑は、あのまま、あの庭でだんだん苔にでも埋もれるのであらうかと半分諦めてゐた。すると最近に水谷川忠麿君、これは亡くなった近衛文麿の弟で、もとは男爵か何かであったが、今は春日神社の宮司になって奈良にゐる。この人からの手紙に、今度春日野は神社の所属になったから、君が承諾さへしてくれるなら、あの碑をば、いよいよ君の素願の通り、観音院から春日野に移したいといふことであった。私はこれを見て、時さへ来れば、何事もこんな風に行くこともあるものかと、大変にいい気持になって、万事よろしく頼むことにした。するとまたあちらから、同じ春日野でも、雪消の沢といふところの大きな樟の木の下に仮に建ては建てたが、それでいいか何うか、出来るなら自分でやって来て、ほんとに位置をきめてほしいといって来た。けれども、こちらは老体ではあるし、だんだん寒くはなるし、いづれ四月の初ころに見に行くつもりでいる。」

なおこの文章で歌碑の歌を 「春日野に押し照る月の朗らかに秋の夕となりにけるかも」 と漢字交じりで書いているのは新聞の読者を考慮してのことだろうか。

 

 その後會津八一がこの春日野に建った碑を実際に見たかどうか分からないが、いろいろと不満があり、それが伝えられたのだろうか、神社神苑の万葉植物園ではどうかと提案されたことが水谷川宛の次の書信で分かる。

 

 「春日野の拙碑を御希望によりて寄進致したるも、その位置及び礎石など、わがままを申せば、常に不満に存じ居り候。実を申せば、新潟地方の人が御地へ観光のために参るものに、碑を拝見せよと申つけても、誰一人見て帰りしものなく候。他の地方から遙々まゐるものには、雪消沢など申しても、不案内のものにはつひにわからず候。本日仰越しの万葉植物園は、雪消沢よりは稍々ましかとは存ぜらるるも、一般観光者には植物園といへども甚だ耳遠しと存候。また礎石のことも、従来全く無かりしこともあり、有りても時によりて変転して端倪すべからざりし如く、これも、寄贈者としては、正直に申せば甚だ不満に存じ居りしことにて候。万葉植物園にしても又何処にしても、見るからに間にあはせものでなく、相当なる礎石がありてほしきものなりと存じ来りしにて候。」「創建以来、とかく参詣人の弁当の食ひがらなどのゴミ棄場の番人の如く立ち居るといふ報告に接すること多く、失望致し居りしにて候。(下略)(1955 昭和30年8月30日)

 

 上の書信は八一が亡くなる前年で、結局この歌碑は万葉植物園に移されて礎石なしで現在に至っている。しかし私としては大変残念な思いで、この歌碑はやはり春日野に建っていて欲しかった。そんな思いでつくってみたのが上の写真。春の景色なのがいささか残念ではあるがここは私の大好きな場所、あの歌碑はやはりここにといつも思っている。その次の写真は樟と雪消沢の池で、石柱には 「雪消沢古蹟」 と書いてある。

 

 

 

 

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