前回の記事
・「コロナ脳」=「組織脳」の意味
2020年10月13日号『週刊SPA!』記事より
冒頭の重装備お姉さん・・・トイレでいきむ時もアレ付けたまんまなんですかね(酸欠になりそう)
子どもの頃から『管理教育』を受け、集団に順応し、金持ちの手と足となり働くことが「善きこと」とされてきた社会において、ひたすら「上位下達の繰り返し」を安定的に生み出してきた。
無論、その全てを否定するわけではないが、今回のコロナ騒動をキッカケに「それが偏りすぎている」という印象を強く受けた私たち(共同管理者の友人含む)は、今までの認識を更新する意味も含めて、新たな意見を模索中の段階である。
正直、今回の問題は単純にウイルスを恐れすぎる『コロナ脳』の問題よりも、実際はそんなに恐れていないが、まわりが対策をしているから、マスクひとつをとっても、「空気」に合わせて同調姿勢を取っている人々が大多数だと思うのが率直な感想です。
そこに仕事(お金)が絡むと、殊に厄介さが倍増する。
日々の生活のため、所属集団での立ち振る舞いで「周囲と軋轢を生む」と、職場環境が悪化し、ひどい場合は仕事を失い、たちまち経済苦に陥るわけで、そんな状況で「不条理とたたかうことを強制する」のは酷なことだと、私自身も深く認識しています。
ここで一つ提案を致します。
『やりたい人はやればいい』 『やりたくない人はやらなくていい』
本来の自由主義社会において、こうした考えは「当然と受け入られるべき」ものだが、実際はハリボテに過ぎず、上位階層のお達し(巷で言う有識者会議等)によって、大体のことが決まる。
各人が「思ったことを実践できる社会」こそが、本来の生をより豊かにするもので、ひるがえって精神的自由が束縛されれば、次第に「体に転移すること」は、すでに実証済みで(病は気から)、ピリピリギスギスした社会で、当事者同士がいがみ合い、最悪の場合「どちらかが命を落とす」闘争にまで発展しかねません。
そこまでして『安全』に固執したいのか?
私はそうは思いません。
‐組織に靡くマスクロボットに告ぐ!(マスクしない人の主張)‐
実際外に出てれば、「コロナ対策の矛盾」は至る所で見れる。
飲み屋街の密な酒席や日常の慢心に埋もれたマスク運用も、本当は誰でも「論破できる」明快な事実がゴロゴロころがっているわけで、それが出来ないのは「組織(職場/地域コミュニティ/家)」から爪はじきにされてしまうことを恐れる心のみでしょう。
そういう『短期的保身』が、やがては自らの身を亡ぼすことに気が付かなければ、この先増えゆく自殺者や経済死も「目に入らない」し、果ては近い将来、近隣諸国と戦争危機になったとき、私たちは同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
大体、国家のGDPが28%も消失した事実を見て、大多数に「影響がない」なんて結論は出るはずもなく、必ずや民衆を経済的危機に追い込み、少し脅しも加えると、高齢社会が進む終末医療にだって影響が出てくるだろうし、それこそ昔の「姥捨て山」のごとく、お金が無くなって愛する両親をあやめて、自死したり牢屋に入る人々が続出するという、それこそコロナごときの騒ぎではない“本当の地獄”が演出される。
私自身は、そうした追及の手を緩めることなく、『防疫』をタテに個人の尊厳を否定する組織至上主義者のウィークポイントをグサグサ突き刺して塩を振りまいてあげますが、そこで前回の記事にご紹介したドイツの「反コロナ規制デモ」を振り返って、そういう『異なる考えの人々』が下した選択を排除することなく、自分が全知全能の神様ではない限り、それが「正しい」とか「悪い」かの判定は抜きにして、彼ら彼女らの決断を尊重しなければなりません。
『亜無亜危異(アナーキー) / 心の銃』
https://www.youtube.com/watch?v=LDDUIZh5MUc
『アナーキー / 亜無亜危異 2』(80維新/2分32秒)
https://www.youtube.com/watch?v=3jRSYvkVp74
大事なのは自分自身。
しがらみに満ちた「偉い人」の発言よりも、一人ひとりが本当のことを言える社会がずっとマシだと思います。
<参考資料>
・2020年10月13日号『週刊SPA!』記事
<ツイッター>
【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】
https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
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