またまたお久しぶりです。


前回の更新から1年近く空いてしまいました。


過去の更新ネタは近況の報告でしたが、今回は最近の読書ネタでも。


年明け辺りから自分の研究と並行して夏目漱石の『坊っちゃん』と『虞美人草』


を読んでいました。

今回は『虞美人草』について


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これまで漱石は『草枕』を読んでいましたが

那美とは異なる女性の描かれ方には少々驚きました。


那美を見て思うのは日本人的な美しさ。

藤尾はまさに魔性の女ですね。


『虞美人草』の評価に関しては結構分かれるところですね。

アマゾンなどで口コミなどを読んではいたのですが

やはり表現が難しい。

『坊っちゃん』はあれほどスラスラ読めたのに

詩的な表現、難解な漢語?みたいなのがたくさんあって

理解に苦しみました。

しかし、それでも読み終わって感じたのは

「面白い』

でした。

そう感じさせるのは何なのでしょうか。


冒頭の比叡山を登っているときの甲野欽吾と宗近一との

やりとりなどは少し退屈でした。


しかし、甲野の妹(義理?)藤尾が現れ

小野や宗近の妹、糸子、井上やその娘、小夜子などを

取り巻く関係が明らかになると一気にスピードアップ。


結末の藤尾の死はやはり唐突すぎる感じがしますが

私はこれでも良かったのかなと考えます。

George EliotのAdam BedeのHettyや

The Mill on the FlossのMaggieの死など

19世紀の英文学作品にはこういった女性の死の

描き方が多く散見されます。

こういう物語の終わらせ方も漱石の女性の描き方の

一つなのでしょう。


ただその分、読者にストレスを与えることにも

なるのでしょうが。

因果応報的に堕ちていく藤尾を描くことも出来たでしょうが

そういうのは漱石の描き方ではないような気もするのです。


久しぶりに読んだ漱石。

面白かったです。








更新なくもう2014年

このブログを更新して見る人などいるのかな?

でもいることを信じて書きます。

かれこれ研究を続けています。

去年、仕事関係で失敗をし、自分を戒めました。

自己嫌悪にも陥りましたが、もうやるしかないので

雑念を振り払い研究しています。

今は大学が休みで、研究者にとっては落ち着いて研究に

専念できる貴重な時間。


去年から長年離れていたブロンテ研究を再開しました。

エリオットを捨てたわけではなく、並行です。

当然、論文も書いてますが、現在のブロンテ研究を

エリオット研究にも活かします。


今年の初めにブロンテで一本論文を書いたのですが

もう一本、ブロンテで書きます。

そして来年からはエリオットを研究しつつ、

出来ればディケンズかギャスケルも精読し

論文をかけたらいいかなと考えてます。


ここ2年間の研究で痛感したことは

「隙間」を探した研究方法の限界です。

研究をしていると、やはりオリジナリティ(独創性)

が必要になるわけですが、これが難しい。

今までに論じられていない

自分だけの論を構築することの必要性。

私はこれを意識するあまり、作家の本質を

無視した論文を書いていたような気がします。


つまり、どこかの批評家が論じていた

マイナーな見解を強引に結びつけて、それを

自分の論としてしまうこと。

私の場合、エリオット作品の

「空間描写」が一つのキーワードに

なるのですが、問題はこれをいかにして

エリオット作品の本質と結びつけるかですね。


ブロンテ研究をしていながら、こういうことに

気付かされました。


このブログのテーマとなっている博論執筆まで

あとどれくらいかかるか分かりません。

少なくともエリオット作品の精読も終えていない

現状を考えると、気が遠くなる道のりですが

前進はあっても、後退はしていないので

この落ち着いて研究できる期間に研究に

没頭したいと思います。

またブログ更新しますので、よろしければ

見に来てください。





大変、ご無沙汰しています。

とんでもない更新間隔。

このブログを見てる方がどれくらいいるのか分かりませんが、

私自身は研究を進めています。

この一年はブロンテ研究の方にシフトしています。

かつてもう10年になりますが、イギリス留学時代に研究していた

シャーロット・ブロンテです。

7月に研究発表を終えて、論文執筆の準備中です。

主専攻はエリオットですが、エリオットだけをやっていればいいとは

思っていません。

ディケンズ、ギャスケルなどもっともっと読んでみたい作家がたくさんいます。


エリオットだけでなく、同時代を生きた作家を読み、横の視点から

エリオットを読み解くというのも重要だと考えています。

実際、エリオットを深く読んで、ほかの作家に多少なりとも触れることで

エリオットの同時代の作家には見られない思想的深みを感じ取ることが

できました。


シャーロットはエリオットほどの思想家ではありませんが、

それでも読んでみると中々面白いものです。


私の場合、経験上、作品を読んでもある一定期間すぎると内容を忘れてしまいます。

ディケンズ、ギャスケルも多少読んだのですが

もう忘れてしまってるところがかなり、、、、、


一回、深く読んで論文にまとめると、ストーリーや作家の思想など

しっかりと理解できるような気がします。

なので、エリオットの『ダニエル・デロンダ』まで読んだら

一度、ディケンズ、ギャスケルについての論文も書いてみたいかなと

思います。

果たして、それまでどれだけの時間がかかるのか、

長い道のりです。

Here is a chance I was waiting for.


Long time no see.


I am still working on George Eliot for my dissertation,


but things have changed dramatically


since last time I updated this blog.


Actually, I was looking for an opportunity to be


a full time worker in my university.


At the end of April, then, my advisor recommended me to have


a job interview.


I gladly accepted it and I am now preparing for the interview.


The problem is that I will be interviewed in English.


Since I came back from UK 8 years ago,


I have been working very hard on keeping my English speaking ability.


I sometimes join English speaking community to brush up my English.


And now, I decided to go to prep-school.




Recently, it is getting harder and harder to


be a full time worker in university.


The university generally requires at least


three academic essays and general English skill, especially, speaking skill.


We researchers tend to focus on just reading English novels


and writing academic essays and


tend to foget brushing up our English speaking skill.


As a professional English teacher, we must not ignore


the importance of speaking English


because English is all we are working on as a life-long job.


I find it very difficult to speak English


though it is not so difficult to speak English in daily situaton.


I want to be both a professional Englsih teacher


and a professional researcher.


I am still working hard to reach that goal.


The interview I will have this month or next month is


the first chance to go closer to it.


I will never miss the chance.



大学在学時にはこんなこと考えたこともなかった。


大学院なんてものがあることすら無知な自分は知らなかった。


でもイギリスで感じたのは広く浅くではダメなんだってこと。



広く浅くでは趣味で英文学作品を読んでるのと同じになってしまう。


大学教員として学生たちに教える仕事をしている以上


文学の魅力を人に教えることができるようにならなければならない



この点で私はまだまだだなと痛感するのだが、、、、、、


広く浅く読んでいけば、色んな作家の表面的な魅力はわかるかもしれない。


しかし、作家の作品を一つや二つ読んだくらいで、その作家の全てを


知ることはできないし、研究書をいくつか読んだとしても


そんなんで知ることができる情報量なんてたかが知れてる。


概説書的な


「~という作家は~に生まれ、~の時代精神を見事に体現してみせた


偉大な作家である」etc.


などという、ちょっとした参考書を見ればどこにでも書いてありそうな


ことなど教えても文学の魅力は伝わらない。



ある一人の作家の作品を精読する。


精読といっても内容を把握する程度の精読ではダメだ。


英文の一語一句に注目し、徹底的に分析する。


あるひとつの単語に注目する。


すると、その言葉が物語の後のほうで意外な意味を持つようになる。


なんてことは内容把握程度の読みでは決して気づかない。


エリオットのMiddlemarchを読んでると、ホントに英文の深遠さを


感じさせられる。



多くの作家の作品に触れることで横の視点から専門とする作家を


分析してみるアプローチも決して否定はしないが


沢山の作家の作品を読んで、その内容を言えたとしても


結局、それは表面的な魅力を理解したに過ぎない。



大切なのは作家の英文に真摯に向き合う姿勢だと思う。


ただ早く読めばいいわけではない。


和訳本だけを読むなんて論外である。


そんなのを読んでもただ内容を把握する一助にしかならない。



英文に真摯に向き合い、作家の伝記、手紙、批評書などから


その作家の魅力を徹底的に分析する。


そして再び作品を読んでみる。


何回も何回も読み返してみる。


するとその度に新たな発見がある。


そしてそれが自分の文学的発見となる。



結局のところ、表面的な読みだけで作家を分析し、


概説書から拝借した文言をそのまま伝えても


それは中身の伴わない空論に過ぎない。



いつか自分も作家の魅力を自分なりの言葉で言い表せる


ようになりたい。


そうなるにはまだまだ読みが足らない。


もっともっと細かく読めるようにならなければ。