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Firefoxのメモリ戦略またはバグについて

Firefoxがフリーズしなくなった後に今度はクラッシュする様になった話については以前に書いた。そのとき何らかのリークが起きていると推測したが、どうやらメモリ関連がおかしいことに気がついた。どうもWindows7 x64とWindows7 x86との間で相違があるか、もしくは積んでいるメモリ量が異なると挙動を変えるかするらしい。

環境
PC-A
Windows7 x64 Ulitimate
Firefox v33.0
Memory 24G

PC-B
Windows7 x86 Pro
Firefox v33.0
Memory 2G

PC-BにおいてFirefoxの挙動はごく普通でプアなCPUとメモリ環境でそれなりにメモリを使いながらタブの開閉に応じて(ある程度の遅れがありながらも)メモリを適度に確保、解放を行っている(使用するメモリ量もタブに応じてほぼ一定)。

問題はPC-Aだ。なぜかこの環境の場合、確保したメモリを解放しない(もしくは実用に耐えないほどの解放遅れが生じる)。その結果、2G辺りまでメモリを確保しクラッシュが発生するようだ。Webの問題でない理由は、タブを開閉しながら1G辺りまでメモリを確保させ、しばらく放置してメモリを解放しないことを確認し、その辺りで一旦全て閉じて同じページを開くと、その際確保されるメモリ量はPC-Bの環境の場合とそれほど変わらない(おおよそ300Mが目安)のでそう考えられる。

Firefoxのx64版は正式に公開されていないはずだから両環境におけるFirefoxはx86版である。そうするとx86版のあるwindowsアプリケーションが使用できるメモリは2G程度だからクラッシュの説明はこれでつく。

つまりメモリが潤沢にあるx64環境下でFirefoxはメモリ解放機構がうまく働かずに自ら管理不能なまでもメモリを確保して自壊する。単純に考えれば自らが管理できるメモリ量を考慮に入れずにOSが許容しているからと言ってむやみにメモリ確保を行っている場合の挙動だ。

ちなみに、これは同時に多くのタブを開く所為では無い。開いたり閉じたりして結果として多くのタブを開いた履歴によってクラッシュする。つまりFirefoxを一度終了しない限りメモリは解放されず、ユーザの(同時に1000ものタブを開くような)かなり強引な使い方の問題ではない。また、x64環境下のx86コマンドの問題でもなさそうだ。もしもそうなら他のアプリにも影響するので今まで問題にならない方がおかしい。

そうすると対策としては非公式のx64版を使用するか、それ以外のx64版ブラウザを使用する事になる。x64版が公式になれば特に問題ないのだが。

まとめ
1:Firefoxはx64環境下で潤沢にメモリがあると潜在的なバグでクラッシュする。
2:以前書いた記事から考えて、このバグはFirefox 32.0.1かその少し前に組み込まれたと推測される。
3:対応策は別のブラウザを使用するのがお勧め。

イスラム国に参加希望する日本人について

「もっともだ」という話(こちら)。日経の会員登録が必要かもしれません。

まあ、「人に殺される覚悟」より「人を殺す覚悟」の方がきついだろうし、それよりも「地道で人の役に立つ決意」の方がずっときついのだろうという話です。イスラム国に参加希望する日本人の話ですが。

正直、記事に付け加えるほどの情報を持ち合わせていないので、お若い方々は参照先を見て少しでも考えてくれたらうれしいと思います。あえて付け加えれば、戦争に参加するより戦後の復興の方が辛く長い戦いになるものだと(伝わるところでは、彼の意識は戦争と言うより戦争ごっこに近いように聞こえますが)。

(戦時も含め)日常では、正義の味方を気取るより、じっと働く人の方が尊いのが本質なのだから。

メディアの特権意識とその表出

ここの話ですが、今回の記事の論理展開や意見そのものは読んだときにスグにできていたのですが、いい具体例がスグに浮かばなかったので書くのがここまで伸びました。そういうわけで少し旧聞に属します。

引用先を読んでいただければすぐ分かるのですが、朝日新聞批判に対するキリスト教的な「罪のないものが石を投げよ」という話で、これは一般的には道徳の一形態でしょう。しかし残念ながら問題は朝日新聞の話は道徳の話ではないのです。もしこれが道徳の話ならばもっと普遍的に推し進めるべきでしょう。こちらの都合によって「相手によって違う道徳を適用する」などという恣意性はそれこそ道徳に反しますから。

つまり、全ての人にそれを適用するつもりがないなら、キリスト教の引用はごまかし以外の何者でもありません。もっと言えばキリスト教に対する冒涜です。池上氏はメディアに全ての他者への石(批判)について「罪なきもののみ石を投げよ」と言うつもりなのでしょうか。ここで言う全ての他者とは、朝日新聞以外にも当然、「犯罪者」にも、不祥事を起こした「一般企業」にも、です。実際には「罪なき者」などほとんどいませんから、メディアは他者への批判を許されません。要するに発言するなと言っているのと同義です。言論弾圧以外の何者でもありません。それとも、メディアの罪と一般人や企業の犯す罪は異なるから、メディアのみは石を投げてもいいのでしょうか。

無論この場合でも事実の告知は別ですから一切論評を加えずに、事実関係のみを報道することはかまいません。たとえばニュース番組でアナウンサーは「本日、食中毒事件を起こしたM食品は謝罪会見をしました。」と言うのみで終わりです。謝罪会見を放送することはどこかを切り取る恣意性(印象操作)がありますし、全て放送したとしても反論の機会をもたない謝罪会見を放送すること自体が(完全中立でないという意味で)偏向的です。報道機関を特別視しない限り、罪なき者のみが石を投げるような報道機関が存在する社会(、つまり実質的に存在しない社会)はそういう社会です。

はたしてメディアの犯す罪は特別なのでしょうか。一般人や企業と異なるのでメディアは石を投げるのみで石を投げつけられるべきではないのでしょうか。それが国民に役に立つ、社会が必要とする報道機関でしょうか。それとも罪以外の何か別のものが特別なのでしょうか。

私は事実関係の周知と批判(当方の言い方では不正義への批判)が報道機関の社会的機能だと考えます。社会的機能を果たさない企業、機関は社会に不要だろうと。もちろん、不要だからと言って抹殺する必要は無いわけですし存在したってかまいません。ですが、社会に不用な機関に社会が便宜を図る必要は何処にも無いわけです。名誉毀損の裁判等で報道機関が特別扱いされているのはその機能を果たすであろう期待があるからです。

つまり報道機関が批判をした結果、またはその批判する行為が他の企業、機関、個人よりも社会から許容されているのは、決してその道徳が優れているからではありません。その罪が特別なわけでもありません。それが社会に要求される機能だからです。朝日新聞を批判することの是非は道徳問題ではないのです。報道機関の社会的機能であり責任の問題であります。ですから全ての報道機関はその是非を問わずこの問題に言及する必要があります。存在しない事実を、検証しない証言を引用し、報道することについてを。

どのようなクズのブラックジャーナリズムであっても報道機関として存在は可能です。そして報道機関の自浄作用として、批判されるべき行為を行った報道機関に対して、報道機関は優先的に石を投げなければいけません。もし、石を投げないことが正しいのなら、以下の例も正しいでしょう。

さて、警察は法律を違反したものを捕まえる義務があります。具体的にはそのような疑いをかけられたものを検挙する社会的機能がありますし、また社会からそう期待されています。もし、警察の一部に違法行為の容疑がかけられたときに池上さんは「罪のない警察のみが逮捕すべきだ」と主張されるおつもりなのでしょうか。一切の不正行為を行ったことのない警官のみが逮捕をし、そのような検察官と裁判官と弁護士が司法行為を行うべきだと主張するつもりでしょうか。その結果、警察であれば誰も逮捕されない社会になったとしても、それが健全な社会だとお考えなのでしょうか(まあ、私は日本の警察は日本の大手メディアよりまともと考えていますが)。

これは報道機関についての池上氏の説を警察に入れ替えただけです。社会的機能がネガティブである組織がその機能を内に向けない場合はこのような結果になります。つまり仲間内は逮捕しない警察、批判しないメディアです。それとも警察は公権力でメディアは異なるから違うとでも言うのでしょうか。「マスコミは第4の権力である」と言われて久しいにもかかわらず。

普通に考えれば警察の例は社会腐敗の一例でしょう。にもかかわらず、メディアに対してそれを腐敗と思わないのであれば、池上氏本人が意識しているかどうかは別にして、その主張は「マスメディアは特権階級だから批判されるべきでない」と考えているのでしょう。本当の左翼はマスメディアに対して階級闘争を仕掛けるべきです。赤旗は朝日新聞の擁護ではなく、その逆を行うべきでしょう。警察の場合は腐敗でも自らは腐敗でないというその存在は警察以上の「神聖にして犯すべからず」存在と言うわけです(おそらく池上氏はそのような警察を批判していたでしょうから)。そりゃ、大手メディアの多くがいかさま左翼なわけです。自分が戦前の神の地位に成り代わりたいわけだから。対抗しそうな有力勢力はできるだけ早く蹴落としたいですよね。

さて、冗談はさておき、池上氏の主張(の冒頭)を演繹するとこのようになりますよね。

批判と中傷の境界は難しいものがありますが、報道機関の機能実現として記事に問題があれば批判すればいいだけです。週刊誌に問題があればそれを批判すればいいでしょう。引用先によれば池上氏は週刊誌に連載があるのだから、週刊誌の記事の中身についてそこで(あるいは他で)具体的に批判すればいいだけで、「(仲間を)批判すべきでない」などという主張は警察の「(仲間を)逮捕すべきでない」という主張と同等と言うことを理解しておいた方がいいでしょう。また、社会的機能の行使/不行使に比べれば、用語の話は些末事です(個人的には好きではない用語が使用されたようですが)。

繰り返しますが、警察においては違法行為を犯したものを逮捕するのが社会的機能であるのと同様に、報道機関においては不正義を犯したものを批判するのが機能です。そして機能の対象は原則として相手を選んではいけません。またそのような機能の放棄はメディアの社会的存在意義の放棄です。自殺です。愚かしいの一言に尽きます。

まとめ
1:朝日新聞問題への批判は道徳の問題ではなく、報道機関の社会的機能の話だ。
2:機能の実現としての批判への是非は、もし必要なら批判に対して批判をすればいい。
3:全ての報道機関は自浄作用として朝日新聞問題に対して自らの立ち位置を鮮明にすべきだ。