自分 が古いのかもしれないが
技術的特異点の話の続きを書く予定であったが、アホな話が出たので予定を変更する。利権、間違えた、理研の改革案(引用先)の話であるが。
引用先によれば、改革案の概要は以下の3つにより構成される。
1:運営や改革監視用にメンバーの半分を外部とする委員会を発足させる。
2:センターの名前を変える。
3:センターの雇用を半減、但し、配置換えで全体の雇用は維持する。
正直に言って何が改革で引責なのかよく分かりません。
2は看板を付け替える話で、理研の体面は傷つくかもしれないが、それと上層部は別の話だ。役職者個人と組織の話をごっちゃにしてはいけない。
3は雇用維持の内容にもよるが、どちらにせよ下っ端とその家族に責任を負わせた形だ。
せいぜい、改革案の名に値するのは1のみで、それも具体像が分からないとお飾りを作っただけかもしれない。
そしてはっきりしたことは、理研の上層部は何も責任をとらないと言っている。不思議な話だ。普通に考えれば監督責任とその権限を有する者に責任をとらせるものだが、何の責任も権限もない同センター勤務の者が責任をとらされている。
これと似たような話を数年前に聞いたことがある。当時電機産業がぼろぼろでその会社もご多分に漏れず希望退職(と言う名の肩たたき)をやっていた。それで労働組合が質問状を出しそれに経営側が回答するというものを機関誌に載せたらしいのだが、聞いて思わず耳を疑ってしまった。
全て記憶なので正確ではないのだが以下のようなものであったと記憶している。質問は「経営が苦しいのは理解できるし要望に添いたいのは山々だが経営陣が一人も退陣していないのはいかがなものか」というまあ至極当然の質問だ。経営陣の回答は
「現経営陣は非常に優秀で他に人が得がたく、また現苦境は外部環境が主な要因であるので責任を負わせることはできないと考える」
だ、そうである。同業が似たようなものであるので苦境が外部要因であることは否定しないが、そのような外部環境を予測またはそれに対処するのが経営者の仕事で、それができなかったからその決算があるのではないのか、とか経営陣に責任がないなら、なおさら従業員にその外部環境の責任はないわけでそれで肩たたきをするのはダブルスタンダードもいいところだろう、とか下を育てられないほど無能なら全員首にして外部から経営陣を呼ぶ方がいい、とか突っ込み処がいろいろ頭をよぎったが他人の勤める会社のことなので「アホかいな」で済ませておいた(まあそれを平気で組合の機関誌に書ける感性もどうかと思うが)。
このような理屈はリーマンショック時の米金融機関の上層部も言っていたから近年では世の中の流行なのだろう。そのときは(多額の報酬批判に対して)「ショックは予測できなく、また市場全体がクラッシュしたのだから損失が出たのは仕方がない。」まあその主張が通るなら、ショックを予測するのは職務の範囲外で、市場全体が成長したのだから過去において利益が出たのは本人と無関係なのでそもそも多額の報酬をもらう根拠は無いのですが。過去の報酬返してから主張してください。
要するに、日本古来の責任のあり方と彼らの責任のあり方とは非常に異なるのだろう。もしそうなら、我が国の組織は欧米よりももっと情報公開を徹底させ、それらは株主対象ではなく一般国民に責任のあり方を監視させなくてはならなくなる。個人的には物言う株主をなんだか煩わしいと思っていたが、日本の経営者が「責任は他人に負わせるもの」という考えで動くなら、日本人の考え方は経営者の動きが多少不自由でも仕方がないと思うように変化していくだろう。
これはかなり良くないことだ。STAP細胞騒動自体では、私は近年の日本の科学教育のお粗末さに幾分あきれ、そしてかなり嘆いたものであるが、今回の後始末の仕方は日本での責任のあり方に暗澹たる思いをさせられた。
まとめ
1)理研の改革案は実質的に何も言っていない。
2)理研上層部は近年の流行に則って、責任は他人に負わせるものと思っているようだ。
3)責任の取り方が変わってきたので、性善説による日本の和は偉い人から崩れているようだ。
引用先によれば、改革案の概要は以下の3つにより構成される。
1:運営や改革監視用にメンバーの半分を外部とする委員会を発足させる。
2:センターの名前を変える。
3:センターの雇用を半減、但し、配置換えで全体の雇用は維持する。
正直に言って何が改革で引責なのかよく分かりません。
2は看板を付け替える話で、理研の体面は傷つくかもしれないが、それと上層部は別の話だ。役職者個人と組織の話をごっちゃにしてはいけない。
3は雇用維持の内容にもよるが、どちらにせよ下っ端とその家族に責任を負わせた形だ。
せいぜい、改革案の名に値するのは1のみで、それも具体像が分からないとお飾りを作っただけかもしれない。
そしてはっきりしたことは、理研の上層部は何も責任をとらないと言っている。不思議な話だ。普通に考えれば監督責任とその権限を有する者に責任をとらせるものだが、何の責任も権限もない同センター勤務の者が責任をとらされている。
これと似たような話を数年前に聞いたことがある。当時電機産業がぼろぼろでその会社もご多分に漏れず希望退職(と言う名の肩たたき)をやっていた。それで労働組合が質問状を出しそれに経営側が回答するというものを機関誌に載せたらしいのだが、聞いて思わず耳を疑ってしまった。
全て記憶なので正確ではないのだが以下のようなものであったと記憶している。質問は「経営が苦しいのは理解できるし要望に添いたいのは山々だが経営陣が一人も退陣していないのはいかがなものか」というまあ至極当然の質問だ。経営陣の回答は
「現経営陣は非常に優秀で他に人が得がたく、また現苦境は外部環境が主な要因であるので責任を負わせることはできないと考える」
だ、そうである。同業が似たようなものであるので苦境が外部要因であることは否定しないが、そのような外部環境を予測またはそれに対処するのが経営者の仕事で、それができなかったからその決算があるのではないのか、とか経営陣に責任がないなら、なおさら従業員にその外部環境の責任はないわけでそれで肩たたきをするのはダブルスタンダードもいいところだろう、とか下を育てられないほど無能なら全員首にして外部から経営陣を呼ぶ方がいい、とか突っ込み処がいろいろ頭をよぎったが他人の勤める会社のことなので「アホかいな」で済ませておいた(まあそれを平気で組合の機関誌に書ける感性もどうかと思うが)。
このような理屈はリーマンショック時の米金融機関の上層部も言っていたから近年では世の中の流行なのだろう。そのときは(多額の報酬批判に対して)「ショックは予測できなく、また市場全体がクラッシュしたのだから損失が出たのは仕方がない。」まあその主張が通るなら、ショックを予測するのは職務の範囲外で、市場全体が成長したのだから過去において利益が出たのは本人と無関係なのでそもそも多額の報酬をもらう根拠は無いのですが。過去の報酬返してから主張してください。
要するに、日本古来の責任のあり方と彼らの責任のあり方とは非常に異なるのだろう。もしそうなら、我が国の組織は欧米よりももっと情報公開を徹底させ、それらは株主対象ではなく一般国民に責任のあり方を監視させなくてはならなくなる。個人的には物言う株主をなんだか煩わしいと思っていたが、日本の経営者が「責任は他人に負わせるもの」という考えで動くなら、日本人の考え方は経営者の動きが多少不自由でも仕方がないと思うように変化していくだろう。
これはかなり良くないことだ。STAP細胞騒動自体では、私は近年の日本の科学教育のお粗末さに幾分あきれ、そしてかなり嘆いたものであるが、今回の後始末の仕方は日本での責任のあり方に暗澹たる思いをさせられた。
まとめ
1)理研の改革案は実質的に何も言っていない。
2)理研上層部は近年の流行に則って、責任は他人に負わせるものと思っているようだ。
3)責任の取り方が変わってきたので、性善説による日本の和は偉い人から崩れているようだ。
技術的特異点、または知の終焉 初めに
技術的特異点はビックデータにおいて、人類には理解できない変数による、現実の忠実な再現、予想によって主に○○関連で実現されるだろう。
これは別にどこかからの引用ではない。単に私の予想だ。○の中身はこのテーマの文章の最後にこの文章の続きともに書こうと思う。そして、なぜそうなるかを示すのがこの文(およびその続き)の目的なのだが、いきなりわけの分からない単語が出てきても読む人が困ると思うのでまずは背景説明から。
最近まで私は「技術的特異点」に懐疑的であった。少なくとも予想されている、ここ数十年または十数年の特異点による知の爆発については懐疑的と言うより否定的であったといった方が正しい。
「特異点」とは単純に言うと、そこで何かが「定義できない点」の事である。折れ線グラフをイメージするとグラフの折れているところは微分が定義できない(反対側で互いに極限値が異なるから)。こんな感じの点だ。他に有名なのは重力の特異点で多くの人が聞いたことのあるであろうブラックホールがらみの単語だ。星が自分の重さで潰れ始め何者も支えきれなくなると究極的には(もしくは計算上)重さが一点(半径0)に集中し、サイズ0の非常に重い質点ができあがる(そこでの重力は無限大になる)。これが重力の特異点である。
ここで述べる技術的な特異点は通常は”コンピュータの発達による(人間の)認識できない知の存在に発する、知の連鎖的、爆発的発達”を意味している。そこで要求される知的水準が無限に急速に発散するから特異点なのだろう。そして私はそのような形で通常イメージされるのとは異なる特異点の存在の可能性とそのような特異点が実はもっと間近に来ていて予測される特異点とはそれを指すのではないかという話を述べたいと思う。
ビックデータ(という大量の情報を処理して新たな知見を見つけましょうという商売文句)の都市伝説的な話で以下のような話がある。”あるアメリカの都市で10代の女の子向けにスーパーからベビー用品のおすすめのDMが届いた。父親は「うちの娘はまだ10代で妊娠などしていない」とクレームをつけスーパーが陳謝し、一件落着と思ったが実はその子は妊娠していた”という概略だったと思う。
スーパーが大量のPOSデータを解析していて、その子の買い物傾向が妊娠初期(?)に相当すると解析された結果、DMが発送されていたというのが真相であると言う解説付きだ。
さてこのプロセスをもう少し掘り下げてみよう。たとえば買い物傾向とDMの関係が
[妊娠検査薬]→[以前と異なるレモンの大量買い]→[ベビー用品の勧め]
なら自然な予測だろう。これならビックデータと技術的特異点の間に何の関係も見いだせない。ただ単に大量のデータを処理してごく自然な傾向を見つけただけのことだ。現実的な時間で処理できるかどうかは別にして人間でも同じ事は可能だろう。ここで妊娠検査薬は別のスーパーで買い(つまりこのスーパーのPOSデータには存在しない)、レモンの話を大きくとらえて何らかの嗜好の変化と解釈する。つまり、対象は食品に限らないしある特定の商品にも限らない。現在のスーパーの扱う雑多の商品群(100万点規模か?)から商品群Aと商品群Bを定義してみたときに、
[商品群AからBへの嗜好の変化]→[ベビー用品の勧め]
で妥当性が成立するなら販促としてのDM送付はある程度正しいことになる。
さて問題はこのAからBへの変化の内容が人間にとって理解可能であるかどうかでビックデータと技術的特異点の間に関連性が生まれる可能性が見えてくる。
つまりAからBの変化は「レモンの大量買い」に相当するのかそれとも「赤のTシャツからピンクのTシャツと水色の靴下のセット」に相当するのか、と言う話だ。ちなみにというか当然、後者は説明用のただの例で私にも分かりません(事実だとしたら)。
これら商品群による相関の発見は現在でも単に時間の問題で、適切な枠組みさえ用意できれば現実的な時間で回答が手に入る。ということは、コンピューティングパワーにムーアの法則が今後も成立し続けるとすると、10年後には100倍の速度が手に入るので、コンピュータによる枠組み設定が人間の100倍非効率でも特に問題は無くなることになる。
このとき、コンピュータの発見した最も現実を忠実に再現する枠組みが、「レモンの大量買い」でなければならない合理的な説明は存在しない。もしもその枠組みが「レモンの大量買い」に相当しない場合、この知は人間の知なのだろうか、それともコンピュータが独自に発見した知なのだろうか。
この項続く
これは別にどこかからの引用ではない。単に私の予想だ。○の中身はこのテーマの文章の最後にこの文章の続きともに書こうと思う。そして、なぜそうなるかを示すのがこの文(およびその続き)の目的なのだが、いきなりわけの分からない単語が出てきても読む人が困ると思うのでまずは背景説明から。
最近まで私は「技術的特異点」に懐疑的であった。少なくとも予想されている、ここ数十年または十数年の特異点による知の爆発については懐疑的と言うより否定的であったといった方が正しい。
「特異点」とは単純に言うと、そこで何かが「定義できない点」の事である。折れ線グラフをイメージするとグラフの折れているところは微分が定義できない(反対側で互いに極限値が異なるから)。こんな感じの点だ。他に有名なのは重力の特異点で多くの人が聞いたことのあるであろうブラックホールがらみの単語だ。星が自分の重さで潰れ始め何者も支えきれなくなると究極的には(もしくは計算上)重さが一点(半径0)に集中し、サイズ0の非常に重い質点ができあがる(そこでの重力は無限大になる)。これが重力の特異点である。
ここで述べる技術的な特異点は通常は”コンピュータの発達による(人間の)認識できない知の存在に発する、知の連鎖的、爆発的発達”を意味している。そこで要求される知的水準が無限に急速に発散するから特異点なのだろう。そして私はそのような形で通常イメージされるのとは異なる特異点の存在の可能性とそのような特異点が実はもっと間近に来ていて予測される特異点とはそれを指すのではないかという話を述べたいと思う。
ビックデータ(という大量の情報を処理して新たな知見を見つけましょうという商売文句)の都市伝説的な話で以下のような話がある。”あるアメリカの都市で10代の女の子向けにスーパーからベビー用品のおすすめのDMが届いた。父親は「うちの娘はまだ10代で妊娠などしていない」とクレームをつけスーパーが陳謝し、一件落着と思ったが実はその子は妊娠していた”という概略だったと思う。
スーパーが大量のPOSデータを解析していて、その子の買い物傾向が妊娠初期(?)に相当すると解析された結果、DMが発送されていたというのが真相であると言う解説付きだ。
さてこのプロセスをもう少し掘り下げてみよう。たとえば買い物傾向とDMの関係が
[妊娠検査薬]→[以前と異なるレモンの大量買い]→[ベビー用品の勧め]
なら自然な予測だろう。これならビックデータと技術的特異点の間に何の関係も見いだせない。ただ単に大量のデータを処理してごく自然な傾向を見つけただけのことだ。現実的な時間で処理できるかどうかは別にして人間でも同じ事は可能だろう。ここで妊娠検査薬は別のスーパーで買い(つまりこのスーパーのPOSデータには存在しない)、レモンの話を大きくとらえて何らかの嗜好の変化と解釈する。つまり、対象は食品に限らないしある特定の商品にも限らない。現在のスーパーの扱う雑多の商品群(100万点規模か?)から商品群Aと商品群Bを定義してみたときに、
[商品群AからBへの嗜好の変化]→[ベビー用品の勧め]
で妥当性が成立するなら販促としてのDM送付はある程度正しいことになる。
さて問題はこのAからBへの変化の内容が人間にとって理解可能であるかどうかでビックデータと技術的特異点の間に関連性が生まれる可能性が見えてくる。
つまりAからBの変化は「レモンの大量買い」に相当するのかそれとも「赤のTシャツからピンクのTシャツと水色の靴下のセット」に相当するのか、と言う話だ。ちなみにというか当然、後者は説明用のただの例で私にも分かりません(事実だとしたら)。
これら商品群による相関の発見は現在でも単に時間の問題で、適切な枠組みさえ用意できれば現実的な時間で回答が手に入る。ということは、コンピューティングパワーにムーアの法則が今後も成立し続けるとすると、10年後には100倍の速度が手に入るので、コンピュータによる枠組み設定が人間の100倍非効率でも特に問題は無くなることになる。
このとき、コンピュータの発見した最も現実を忠実に再現する枠組みが、「レモンの大量買い」でなければならない合理的な説明は存在しない。もしもその枠組みが「レモンの大量買い」に相当しない場合、この知は人間の知なのだろうか、それともコンピュータが独自に発見した知なのだろうか。
この項続く
うそ、ねつ造、朝日新聞
私はこれまで繰り返し述べているように自由万歳主義者である。自由を愛するものは須く嘘がl嫌いだ、と思う。もし、自分の自由のために嘘を言い続け反省も謝罪もないなら、それは「自由」が好きなのではなくて「自分だけの自由」(つまり横暴とか無責任だ)が好きなだけだ。嘘は自由の障害であるし、はっきり言えば敵だからだ。戦後日本の「自由」とはそこに立脚していたはずである。
つまり、自由闊達な議論はファシズムの対極にあるし、戦後日本の希望であったはずだ。そこに嘘がまかり通るようであれば、真実も、真実を追い求める意思の自由も意味を失うだろう。だから私は戦前の大本営発表の嘘を憎むし、今回の朝日新聞の件も憎む。まあ、要するに戦前の軍部と今の朝日新聞の本質的な違いが私には分からないし、そして当人の自覚はどうあれ、両者の本質に相違はそれほど無いと思っている。両者とも自らの無謬性を頑なに主張し、そのためには嘘をつき他者を傷つけることもいとわないのだから。
そしてこれまではいざ知らず、これからの朝日新聞の読者は、もし戦前に生まれていれば、隣人を積極的に非国民と罵倒し、戦争を賛美する人たちなのだと考えることにする。時代が異なるので主張の方向性は異なるのだが、はっきりしていることは、彼らにとって、事実はどうでも良く、自分たちが思いたい方向へ事態を進めることが何より大切な人たちなのだろうから。その結果として国を過とうともどうでもいいのかもしれない。
戦前の軍部にはそのことに対する悔悟の念がある人も居たように聞くが、あいにく今のところ、朝日新聞からそのようなことは聞こえないようだ。
まとめ
1:嘘は自由の敵だ。
2:嘘に関して現在の朝日新聞と戦前の軍部は似ていると思う。
2014.9.8追記
朝日新聞から逆の声が聞こえてきたので続きを書いた。
つまり、自由闊達な議論はファシズムの対極にあるし、戦後日本の希望であったはずだ。そこに嘘がまかり通るようであれば、真実も、真実を追い求める意思の自由も意味を失うだろう。だから私は戦前の大本営発表の嘘を憎むし、今回の朝日新聞の件も憎む。まあ、要するに戦前の軍部と今の朝日新聞の本質的な違いが私には分からないし、そして当人の自覚はどうあれ、両者の本質に相違はそれほど無いと思っている。両者とも自らの無謬性を頑なに主張し、そのためには嘘をつき他者を傷つけることもいとわないのだから。
そしてこれまではいざ知らず、これからの朝日新聞の読者は、もし戦前に生まれていれば、隣人を積極的に非国民と罵倒し、戦争を賛美する人たちなのだと考えることにする。時代が異なるので主張の方向性は異なるのだが、はっきりしていることは、彼らにとって、事実はどうでも良く、自分たちが思いたい方向へ事態を進めることが何より大切な人たちなのだろうから。その結果として国を過とうともどうでもいいのかもしれない。
戦前の軍部にはそのことに対する悔悟の念がある人も居たように聞くが、あいにく今のところ、朝日新聞からそのようなことは聞こえないようだ。
まとめ
1:嘘は自由の敵だ。
2:嘘に関して現在の朝日新聞と戦前の軍部は似ていると思う。
2014.9.8追記
朝日新聞から逆の声が聞こえてきたので続きを書いた。