徳川家康のアダルト論
2006年10月4日
清水義範氏の「『大人』がいない…」(ちくま新書)という本を読んだ。
日本人の子供っぽさのいい面と悪い面をあげたりと、なるほどと思えることが多かった。
だが、本人も言っているが専門家でなく作家・小説家としての視点で、大人がいない理由を分析、言及しているので、大人がいない現状をどのように打破していけばよいかという具体策についてとくに触れることはなかったと思う。
ただ、大人らしい大人が少なくなっているのを、憂えているのは確かであった。
前掲書の冒頭で、面白いショート歴史小説が書かれていた。
徳川家康がまだ松平元康と名乗っている頃で、場面は今川義元が織田信長に討たれ、その属国の領主であった三河の家康が、今まで通り今川に従うか織田信長に乗り換えるかどうかを国の幹部と論じているところだった。
家康は今川家と織田家の間を人質として行ったり来たりさせられ、今川義元が討ち死にし、それで18歳になってやっと自国の三河に領主として帰ってきたところだった。
幼少から苦労を経験し大人びた資質を備えていたとはいえ、自分の親かそれ以上の国の幹部たちと相談し、重大事を決定するのは相当の難儀なことであっただろう。
今川の形勢を見るに、織田方についたほうがよいと踏んでは見たが、それまでの今川への義理があるし、それを裏切るとなれば、周辺国からもいい目では見られないということで、一同は揃って逡巡していた。
そこで本多平八郎忠勝という人物が、織田に目を光らせておいたままにして、今川義元の息子氏真に織田と戦をするよう促し、それに乗ってこないようだったら今川に見捨てられたということで、織田と和睦することができるのではないか、という作戦を考えた。
この手段に、一同は賛同し、家康もこの作戦を実行することに決定した。
この会議の後の晩に、家康は「わしにはその方たちオトナ衆がついていて、何でも決めてくれるからまことに助かる」ということを有り難げに言ったと、本に書いてあった。
続けて、家康とオトナについて興味深い部分を本文から(ちょっと長いけど)引用する。
家康が、そんなことを言いながら実は、自分の方針に重臣たちを巧みに誘導していた名君なのか、それとも、ただ重臣たちの方針にのっかていただけのおみこしの上のような人物なのか、ここでは判断するのをよそう。
ただみんなの調和だけを考えているうちに、天下を取ってしまった運のいい男、と考えてみるのも面白いから。
とにかく、三河後の徳川家では、重臣たちの意見が重んじられた。
そしてその重臣たちのことを、 「オトナ」 とか 「オトナ衆 」と読んでいた。
今日、大人という言葉に、成人に達している人、アダルト、という意味のほかに、老成していること、人間として完成されていること、というような意味があるのは、この三河の風習、すなわち、重臣を「オトナ」と呼んでいたところからきているのかもしてない。
そして、さすがはそういう国から出ただけあって、徳川家康ほどオトナだった人間は他に類がないのではないか、という気がする。
家康は、オトナだったからこそ、タヌキだったのである。
「鳴くまで待とうホトトギス」というのが、徳川家康の人となりを示すスローガンらしいが、ただ待っていただけでないのは自明である。
雌伏に雌伏を重ね臥薪嘗胆の精神で、じっくり虎視眈々と天下を目指していたのだ。
語らずして語るというのがオトナではないだろうか?
徳川家康は、若き日の運命の鍵を握る決断のときに、語らずして語っていた。
自分では語らず、年長の部下に語らせていたのだ。
彼らが侃々諤々と意見を交わしているのを聞きながら、家康はことによると、自分なりの意見を持っていたか、本多平八郎が思いついた考えも織り込み済みでありながら、敢えて伏せておいたということも考えられる。
主君とはいえ、若造がぬけぬけと持論を言おうものなら、重臣たちの反発なり反対にあうかもしれない。
そこで、周囲の状況をよく探りながら、年寄りたちが、気持ちいいように事を決めた家康は、やはり賢いタヌキだったのだろう。
と、冒頭が天下の家康について言及してあったので、家康のオトナ論が後で展開されるのかと思ったが、特に特集は組まれていなかった。
それが少々口惜しかった。
少し長くなったが、まだ不十分だ。
ほんとに大人らしい大人がいない。
というか、成人式のバカ騒ぎしたり、インタビューで、大人に成りたくないなどと言ったりしている限りは、子供らしい大人しかできあがらないか。
清水義範氏の「『大人』がいない…」(ちくま新書)という本を読んだ。
日本人の子供っぽさのいい面と悪い面をあげたりと、なるほどと思えることが多かった。
だが、本人も言っているが専門家でなく作家・小説家としての視点で、大人がいない理由を分析、言及しているので、大人がいない現状をどのように打破していけばよいかという具体策についてとくに触れることはなかったと思う。
ただ、大人らしい大人が少なくなっているのを、憂えているのは確かであった。
前掲書の冒頭で、面白いショート歴史小説が書かれていた。
徳川家康がまだ松平元康と名乗っている頃で、場面は今川義元が織田信長に討たれ、その属国の領主であった三河の家康が、今まで通り今川に従うか織田信長に乗り換えるかどうかを国の幹部と論じているところだった。
家康は今川家と織田家の間を人質として行ったり来たりさせられ、今川義元が討ち死にし、それで18歳になってやっと自国の三河に領主として帰ってきたところだった。
幼少から苦労を経験し大人びた資質を備えていたとはいえ、自分の親かそれ以上の国の幹部たちと相談し、重大事を決定するのは相当の難儀なことであっただろう。
今川の形勢を見るに、織田方についたほうがよいと踏んでは見たが、それまでの今川への義理があるし、それを裏切るとなれば、周辺国からもいい目では見られないということで、一同は揃って逡巡していた。
そこで本多平八郎忠勝という人物が、織田に目を光らせておいたままにして、今川義元の息子氏真に織田と戦をするよう促し、それに乗ってこないようだったら今川に見捨てられたということで、織田と和睦することができるのではないか、という作戦を考えた。
この手段に、一同は賛同し、家康もこの作戦を実行することに決定した。
この会議の後の晩に、家康は「わしにはその方たちオトナ衆がついていて、何でも決めてくれるからまことに助かる」ということを有り難げに言ったと、本に書いてあった。
続けて、家康とオトナについて興味深い部分を本文から(ちょっと長いけど)引用する。
家康が、そんなことを言いながら実は、自分の方針に重臣たちを巧みに誘導していた名君なのか、それとも、ただ重臣たちの方針にのっかていただけのおみこしの上のような人物なのか、ここでは判断するのをよそう。
ただみんなの調和だけを考えているうちに、天下を取ってしまった運のいい男、と考えてみるのも面白いから。
とにかく、三河後の徳川家では、重臣たちの意見が重んじられた。
そしてその重臣たちのことを、 「オトナ」 とか 「オトナ衆 」と読んでいた。
今日、大人という言葉に、成人に達している人、アダルト、という意味のほかに、老成していること、人間として完成されていること、というような意味があるのは、この三河の風習、すなわち、重臣を「オトナ」と呼んでいたところからきているのかもしてない。
そして、さすがはそういう国から出ただけあって、徳川家康ほどオトナだった人間は他に類がないのではないか、という気がする。
家康は、オトナだったからこそ、タヌキだったのである。
「鳴くまで待とうホトトギス」というのが、徳川家康の人となりを示すスローガンらしいが、ただ待っていただけでないのは自明である。
雌伏に雌伏を重ね臥薪嘗胆の精神で、じっくり虎視眈々と天下を目指していたのだ。
語らずして語るというのがオトナではないだろうか?
徳川家康は、若き日の運命の鍵を握る決断のときに、語らずして語っていた。
自分では語らず、年長の部下に語らせていたのだ。
彼らが侃々諤々と意見を交わしているのを聞きながら、家康はことによると、自分なりの意見を持っていたか、本多平八郎が思いついた考えも織り込み済みでありながら、敢えて伏せておいたということも考えられる。
主君とはいえ、若造がぬけぬけと持論を言おうものなら、重臣たちの反発なり反対にあうかもしれない。
そこで、周囲の状況をよく探りながら、年寄りたちが、気持ちいいように事を決めた家康は、やはり賢いタヌキだったのだろう。
と、冒頭が天下の家康について言及してあったので、家康のオトナ論が後で展開されるのかと思ったが、特に特集は組まれていなかった。
それが少々口惜しかった。
少し長くなったが、まだ不十分だ。
ほんとに大人らしい大人がいない。
というか、成人式のバカ騒ぎしたり、インタビューで、大人に成りたくないなどと言ったりしている限りは、子供らしい大人しかできあがらないか。
小学校英語必修化の是非
2006年9月29日
安倍新内閣の伊吹文明文部科学相は、小学校での英語の必修化は必要ないと考えているようだ。
その理由は、産経新聞のコラムによると
「国民として生活する最低限の能力と義務を教えるのが義務教育。これが果たせていないのに別のことをやってもいけない」
とインタビューで語ったらしい。
私は小学校英語必修化にきっぱりと反対するわけでもないが、賛成するわけでもない。
要するにどっちでもいいのだ。
白黒はっきりさせたがるか、あるいは、はっきりさせなきゃならない立場にいる人々にとっては、無責任でずるいと指を差さされてしまうだろうか。
伊吹大臣は、その発言から類推すると、英語が生活するのに最低限に必要な能力となれば、小学校からの英語の必修化にやぶさかではないということになるのでしょうか。
別にこれは揚げ足を取っているわけではありません。
国際化が日本にも浸透してきたとは言え、英語が使えなくて現実に困るなんてことはあまりない。
少なくとも生活上、英語が欠かせないという日が、これからすぐにやって来るとは思えません。
もし英語圏の国に戦争を吹っかけられ、征服され、英語を母国語とせよ、というお達しが下れば、その必要性、義務が生じるでしょう。
まあそんなことは現状を見る限り、英語圏の国に関してはなさそうですが。
母国語の日本語がままならない内に、外国語などやっている場合か!っていうのが反対派の主張だろう。
確かに、週休二日で授業時間も限られる中で、英語を加えるとなったら現状の必須科目を削る等、再編する必要性に迫られる。
果たしてそこまでして英語をやる意味があるのか?と小首をかしげたくもなる。
一方、私は英語学習には、日本語の語彙力にも資することがあるのではないかとも考えている。
模範の和訳に、たまに未知の言葉が含まれていることがある。
すると、学習者は和訳を理解するために、国語辞典を引かなければならないってわけだ。
そうすれば英単語の意味だけでなく日本語の意味も知ることができるという寸法だ。
英語を話せれば国際人というわけでないという意見には与する。
国際人の定義は分かりませんが、誰も彼も国際人になる必要はないでしょう。
国際人の前に、まず立派な国民になりましょうよ!とも反対派の人たちは言いたいのではないでしょうか。
安倍新内閣の伊吹文明文部科学相は、小学校での英語の必修化は必要ないと考えているようだ。
その理由は、産経新聞のコラムによると
「国民として生活する最低限の能力と義務を教えるのが義務教育。これが果たせていないのに別のことをやってもいけない」
とインタビューで語ったらしい。
私は小学校英語必修化にきっぱりと反対するわけでもないが、賛成するわけでもない。
要するにどっちでもいいのだ。
白黒はっきりさせたがるか、あるいは、はっきりさせなきゃならない立場にいる人々にとっては、無責任でずるいと指を差さされてしまうだろうか。
伊吹大臣は、その発言から類推すると、英語が生活するのに最低限に必要な能力となれば、小学校からの英語の必修化にやぶさかではないということになるのでしょうか。
別にこれは揚げ足を取っているわけではありません。
国際化が日本にも浸透してきたとは言え、英語が使えなくて現実に困るなんてことはあまりない。
少なくとも生活上、英語が欠かせないという日が、これからすぐにやって来るとは思えません。
もし英語圏の国に戦争を吹っかけられ、征服され、英語を母国語とせよ、というお達しが下れば、その必要性、義務が生じるでしょう。
まあそんなことは現状を見る限り、英語圏の国に関してはなさそうですが。
母国語の日本語がままならない内に、外国語などやっている場合か!っていうのが反対派の主張だろう。
確かに、週休二日で授業時間も限られる中で、英語を加えるとなったら現状の必須科目を削る等、再編する必要性に迫られる。
果たしてそこまでして英語をやる意味があるのか?と小首をかしげたくもなる。
一方、私は英語学習には、日本語の語彙力にも資することがあるのではないかとも考えている。
模範の和訳に、たまに未知の言葉が含まれていることがある。
すると、学習者は和訳を理解するために、国語辞典を引かなければならないってわけだ。
そうすれば英単語の意味だけでなく日本語の意味も知ることができるという寸法だ。
英語を話せれば国際人というわけでないという意見には与する。
国際人の定義は分かりませんが、誰も彼も国際人になる必要はないでしょう。
国際人の前に、まず立派な国民になりましょうよ!とも反対派の人たちは言いたいのではないでしょうか。
「The catcher in the rye」J.D.SALINGER
「ライ麦畑でつかまえて」の中で、主人公ホールデン・コールフィールドは、かつての学友カール・ルースという、ませた人物と会った。
ホールデンによると、ルースは、合衆国で誰がホモであるかないか、教えてくるるとのことだった。
その部分を抜粋すると。
―そうすると、ルースの奴は、そいつがホモであるかないか、ちゃんと教えてくれるんだ。
ときには信じかねることもあったな。
ルースが同性愛だとかなんだとか言う奴のことがさ。
映画俳優とかそういった連中のことなんだけどね。
あいつがホモだっていう連中の中には、細君を持っていたりするのまでいるんだから。
<中略>
ルースに言わせると、細君があるとかないとかいうことは問題じゃないんだそうだ。
世界じゅうで、細君を持ってる男の半分はホモなんだが、自分でそれを知らずにいるんだそうだ。
そのほうの素質やなんかがあれば、一晩のうちにも、ころっとホモにならないとも限らないんだとさ。
「ライ麦畑でつかまえて」J.D.サリンジャー/野崎孝=訳(白水uブックス)
日本の芸能界等でも、男前の俳優などが、ずっと結婚せず、女性との逢い引きが伝えられずにいると、ホモなんじゃないかと、ゴシップを嬉々として話す人物がいるけど、にわかには信じがたい。
例えば、戦国時代の織田信長が男色で、森蘭丸という小姓を可愛がっていたという有名な話があるけれども、どれほどの信憑性があるのだろうか。
日本で今活躍している有名俳優の名前は、生々しくて挙げられない。あまり信じられないが。
ゲイ話は、話をおもしろおかしくする、スパイスのような効果を、期待しているようなところがあるのでは。
ホールデンによると、ルースは、合衆国で誰がホモであるかないか、教えてくるるとのことだった。
その部分を抜粋すると。
―そうすると、ルースの奴は、そいつがホモであるかないか、ちゃんと教えてくれるんだ。
ときには信じかねることもあったな。
ルースが同性愛だとかなんだとか言う奴のことがさ。
映画俳優とかそういった連中のことなんだけどね。
あいつがホモだっていう連中の中には、細君を持っていたりするのまでいるんだから。
<中略>
ルースに言わせると、細君があるとかないとかいうことは問題じゃないんだそうだ。
世界じゅうで、細君を持ってる男の半分はホモなんだが、自分でそれを知らずにいるんだそうだ。
そのほうの素質やなんかがあれば、一晩のうちにも、ころっとホモにならないとも限らないんだとさ。
「ライ麦畑でつかまえて」J.D.サリンジャー/野崎孝=訳(白水uブックス)
日本の芸能界等でも、男前の俳優などが、ずっと結婚せず、女性との逢い引きが伝えられずにいると、ホモなんじゃないかと、ゴシップを嬉々として話す人物がいるけど、にわかには信じがたい。
例えば、戦国時代の織田信長が男色で、森蘭丸という小姓を可愛がっていたという有名な話があるけれども、どれほどの信憑性があるのだろうか。
日本で今活躍している有名俳優の名前は、生々しくて挙げられない。あまり信じられないが。
ゲイ話は、話をおもしろおかしくする、スパイスのような効果を、期待しているようなところがあるのでは。