わ た つ み の


 書家・歌人として知られる會津八一が1956 昭和31年11月21日に亡くなって60年になる。奈良を 「酷愛」 した八一の歌碑は奈良にたくさん建てられているが、最晩年に心血を注いだ香川県八栗寺の鐘銘と歌はあまり知られていない。かなまじりの銘文とかな書きの歌という珍しい梵鐘だが、完成したのは八一が亡くなった翌年の10月6日だった。
 
 四国遍路の85番霊場である八栗寺に八一の鐘銘と歌を訪ね、梵鐘が出来上がるまでの八一および関係者の苦心に思いを馳せた。
 
 

 
 五剣山八栗寺は香川県高松市東郊牟礼町の五剣山中腹にある四国88霊場の85番目の札所として知られている。 會津八一とこの寺との縁は、住職中井龍瑞が岡山法界院の住職松坂帰庵に梵鐘の制作を相談したことに始まった。かねて會津八一を敬慕していた松坂帰庵がその銘文と歌を八一に依頼することをすすめ、自ら筆をとって依嘱したところ、意外にも八一が快諾することとなって実現した。松坂帰庵と會津八一とは旧知の間柄で、八一が新潟の西条に疎開した時には当座の生活物資や大量の画仙紙を送ったこともあったが、「この先生は人の依頼をうけて作歌するようなことは絶対にないのである」 「作歌と揮毫を御願ひすることは薄氷をふむおもひであった」 と梵鐘が完成したときに編まれた小冊子で述懐している。

 以後會津八一との交渉はもっぱらこの松坂帰庵があたることとなったが、鐘銘完成までのいきさつは 『會津八一全集』 第十に収められた10通の松坂宛の八一書簡によって知ることが出来る。八一とは全く縁のない四国のお寺からの依頼に強く心が動いたのは、これまで経験のなかった梵鐘の銘文 (陽刻、鋳造) jということにあったと思われる。古来名鐘の銘文は名僧名家の筆になり後世の範とされるものが多かった。当時心身ともに衰弱を自覚しつつあった會津八一をしてあえてその制作に向かわせるだけの魅力があったのだろう。

 「拙者従来石碑は手がけ候へども、鋳金ものは無経験にて候へば、従ってすべて不案内にて候へども、此の件は御ひきうけ可申と存候間先方へ御沙汰被下度候。そのほかに歌を詠むことも、拙者にとりてはまことに重大の仕事なれども、何とか作り上げ可申と存じ居り候」 と松坂に書き送ったのは1955 昭和30年10月30日である。 そして早くも11月 8日には鐘銘の原稿が送られており、この原稿に添えて銘文・歌についての八一の考えが述べられている。
 歌を詠むにあたって會津八一をなによりも悩ませたのは、八栗寺はもちろんその周辺の様子について何も知らないことだった。直接に寺を訪ねることは難しいにしても イメージがある程度明確にならなくてはよい歌は生れそうにない。八一は再三にわたって写真や文献などの資料と寺と周辺の様子についての説明を求め、寺の側も一所懸命にそれに応えようとした。

 「八栗寺の実境に接したることなく候ため、実感たやすく眼前にうかび来らず候間、銅版刷の絵図にても、コロタイプの絵葉書にても、乃至案内記の類にても、いささかにても想像を資くるものあらば、御示し被下るやう、中井僧正へ御願ひ被下度候」 と承諾の書簡に書き記し、歌が出来て送った後にも 「海と寺 との位置の関係が明確ならざる時は、歌の価値も意味も無きことに可相成と存じ、甚だ懸念致し居り候」「拙者先年瀬戸内海は二往復したるも、四国の北岸は一度通りたるのみにて、壇の浦附近の実情に不案内に御坐候。今日八栗寺から送附の縁起など一読 したるも、実情は依然として明確につかみ得ず、まことに隔靴抓癢も啻ならず候」 と不安な思いを吐露していた。情報手段の発達した今日でも写真やガイドブックを見ただけで正確にその場所についてのイメージを作ることは難しいだろう。まして情報が不十分な当時にあって未知の寺と周辺の様子を的確につかむことは容易な事ではなかったと考えられる。
 

 
 私が10月に琴電を八栗駅でおりて寺に向かって歩いたときに目にした風景は、出発前に想像したものとはだいぶ異なっていた。五剣山と寺の様子、屋島と海、さらに石切り場とが作り出す牟礼の里の風景は現地を歩いて初めて分かるもので、地図をどんなに眺めても決して浮かんでくるものではないことが実感された。八一の心配もさこそと腑に落ちる思いがした。
 

 
 八栗駅はJR高松駅前から琴電に乗り二つ目の瓦町駅で志度線に乗り換えて15分ばかりのところにある。道しるべに従って八栗寺への道に入るとあとは一本道でゆるやかに登って行く。正面には五剣山の大きな岩を五つ縦に並べたような岩峰が聳え、その左の方には白い岩肌をさらした石切り場が望まれる。道の左右に石材店や石の工場が目立ち、さらには石彫作家のアトリエがあったりするのは、昔からここに産する庵治(あじ)石が上質な花崗岩として知られていたからだろう。ここ牟礼町は石の里であり、石の民俗資料館があり、世界的な彫刻家イサム・ノグチのアトリエ・住居と作品を公開する庭園美術館がある(ノグチの作品には石のものが多い)。

 道の端には古い石の仏さんがあちこちに数体ずつ祀られているが、遍路宿高柳の近くの地蔵さんには享保14年の年号とともに 「左へんろ道」 といった文字が彫られていた。少し先には八栗寺を目指す男女二人のお遍路の姿があった。「ああ四国の里道を歩いているのだな」 といった感が深くなる。道はだんだんと傾斜がきつくなっていったがふと見るとトレーニングウ ェア姿のスリムな若い女性が自転車をこいで登って行く。私が歩くのより少し早いく らいだが決して自転車から降りないでとうとう八栗寺の参道の入口まで来た。女性は自転車を置くと迷わず参道の山道を登っていったが、私は意気地なくケーブルカーの乗場に急いだ。 
 

 
 大きな岩の塊のすぐ下に位置する八栗寺は四国85番目の霊場である。聖観世音菩薩を祀る本堂、聖天堂・大師堂などが狭い場所に建ち、二天門(山門)の前からは目の前に屋島を、その向こうには島がいくつも点在するような讃岐平野の眺めが広がる。お参りを済ませて山を下ろうとする自転車の女性に会った。からだを鍛えるために毎日登ってくるそうだが、本堂や他のお堂、梵鐘にまで経本を見ながら般若心経を唱えて丁寧にお参りしていたのを見るとなにか願い事でもあるのだろうか。参道の脇には百度石が忘れられたように立っていた。
 
 本堂と納経所の前にはお遍路さんたちが居たが、本堂の右手にある鐘楼の辺りには人影もなく静かだった。目指す梵鐘は思ったより小さかったがその姿はやや細長くて美しかった。二つの撞座を挟むように會津八一が心血を注いだ鐘銘と歌が浮かんで見える。私は右から左へと梵鐘の周りをゆっくり巡りながら何度も銘文と歌を味わった。
 

 
 鐘銘を草するにあたり會津八一がまず考えたのは、誰もが読んで理解できるようにかな交じりの平易な文章とすることであった。また読みやすくするために 「一句が二行にわたらざるやうに気をつけた」。年号・仏名・人名・地名・寺名などのあらゆる字句がうまく 1行 7文字の中におさまるように工夫した。しかし 6・7行目の 「之を」 と 8・9行目の 「一首」 がどうしてもうまくいかなかったことを悔やんだ。署名も最初は神仏に対する敬意から 「會津八一」 としたがやはりよく知られている 「秋艸道人」 にしたと書いている。当時八一は料治熊太に宛て、「鐘銘に万葉調の平仮名は日本最初 だと思って、いささか愉快に思って居ります」 と書き送っている。
 

 
 「わたつみの そこゆくうをの ひれにさへ ひびけこのかね のりのみために」 の歌については、「歌一首は四日間かかりて詠み据えたるものにて、 自ら悪作にあらずと自信あるものにて」 と書いたが、「寺の実境と符号せざることを恐れたるは、寺の実境と海との距離を知らざるがためにて候。鐘声の魚耳に入ることも あらんかと念じて詠みたるも、果して然るや否や」 と不安の思いも漏らしている。しかし、後に松坂帰庵に宛て、「歌もいろいろ御示しの資料によりて作歌致し候ところ稍々実境に遠からざるものを捕へ得たるよし、此点も感謝にたへず候」 と書き送っている。八栗寺の梵鐘の前に立ってこの歌を口にしたとき、私もまさにこの寺の鐘にふさわしい名歌と深く感じた。
 

 
 鐘銘の原稿が出来て揮毫の段になっても會津八一は細かく神経を使った。陽刻の鋳造では紙に書くような繊細な表現は望めない。文字は楷書、かなは続けては書けない。さらにかなばかりの歌と銘文とのバランスがある。八一は歌の部分を一行ごとにいく つも書き、気に入ったものを選んで一首の歌としたのである。「この歌の部分だけ尚ほ十数通書き試み、その中から、一そろひだけ同封して、御送り申候。撮影したるものよりも稍筆太に、稍自由に書きしものにて候。筆太にあらざれば、序の文に負けはせぬかと存じたるにて候」 と書き、また、「かけものの場合と異り、永遠に陽光のうちに曝さるるものなれば、文字の出来映が、専門家にも、門外者にも、通人にも、俗衆にも、よく見えねば、外光の中に懸垂さるる鐘の文様としては、全然失敗と存じ」 とも書いている。

 會津八一と縁の深かった市島成一は、「これまでの秋艸道人の歌碑などの原稿を見ると、相当の長文のものでも一枚の紙に一気に書き上げているが、この鐘銘の歌に限って唐紙を縦一尺二寸程、横三寸程の短冊形の小片に切断し、各片に三十一文字を五、七、五、七、七字宛に分けて揮毫し、その中の出来のよいのを選んで組合せ、帰庵に送っているのである」。それは、「初めての梵鐘への挑戦であり、殊に鐘という特殊の 曲線上に文字を刻する必要からの配慮とも考えられるが」、あるいは 「一気に書き上げる気力がなかったためではなかったか」 とも書いている(「八栗寺の鐘」 『秋艸道人を語る』 所収)
 

 
 さらに、鋳型のための文字の彫刻についても心配が絶えなかったが、幸い松坂帰庵が篆刻家でもあったので住職自らが腕を振った結果、その出来栄えについて、「この度は拙筆鐘銘につきて、久しく精刻の労を惜ませられず、めでたく御奏刀被下、墨本を 拝見するに満足の至りにてありがたく奉存候」 と八一は大いに満足したのだった。 かくて銘文の下の波文と撞座まわりの雲文は奈良時代の作例を参考に専門家が考案し、音響についても専門家が担当していよいよ京都での鋳造にかかったが、完成までにはなお 2年近い歳月を要したのである。

 依頼された鐘銘と歌を作り上げた會津八一は当然のことながら梵鐘の完成を待って八栗寺を訪ねることを楽しみにした。松坂帰庵に宛て最初は 「拙者も他日現地にて、この鐘を一覧致したきも、すでに老境の身としては、実現は殆ど困難と存ぜられ候」 (11月13日)とやや弱気だったが、少し後には 「陽和の時候を待ちて、当方より貴刹ならびに先方を巡礼して御目にかかりて、御挨拶申上げ、その機会に金文の技術の特殊の呼吸など、観察致したく存じ候。拙者すでに七十四歳に達し、躰力も甚だ衰退致し来りしも、尚ほそれ位のことは可能なるべしと自信致し候」(11月24日)と元気を取り戻した。しかし12月になると 「拙者最初は御地及び讃岐地方を巡拝せんと思ひしも、老躯なる上に、最近著しく頭脳の能力に余裕を欠くに至りし如く自覚致し候間、作歌のことも、旅行のことも、すべて中止して静養可致と決心致し候」(12月4日)と再び自信をなくしている。

 この頃の八一の健康状態は不安定でしかも確実により悪い方に向かっていたのだろう。12月31日には遂に 「何等為すところなく、病臥致し居 り候へば、八栗寺にまゐりて実物拝見のことは、永遠にあきらめ候よりほかなしと存 じ候」 という悲しいこととなった。會津八一の無念の思いは如何ばかりであったろう。 この間に八栗寺住職中井龍瑞からさらに屋島寺に鑑真の碑を建てるにために歌をもとめられたが、考えた末に 「屋島寺建碑に関する一切のことは、断然拝辞のほかなきことを決心」 している(18日)

 年が明けて1956(昭和31)年元旦の 『新潟日報』 紙上に會津八一の 「八栗寺の鐘」 という一文が掲載され、八栗寺の鐘銘の経緯と八一の思いが簡明に述べられていた (『全集』 第七、『続渾斎随筆』 中公文庫)。しかし八一の健康状態はこの年に悪化の一途 を辿り、ついに11月21日に新潟市で亡くなった。時に76歳だった。「わたつみの」 の歌はまさに歌人會津八一の生涯最後の歌となった。また鐘銘は書家會津八一の生涯最初の、そしてついに完成した梵鐘を見ることのなかった最後の揮毫となった。梵鐘の撞初め式が行なわれたのは翌年の10月である。
 

 
 私は寺僧にこの鐘銘のことなどを尋ねたが、もはやだいぶ昔のことでもありすでに知られていることを越えるような話は聞かれなかった。庫裏の廊下には鐘銘の拓本が扁額になって掲げてあったが、寺僧の 「會津八一に関心のある人は遠くから尋ねてきますが、この土地の人はあまり関心が無いのですよ」 との一言が気になった。 これまでみてきたようにこの鐘銘には會津八一をはじめ八栗寺住職中井龍瑞、法界院住職松坂帰庵など多くの関係者の思いがこもっている。小さなものでいいから説明板が欲しいなと思った。

 鐘楼の梵鐘の真下には小さな壷が埋め込まれており、柱に打ち付けた小さな板には 「鐘は荒々しくではなく、静かに撞いて下さい」 と書いてあった。私は心を込めて静かに鐘を撞いた。鐘の音は静かに周辺に広がり、だんだんと消えていく余韻はまさに 「そこゆくうをのひれ」 にまで響いていくかのように私の心に沁み込んできて深く感動した。

 松坂帰庵は、「鐘の響きは諸行無常の声があります。清く響き余韻永く消えてゆく鐘の音は、名聞利欲にあくせくして心忙しく休養の暇もない人にいい知れぬ静けさを与えるものです」 と言っている(長坂吉和 「松坂帰庵と會津八一」 『続會津八一 人と書』 所収)。毎朝 6時に静かに響く八栗寺の鐘の音は、今年没後60年になる幽界の會津八一の耳にもきっと届いていることだろう。
     
(文中の會津八一書簡については煩瑣を避けて大半は日付を省略した。詳細は 『全集』 第十を参照。なお現在の梵鐘は1975年に再鋳したものである。鐘に傷が出来たためだが、その詳細は長坂吉和 「八栗寺の鐘」 『會津八一をめぐる人々』 所収 を参照)
 
追 記
 八栗寺を尋ねた折に鐘銘の拓本を手に入れた。原本はずいぶん大きいのでそれを少し小さくした複製であるが大変良く出来ている。それでも結構大きいので額に入れるわけにもいかず巻物にした。時折広げては會津八一唯一の鐘銘を味わっている。