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・・・・・・・・・
先日、嘘に関する記事を書いたのだが。
リンクはっときます。
実はこの記事、むちゃくちゃ簡略化して書いていて言いたいことの二十分の一も書いていない。
なぜなら、人間とは非常にシンプルでありながら複雑なものだからだ。
だからほんの一部だけ書いたのである。
真相を書くために深層まで書くとどえらい長い記事になる。
しかしこの記事について質問やコメントが複数寄せられたので五分の一くらいは書こうかというのが今日の記事だ。
先に謝っておくが中身が大してない割にクソ長いので面倒な方はまたいらしてねー!
まず、嘘の概念から定義していくとだ。
(そっからなんだよ、全ては定義からだ)
goo辞書からコピペさせていただくと
-
事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽 (いつわ) り。「—をつく」「この話に—はない」
-
正しくないこと。誤り。「—の字を書く」
-
適切でないこと。望ましくないこと。「ここで引き下がっては—だ」
[用法]うそ・[用法]いつわり——「嘘偽りは申しません」のように同義重複で用いたり、「嘘(偽り)を言う」のようにほとんど同義で用いられる。◇「嘘も方便」「嘘から出た実 (まこと) 」「そう来なくては嘘だ」「嘘のように晴れ上がる」のような慣用句や慣用表現の「嘘」は「偽り」に置き換えることはできない。◇「偽り」は「嘘」よりも意識的、作為的で、改まった言い方。「偽り」はまた、「彼の言動には偽りが多い」「偽りの愛」のように言葉以外に行動や態度で欺く場合にも用いられる。◇類似の語に「虚偽」がある。「偽り」と同義で、「虚偽の申告をする」のように、多く文書などに用いられる。
・・・・みたいなことが書かれているわけだけれども。
まず、この嘘という要素の存在自体、非常に厄介な矛盾をはらんでいるものである。
というのも、嘘が存在するためには、その前提として真実が存在しないといけないのだ。
で、真実というものは実は存在しえない。
ここをみんなふんわりとしか捉えていないかスルーしがちなのでなんとか生きられているが、実は真実など存在しないのだ。
哲学的な話に見えるだろう、しかし実際そうなのだ。
これは私の座右の銘というか口癖でもあるのだが、エビデンスにエビデンスはない。
例えば「今日」というものをどう証明するのか。
カレンダーや時計を用いるしかないだろう。
じゃあそのカレンダーが真実かどうかを教えてくれと言われたら大半は黙るのではないだろうか。
「だって、そういうものだから」
くらいしか言えなくなる。
ああ、いいよ、もちろん、官公庁が出している日付に関するデータを基に作られているからとか言ったって。
じゃあその官公庁が唯一無二この世の絶対なのかと言われたらそりゃ縄文時代にはないだろうし百年後にあるかどうかもわからんのでそうでもない。
日付ひとつ、今日という言葉すら人は証明が難しい。
「今日」というのは真実として曖昧になる。
じゃあ拠り所はどこか?
「みんながそう思っている」
このあたりだ。
この様に、世の中の大半のものは概念がペラペラなのである。
つまり、話を戻すと、嘘が存在するためには根底にマコトが必要なのだが、そのマコトの存在自体がカゲロウのようなものなのだ。
このことからわかるのは、根っこがグラグラしてるので上にくっついてる茎も葉っぱも実はテキトーということだ。
「嘘」という存在自体が揺らいでくる。
次に、善悪の定義でいこう。
もう見たままだが、いいこと悪いことだ。
じゃあいいこととは何か。
360度全宇宙に対して善だと主張できるのはせいぜい「愛」くらいだ。
それも無条件の。
条件付きになった途端、悪がへばりついてくる。
「ただし、〇〇に限る」
となったら、それ以外は愛じゃないのでよろしくない何かがくっついてくるわけだ。
となると世の中の大半は条件付きの善になる。
善悪もまた、善が存在するためには悪が必要で、悪が存在するためには善が必要だ。
一対になっている言葉は必ず前提があるのだ。
悪というものはじゃあ、善じゃないものとなるが、360度全宇宙に対しての善がほとんどないと言ってもいい世界において、あってないようなものとも言えてしまう危険性を孕んでもいる。
こんな突き詰めなくてもいいこと悪いことだけでいいじゃん、倫理に反してないかとか、誰かが傷付くかどうかとかでいいじゃん、となるだろう。
しかし、その倫理や傷つくという定義ですらたった数年で変わってしまう。
いい例がハラスメントだ。
パワハラ、セクハラ、モラハラ、いろいろあるが、我々が子供の頃は当たり前だったものばかりだ。
それがいいとか悪いとかじゃなくて、人の感覚そのものが時代や環境で変わってしまうので、倫理を軸にするのは難しいだろっていうロジックを話しているのみである。
そんなわけで、善悪というものもまた困ったことにテキトーなものである。
じゃあ善悪はないのかと言われると、そりゃもちろんある。
突き詰めたらおかしなことになるだけで、確かにその曖昧なものにすがって生きているのが人類とも言える。
で、どこまでもコレ系の話はできてしまうのだが、とりあえず嘘と善悪だけ抜き出して話してみたところで。
お気づきの方はお気づきだろう。
真実と嘘、善悪、これらの発動条件はなんなのか。
まんまだが、常に「一定の条件下において」なのだ。
私は個人的にこのカラクリに子供の頃に気づいたが、社会的に生きている状態だとほぼ全員「一定の条件下」を前提とした真実や嘘、善悪を語っているに過ぎない。
なんとも浅いしぬるいのだ。
全ての喧嘩や争い、不満や嫌悪、非難は一定の条件下の相違でしかない。
そして、悲しいことに、その一定の条件は最悪、目の前の相手と自分との間という至近距離ですら日常的に起こる。
例えば、Aさんにとって真実だったことがBさんにとっては嘘だったということもしょっちゅうだ。
ひとつの事象というのは条件や持っている観念によっていかようにも捉えられる。
円錐ひとつとっても上から見れば円だが、真横から見たら四角になり、斜めから見たら立体なのだ。
この3者は誰一人嘘はついていないが、自分が絶対だと思っていれば、全員互いを非難しアイツは嘘つきだ、と罵るだろう。
さて、ここまで概念的な部分で話してみたが、社会的なところでちょっと置き換えて話そう。
先日興味深いポストがX(エックス。旧ツイッター)でバズっていた。
「某デパコスの店員が私の服装を見てお目当ての商品を出さなかった。金持ちそうな人が来たらその商品を出してた。すごく感じが悪い!」
みたいなニュアンスのポストだ。
ヒドいですね!もう二度とあのデパコスは買いません!みたいなリプもたくさんついていたが、一概に非難できるものでもない。
お店の売り上げが上がらなかったら解雇や閉店があるような切羽詰まった条件下だったら、少しでもたくさん買ってくれそうな人を優先するのは当然だからだ。
そのデパコスの店員は、ツイ主から見たら悪人で、デパコスの会社から見たら売り上げをいっぱい出してくれる良い人となる可能性もある。
そもそもが商売というのは売り上げが出なければ存続できないのだから、売り上げ優先を一概に非難したら店そのものが消えるぞ、という話にもなる。
何が言いたいのかというと。
善悪は相対的に見るべき側面が大きいということだ。
↑これ、超大事。
言いたいことはいろいろあると思うが、上の例で言えば、ツイ主から見た「悪」とデパコス会社から見た「善」だと会社全体の利益は結果的に社員たちやその家族、社会そのものの利益にもなっていくので、優先されるべきは相対的に見たら会社側の視点になる、という判断もある。
誤解しないでいただきたいのだが、個人的にどっちがスキーとかどっちがいいよねの話は一切関係ない。
相対的な善悪とその判断の話をしているだけだ。
そりゃ個人的には顧客全てに分け隔てなくやってくれよとは思うが、自分がスタッフだったらそんなこと言ってたら食っていけねえんだわ、とも思うだろうねとも感じるしさ。
デパコスで言う善悪の例を出したので今度は真実と嘘の話。
よくある例で話そう。
家族が余命宣告をされた時、本人に言うか言わないかの話はドラマなんかでも目にするが。
医者が余命一年ですと言った事実に対して本人に告げる、告げない、大丈夫だと嘘を話す、のどれが正解かなんて誰も答えられないはずだ。
そもそも論を言えば、余命一年が絶対だという保証はない。
余命宣告されてから数十年生きた例なんかいくらでもある(私もその一人だ)
また、医者から聞いたと真実を告げたら「じゃあ跳ね返してやるぜ」と逆に闘志に燃えて元気になるタイプもいるし、その逆で絶望して宣告より早く亡くなる者もいるだろう。
また、医者から聞いたことを告げずに嘘を伝えてプラシーボで元気になる人もいるだろうね。
以前にも書いたけど実際に薬効のある薬で「ただのビタミンサプリです」と言った時とただのビタミンサプリなのに「最先端医療で開発された薬だ」と伝えて飲ませた時、後者の方が病気が治ったというのを医師が発表してたりするからね。
プラシーボは全くバカにできんのだ。
さぁ、どれが最善だ?と聞かれたらどうせみんな言うだろう。
本人による、と。
こうなると、真実と嘘と善悪の関係は非常に局所的なものでしかないというのがおわかりいただけるだろう。
どこで折り合いをつけるか、みたいな自身の中のモノサシに沿うしかなくなる。
たくさんのケースがある。
1人を優先して100人の犠牲を出す、という言葉だけ聞くとヒドい話に聞こえるかもしれないが、その1人が国の長だったりしたらそもそも国がなくなったらその後もっとたくさんの比じゃないくらいの犠牲と苦痛があるわけだから一概にも語れない。
つまり数字は根拠にならないということだ。
前後や奥行、過去と未来、構成要素の全てを引っ張り出してきて、その上での最適解を模索するしかないというのが答えと言えば答えだ。
必ずしも「嘘は悪」「嘘は罪」という単純な話では語れないのだ。
あーーーもちろんこれは嘘を礼賛している記事ではないよ。
当たり前だが。
そうではなく、この世というものがそもそも真実も嘘も善悪もその場限りみたいなものという「場」だという話である。
いつもの話になるが、世界は矛盾でできている。
ここまでは真実と嘘、そして善悪という命題に関しての客観的な解説じみたものだ。
厳密に言うと、人類はコレを避けている。
突き詰めると都合の悪いことしか出てこなくなるからだ。
特に資本主義経済下で生きているとそれが顕著だ。
戦争を全否定してみるといい、途端に経済が回らなくなって自分の首を絞めることになる。
大企業の多くが軍事に関連しているからだ。
社会で生きる者の多くが大企業の恩恵にあずかっている現状だ。
こんな世界は間違っている。
だから連日、これを少しでも解決するためにそこに愛はあるんかと叫んでいるわけだ。
で。
ここからはこのどうにもならない命題の解決案を話す。
いくつかあるんでちょっとずつ。
まず、カテゴライズと優先順位を明確につける方法。
どうせ真実も善悪も一定の条件下でしか発動しないシロモノなのだ。
そこで悩むだけムダだ。
であれば最初からカテゴライズと優先順位をつけて自分の中で折り合いをつけるしかない。
例えば、親が幼い子供が描いたクソヘタクソな絵をベタ褒めする、という状況があるとしよう。
完全なる嘘だ。
クソヘタクソな絵を上手だねと褒めるなんて大嘘なのだ。
しかし「子供の教育」というカテゴリーの中で「子供がのびのびと気持ちよく成長してくれるために」という目的が最優先された場合、これはとても美しい親子のやり取りに変貌する。
そんな嘘は悪だ!!と非難する者がいないのは、この前提が自然と組み込まれているからである。
これと同じように、普段から自分の中でなんに関してもカテゴライズと優先順位を明確にしておくことは重要だろう。
「〇〇の状況、環境において」「〇〇という目的が最優先された場合」この2つが合致するのであれば、嘘が悪にならないというのはみんな自然とやってのけていることだ。
これをどの場面でもやるというだけの話だ。
どうせ全方位に通じる真実もなければ、善悪もないのだ。
仕切っていくしかないだろう。
次に、罪悪感を普段からよく整理しておくこと。
相手に悪いとか、相手から嫌われないように、とかではなく、自分の罪悪感がどこで作動するのかをよく見極めるのだ。
誰も目の前の100人全員に好かれるなんてできないのだから、相手側に委ねるのではなく、自分側にその基準を置くしかない。
罪悪感の基準値は完全に人それぞれである。
罪悪感が強かったら政治家になんてなれないし、罪悪感がない者が犯罪に手を染めていく。
その上で、まずは現状、自分の罪悪感はどこで作動するんだ?と。
人によっては電車で高齢者に席を譲らなかったと罪悪感に苛まれて落ち込むし、逆に、原価100円の壺を百万円で売りつけても「これであの人が教祖様にお近づきになれる!!」と本気で思っていれば完全なる善として行動しており、罪悪感などゼロだったりもするし。
社会がどうだとかみんながどうだとかじゃないのだ、罪悪感も真実も。
お気づきだろうか、あなたの本気度がそのまま真実になっていく。
資本主義経済なんてコレの結晶だ。
たまに大して価値のないものにアホみたいな値段がつくだろう。
そこに本気があるなら、互いにとっては真実となり売買が成立するからである。
その現象に対して、どれほど本気であるかが罪悪感を左右するとも言える。
そして、罪悪感というもの自体が揺らぎの大きい要素だ。
大前提として、罪悪感の大小は個人の経験や環境に依存する部分が非常に大きく、普遍的な要素が案外小さい。
万引き家族みたいな映画があったが、犯罪を常とする環境に生まれると罪悪感が生じるまでにはまあまあ社会一般平均より高くなる。
民度の低い場所にいるとゴミが道端に多く散乱しているのも同様。
単に民度の低い環境で生きているということが理由で、ゴミをその辺に捨てることに罪悪感を感じないわけだ。
逆に、罪悪感を感じやすいのは日ごろから罪悪感を強いられる環境で育ってきたケース。
私個人もどっちかと言えばソレで、幼い頃から生まれたこと自体に罪の意識を強いられるような環境だったため、何をやっても自分が悪いんじゃないかとかコレを言ったりやったりするのは罪になるのではないかと考えるクセがついていた。
何が言いたいのかというと、嘘と罪悪感というのは関連づけされる傾向にあるものの、どちらも揺らぎ要素が非常に高いので、主観ではなく客観で捉える習慣がないと真面目に付き合うとしんどいし面倒くさいよということだ。
揺らぎ要素が多い=正確な指針がない、ということだからだ。
そりゃ揺らぎ要素が大きいからってどっちもないです好き放題してくださいとかいう話ではない。
しかし社会的な観点前提で言えば環境により許されたり許されなかったりでいい加減なのだ、この世界では。
これの解決策というか対処法のひとつが、どの軸で嘘と罪悪感を扱うべきなのか、である。
極論を言えばそんなもん自分で決めろというのがこの社会が実は無言で我々に押し付けてくる命題でもある。
だから政治家も経営者たちも嘘を吐きまくるし司法関係までグルになる。
より力のある者が言ったもん勝ちみたいなところがあるのは否めない、腹の立つことに。
しかし、霊的な側面から言うとそうもいかない。
ポイントは、霊的な側面から測るのは嘘や罪悪感の量ではないというところだ。
この「霊的な側面」に関しても仏教的観点、神道的観点のみならずそれぞれの宗教であったり、お国柄であったり、更にその上の普遍的な宇宙であったりと一概には言えないのでコレですと断言して論じるのもむちゃくちゃ難しいのだが、ただ言えることは、最終的に愛の量は重要になってくる。
我が国のような教育で罪悪感を植え付けてくる場所に生まれると実感しにくいかと思うが、罪かどうかより、愛があるかどうかの方が霊魂の質には影響がある。
わかりやすく言えば、嘘を言ったことがなくても愛がないんだったら霊格は低い、ということだ。
罪を犯したことがあっても何万もの人を愛で救ったのであれば霊格は高くなるということだ。
読解力がないとじゃあ罪を犯してもいいんですね!!とか言うかもしれないが馬鹿野郎、そんな話じゃない笑
結局のところ、罪はカルマでありそこの問題になってくるのであり、大枠で語るのであれば罪をどれだけ重ねないかに賭けるのではなく、愛をどれだけ行使するのかなのだ。
ここに関してとてもじゃないがブログ記事ひとつで片づけられるものじゃないので軽くこの程度にしておくけれども。
もうこんな長い記事ここまで誰も読んでないと思うけど一応まとめておこう。
1,真実と嘘、善悪はそれぞれ概念が普遍的ではない
2,日常で起こる出来事はカテゴライズと優先順位をつけることで上手く回避できる
3,本気や誠意が真実になるのがこの世界でもあるため、事実よりそちらを重要視すること
4,霊的には罪の数より愛の量である。ただし1の罪には千の愛が妥当だと思え。
とはいえ、非常に残念なオチだが、人間なんてものは生きてるだけでまあまあ罪深い存在だ。
あらゆる動植物を殺し、自然を破壊し、エゴで快適さと優越感を追求し、上層部は今だけ金だけ自分だけという社会の中でその恩恵にあずかって生きている。
私を含めてこのブログを読んでいるくらいの人はもはや文明を捨ててアマゾンの奥地で裸族になんかなれやしないだろう。
だから毎日くどくど話すのだ。
せめて、愛に生きろと。
愛が最上位だという生き方をしているのであれば、何が罪なのか、嘘はどれほどの罪なのかの問題は自然と矮小なものに見えてくるはずだ。
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