10月17日 ~ ショパン、パリに死す | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、週末はいかがお過ごしですか?ハロウィン 

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

(写真は自分の撮影のもの以外はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、10月17日は・・・ 「フレデリック・ショパンの命日」 です。

 

 

Frédéric François Chopin: 1810.3.1(2.22) - 1849.10.17

ポーランド出身の作曲家、ピアニスト(写真は1849年撮影)

 

いよいよ大御所、ショパンの登場です~音符 

今日はショパンの命日だったんですね。今年は没後171年です。 ちなみに上の写真は亡くなった年に撮影されたものですが、この写真を初めて見たときは肖像画とのギャップにめちゃ驚きましたにやり

ショパンの生涯については、クラシックファンの方なら皆さんご存知だとは思ったんですが・・・

書き始めるといつものように長くなっちゃいました!てへぺろうさぎ

 

 

フレデリック・ショパンは、1810年3月1日(洗礼記録では2月22日)にポーランドのワルシャワから西に46km離れたジェラソヴァ・ヴォラ村で第2子として生まれました。 父の二コラ(のちにミコワイと改名)は16歳でポーランドに移住したフランス人、母のユスティナは元ポーランド貴族の娘でした。

 

ジェラソヴァ・ヴォラにあるショパンの生家

当時の建物ではなく復元されたもの。家具や内装はショパンが生まれた当時のままに復元され、展示・公開されているそうです。

 

 

           

   父 二コラ(ミコワイ)          母 ユスティナ            姉 ルドヴィカ

(すべて1829年に描かれたもの。ミエロシェフスキ画)

 

父二コラはフランス語教師でしたがフルートとヴァイオリンをたしなみ、母ユスティナはピアノが上手かったので、フレデリックは小さい頃から音楽に親しむ環境にありました。ショパンに初めてピアノを教えたのは母ではなく姉のルドヴィカだったそうです。

 

フレデリックが生後7か月のときに父の新しい職場、ワルシャワ中等学校(当時はサスキ宮殿内、のちにカジミェシュ宮殿内に移転)に赴任するため一家でワルシャワに移住しました。(フレデリックも1823年(13歳)から3年間ワルシャワ中等・高等学校(ワルシャワ学院という表記も)に通いました)

 

フレデリックは6歳から13歳までチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィに本格的にピアノを学びました。モーツァルト、ハイドン、バッハ、フンメルなどを学びましたが、フレデリックの腕前はあっという間に師匠を追い越し、7歳でト短調と変ロ長調の2つの「ポロネーズ」を作曲、ト短調の方は出版もされ(現存する最初の作品といわれる)、変ロ長調の方は父二コラが清書した原稿の状態で見つかっているそうです。

 

ショパンが6~13歳頃までピアノを習ったヴォイチェフ・ジヴヌィ(1756-1842)

 

 

1818年、わずが8歳のフレデリックは、ワルシャワのラジヴィウ宮殿で初めての公開演奏を行い賞賛を浴びました。

1821年(11歳)に「ポロネーズ変イ長調」を作曲、師ジヴヌィの誕生日に捧げられました。また、議会の開会のためにワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の前で御前演奏も披露しました。 1825年(15歳)の演奏会では、即興演奏でも聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛されました。

 

 

       

ショパンが中等学校時代に描いた絵(左:サムエル・リンデ校長先生(授業中に描いた) 右:風景画(鉛筆画))

 

 

13歳のころに作曲家ユゼフ・エルスネルに対位法、和声学のアドバイスを受けていましたが、1826年(16歳)にワルシャワ高等学校を卒業すると、父の勧めもありエルスネルが校長を務めるワルシャワ音楽院に入学(翌年ベートーヴェンが死去)、本格的に彼に師事して音楽理論や作曲などを学びました。

エルスネルは、フレデリックのことを「驚くべき才能」「音楽の天才」日記に記しているそうです。 エルスネルは彼を指導するにあたり、偏狭で権威的な規則で押し付けることを嫌い、「彼(ショパン)自身の決めたやり方の通りに」成長させようとしました。

 

ユゼフ・エルスネル (1769-1854)

 

 

1827年(17歳)に一家はワルシャワ大学の向かい側にあるクラジンスキ宮殿南館に移り住みました。ここでフレデリックの両親はエリート男子学生のための寄宿舎を経営し、フレデリックは20歳でワルシャワを離れるまでここに住みました。私はこれ実際に見たことあります音符

 

現在のクラジンスキ宮殿(ショパン一家は南館(写真向かって左の棟下差し)に住んだ)

 

 

(2016年9月撮影)

2階の外壁にはショパンが住んでいたというプレートがあります

 

 

ここの(両親が経営する)寄宿舎の寮生の中で、フレデリックはティトゥス・ヴォイチェホフスキ(同じジヴヌィ門下だった)、ヤン・マトゥシンスキ、ユリアン・フォンタナらと親しくなりました。マトゥシンスキとフォンタナとはパリに出てからも交流を続け、フォンタナはショパンの死後に遺作の出版などを行った人物です(死後自身の作品を廃棄するよう言い遺したショパンの意志に反して遺作を公表した功績は大きいといわれます)。

 

ユリアン・フォンタナ (1810-69)

 

1828年(18歳)、知人の学会出席に同行して初めての国外旅行、ベルリンへ行きました。2週間の滞在中にメンデルスゾーンなどの著名人と出会い、ウェーバーの「魔弾の射手」などを鑑賞、演奏会を聴きました。その帰途でラジヴィウ公に招かれ、チェロの名手の彼とピアノを弾く娘のワンダのために「序奏と華麗なるポロネーズ Op.3」を作曲。 同年「ピアノ・ソナタ第1番Op.4」や「ピアノ三重奏曲 Op.8」なども作曲。

 

ラジヴィウ公の邸宅での演奏会

 

 

1829年(19歳)、ワルシャワでパガニーニの演奏を聴き、フンメルとも出会いました。ワルシャワ音楽院を首席で卒業、8月にウィーンで2回の演奏会を開き、公式なピアニスト・デビューを果たしました。この時演奏した、「ラ・チ・ダレム変奏曲」(17歳の時に作曲。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」の変奏曲)が評判となり、数か月後に出版されました。 

この頃ワルシャワ音楽院の声楽科の学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となるコンスタンツィア・グワドコフスカに恋心を抱いていました。

 

1829年(19歳)に描かれたショパンの肖像画

(ミエロシェフスキ画)

 

1830年(20歳)3月17日に「ピアノ協奏曲第2番Op.21」を初演、これがワルシャワでのプロデビューとなりました。そして音楽活動の場を西ヨーロッパに移すことを決意、10月11日に告別演奏会をワルシャワの国立劇場で開き、「ピアノ協奏曲第1番Op.11」を初演(作曲は第2番の方が先)。

そして11月2日にウィーンへ旅立ちました(指には(前述した)コンスタンツィア・グワドコフスカから贈られた指環、祖国の土が入った銀の杯を携えていたそうです)。 ショパンはウィーンのあとはイタリア行きを希望していたそうです。

 

ところがウィーンへ到着したショパンの耳に、祖国ポーランドで11月29日にロシア支配に対する武装反乱「11月蜂起」が起こったというニュースが飛び込んできました。

 

メモポーランドはショパンが生まれる15年前の1795年にロシア、プロイセン、オーストリアの3国に割譲され、地図上からは”消滅”していました。ロシアはポーランド市民から出版を規制し独立を唱える者が秘密警察に逮捕されるなど圧政を行いました。この「11月蜂起」では蜂起軍は約3倍のロシア軍相手に奮戦しますが、約1年の戦闘の後にロシア軍に鎮圧されました(死傷者は約4万人)。

 

この知らせを受け、ショパンの旅の仲間だった親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキ(前述)は戦闘に加わるために急遽帰国、ショパンも帰国しようとしますが、父親から音楽に命をかけるように手紙で説得され、帰国を断念しました。

しかし、ショパンはウィーンで満足な活動はできませんでした。オーストリアもロシアと同様、旧ポーランド領を支配していたことからウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、演奏会も楽譜の出版もままならない状況となってしまいました。

ショパンはフランスに活躍の場を求めることを決心、パリへ向かいました。

 

1831年9月(21歳)、パリに向かう途上で、ショパンはワルシャワが陥落し蜂起が失敗に終わったことを知りました。ドイツのシュトゥットガルトでショパンは辛い心情をつづっています。

「父さん!母さん!姉妹たち、友人よ!僕の大切な皆はどこにいるのか」

「ただ、ため息をつき、絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」

「ああ、神はなぜ復讐しないのか!神よ、あなたはロシア人どもの犯罪を山ほどご覧になったはずです。それともあなたご自身がロシア人なのですか?」

「孤独!完全な孤独!僕のみじめさは筆舌に尽くしがたい。僕の心はやっと耐えている。僕が故郷で味わった喜びや、沢山の楽しみのことを考えると胸が張り裂けそうだ」

ショパンは、ポーランドの擁護に動かなかったフランスも呪ったそうです。

 

ショパンはこうした衝撃と絶望といった激情をピアノに叩きつけ、「スケルツォ第1番」「革命のエチュード(練習曲Op.10-12)」が作曲されました(練習曲Op.10はリストに献呈)。

ちなみに、この年の年末にシューマンが自身が編集する音楽誌でショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」を取り上げ、『諸君、帽子を脱ぎたまえ。天才だ。』と絶賛したのは有名な話です。

 

 

パリに到着したショパンは、当初はまだここに定住するか迷っていたようですが、翌1832年2月26日に開いたパリ・デビューの演奏会で「ピアノ協奏曲第1番」を披露、賞賛されました。

「史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範をすることなく成し遂げた」と讃えられました。

 

ショパンのパリデビューを描いた絵 1832年2月26日 サル・プレイエル

 

ショパンは知名度が上がって生徒がヨーロッパ中から集まり、また大富豪のロスチャイルド男爵のサロンに出入りするようになり、男爵の娘シャルロットのピアノ指導や他貴族や資産家のピアノも指導するようになり、相当の収入を得られるようになりました。(「バラード第4番」はシャルロットに献呈)

ハイネ、リスト、ベルリオーズ、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、バルザック、ドラクロワなど芸術家らと交友関係を結びました。ドラクロワはショパンに演奏してほしくてわざわざピアノを購入してアトリエに置いたほどだそう。 ひとつ年下のリストとはバッハの協奏曲を共演したこともあるそうです。

 

ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなく、もっぱらサロンで頻繁に演奏しました。彼の健康状態からもあちこち演奏旅行をすることはできませんでしたが、レッスンや作曲で高収入を得ていたので演奏会(もともと好きではなかった)を開く必要もありませんでした。後年、サル・プレイエルでコンサートを行いますが、生涯を通じてわずか30回ちょっとしか公の場には出なかったそうです。

 

1835年(25歳)、カールスバート(カルロヴィ・ヴァリ:現チェコ領)で両親と再会しますが、これが最後の対面となります。パリへ戻る途中立ち寄ったドレスデンでワルシャワ時代に親交があったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵一家に再会、16歳に成長していた娘のマリア・ヴォジンスカと恋に落ちました。ドレスデンを去る際には「別れのワルツ(ワルツ第9番変イ長調)」を作曲、またパリに戻ってすぐに「練習曲Op.25の第2曲」を作曲し、”マリアの魂の肖像”と呼びました。

1836年(26歳)にはヴォジンスキ一家とマリーエンバートで休暇を取ったあと、ショパンはマリアに求婚、マリアもこれを受け入れますが、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態が良くなかったことから結婚は無期限の延期となりました。結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念など(他にも色々説あり)から翌年夏(27歳)には婚約破棄を通告されました。ショパンはマリアからもらったバラの花とマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ (Moja bieda)」下差しと書きました。

 

これがオリジナル?か分かりませんが、第2次世界大戦中に焼失したそうです(ナチスが焼却したとも)

現在展示されているのは複製だそう。

 

マリア・ヴォジンスカ(自画像)

 

 

マリアが描いたショパン(1835年)

 

1836年(26歳)マリアに求婚した年に、ショパンの人生にとって大きな出会いがありました。

そうです、いよいよ登場~にやり 女流作家のジョルジュ・サンドです。リストの愛人マリー・ダグー(ワーグナーの妻コジマの母)の家で開かれたサロンでリストに紹介されたのが出会いのきっかけです。

出会って2年後からふたりは付き合い始めますが、以前サンドの命日にちなんで記事を書きました。

その記事にふたりの出会いから別れまでを書いています。下差し

 

 

逃避行したマヨルカ島(マジョルカ島)ではあまりいい思いはしなかったものの、前奏曲Op.28の数曲、バラード第2番(改訂稿)、第3番と第4番のポロネーズ、マズルカOp.41、スケルツォ第3番Op.39など、彼の生涯の中でも最も創造的な期間のひとつとなりました。

その後パリへ帰国しますが、1839年(29歳)から1846年(36歳)までは夏はサンドの別荘があるノアンで過ごし、英雄ポロネーズを始め、舟歌、幻想曲、ピアノ・ソナタ第2番「葬送」、バラード第4番などたくさんの傑作が生みだされました。

ふたりは交際から9年後の1847年(37歳)に破局を迎えました。

 

アリ・シェフェール画 (1847年)

 

 

ジョルジュ・サンドが描いたノアンでのショパン(1847年)

(第2次世界大戦で消失)

 

「僕は草や木のように日々をぼんやり送っている。じっと生涯の終わりを待っているのだ」

・・・サンドと別れたショパンは心身ともに疲弊し、作曲への気力を失い衰弱していきました。

ピアニストとしての人気も陰りが見え、弟子の数も減っていきました。

 

1848年2月(37歳)、パリで最後の演奏会を開きましたが、最後の「舟歌」は弾き切ることができなかったそうです。ちょうどこの時期パリでは「2月革命」が勃発しており、治安の混乱から多くの市民が街から非難しました。ショパンもスコットランド人の弟子兼秘書のジェーン・スターリングとその姉のキャサリン・エースキンの発案で、4月に渡英しました。貴族のスターリングはこの旅行費のすべてを負担し、サンドとの別れのあとうつ状態に陥ったショパンの支えとなったともいえますが、この渡英(しかもタイトな日程)が彼の体力を大きく消耗し、結果的に死期を早めることになったとスターリングを批判する意見もあるようです。

 

ジェーン・スターリング (1804-59)

 

イギリスでは5月にヴィクトリア女王の御前演奏を行うなど、いくつかのコンサートを行い大きな喝采を受けました。夏の終わりにはスターリングの実家があるスコットランドのエディンバラ近郊に滞在、エディンバラでも1度だけ演奏会を開きましたが、英語が話せないショパンはストレスも多く健康が悪化しました。医師の治療も受けましたが、ショパンはあまりにも弱っていて階段の上り下りもできず医師や召使が彼を抱えないといけなかったほどだったそうです。

10月にウィシュツジニスキ医師の家で、ショパンは遺言を書きました。

「もしも私がどこかで急死するようなことになったら、私の原稿は処分してほしい」 と友人宛てに送っています。

11月16日ににロンドンのギルドホールで生涯最後の公開演奏を行いました。これはポーランド難民の慈善演奏会だったのですが、ほとんどの参加者はショパンのピアノを聴くというよりもダンスを目的に来ており、ショパンはこれによってさらに心身ともに消耗してしまいました汗

11月の終わりにショパンはパリへ戻りましたが、レッスンを行う体力はもやはなく、生活費や診察代にも窮するようになり家具や所持品を売り払いました。自分の健康状態も悪いのに、病床にある友人アダム・ミツキエヴィチを見舞ってピアノ演奏もしたそうです。

 

1849年に入ると体調はさらに悪化し、6月に姉ルドヴィカがポーランドからパリに出てきてもらいました。

9月にスターリングの援助でヴァンドーム広場に面した7部屋もあるきれいなアパートに転居しますが体調は改善しませんでした。

 

               

ヴァンドーム広場近くのプラス・ヴァンドム12番地のこの家の2階でショパンは最期を迎えます

 

 

ショパンの最期の時が迫ると、前述したスターリングはポーランドの画家のテオフィル・クヴィアトコフスキにショパンの油彩画を描かせました。この絵には姉のルドヴィカやマルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人、クジマワなども描かれています。下差し

 

「死の床にあるショパン」 (1849年 テオフィル・クヴィアトコフスキ画)

(左の椅子に座っているのが姉ルドヴィカ、立っているのはチャルトリスカ公爵夫人)

 

 

10月15日になると病状は一層深刻となり近しい友人のみが病床に寄り添いました。

ポトツカ夫人(小犬のワルツを献呈された人物)が訪れた際には、ショパンは夫人にソナタを弾くよう頼み、(神の存在を信じないと信仰告白も拒んでいたのですが)神に大きな声で祈りを捧げました。

その場面を絵にしたものもあります下差し(ただしこのエピソードの信ぴょう性は疑わしいとする意見もあり)

 

「ショパンの死」(フェリックス・ジョセフ・バリアス画  1855年)

(ピアノを弾きながら歌っているのがポトツカ夫人、ショパンの手を握っているのが姉のルドヴィカ、顔を伏せて泣いているのがジョルジュ・サンドの娘のソランジュ)

 

 

ショパンは、ジョルジュ・サンドが”私の腕の中で息を引き取らせてあげる”と約束したのに、と不満をもらしたり、紙片には、「土に押しつぶされるから埋葬しないでほしい。生き埋めになりたくないんだ。」と書きました。

10月17日の深夜、医師が「ひどく苦しいのか」と尋ねると、ショパンは「もう何も感じない」と答えたそうです(最後の言葉は「お母さん、かわいそうなお母さん」ともいわれる)。そして午前2時の少し前にショパンは息を引き取りました。享年39歳でした。

姉や友人ら7人が死の床に付き添ったそうです。サンドの娘ソランジュの夫で彫刻家のオーギュスト・クレサンジュがショパンのデスマスクと左手の型をとったそうです。

 

葬儀は10月30日にパリのマドレーヌ寺院で行われ、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されました(ショパンの遺言により、と言われていますがショパンの弟子で友人のグートマンは、ショパンがそのようなことを頼んだことはない、と証言しています)。他ショパンの「前奏曲集」から第4番と第6番がオルガンで演奏されました。葬儀には約3000人が参列しましたが、その中にジョルジュ・サンドはいませんでした。

マドレーヌ寺院からペール・ラシェーズ墓地まで5キロの道のりを、ドラクロワやオーギュスト・フランショーム、カミーユ・プレイエルらが交代で棺を担ぎ、棺のすぐ後ろには姉ルドヴィカが寄り添いました。

埋葬の際には、ショパンの「葬送行進曲」の管弦楽編曲版が演奏され、棺の上には彼がワルシャワを旅発つときから終生大切に持っていた故郷ポーランドの土が撒かれたといいます。

 

1849年10月30日に葬儀が行われたマドレーヌ寺院

 

 

ショパンは20歳で祖国を出て以来、ずっと帰国を夢見ていましたが、ロシアは彼の帰国が民衆の独立運動を刺激することを恐れて入国を許可しませんでした。

ショパンは遺言で、「せめて心臓はワルシャワへ戻してほしい」と願っており、姉ルドヴィカは葬儀の前に取り出された弟の心臓をスカートの中に隠してこっそりポーランドへ持ち込んだといわれています。そしてワルシャワの聖十字架教会の石柱の中に収められています。心臓は壺の中でコニャック(と思しきアルコール)に浸されたそうです。彼の心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された(ナチスに奪われたと書いてあるものもありましたが多分違う)以外は、この教会で眠り続けています。

聖十字架教会は1944年のワルシャワ蜂起で大きく破壊されましたが、戦後1953年に再建が完成、ショパンの命日に心臓も戻されました。この時演奏されたのが、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようと考えていたという「軍隊ポロネーズ」だったそうです。 聖十字架教会は、ショパンが最後に住んだポーランドの家(前述の写真)だったクラジンスキ宮殿のすぐ近くです。

 

聖十字架教会(2016年9月撮影)

 

 

昔の聖十字架教会(ベルナルド・ベロット 1778年)

 

 

第2次世界大戦(特に1944年のワルシャワ蜂起)で大きく破壊された聖十字架教会

 

 

 

教会の中のショパンの心臓が収められている柱

 

 

 

 

ショパンの心臓は柱の下部のここに収められています

(上の方に気を取られて実はこの下の小さい部分、ということを知らない人が多いので行かれた人はここに注目ですよ~にやり

 

 

ショパンとは関係ないですが、教会内にあったもの。

 

これは「カチンの森」事件の慰霊碑だそうです。ワルシャワにはまだあちこち第2次世界大戦で受けた傷跡を偲ぶものが町中のあちこちにあります。

 

教会の前には十字架を背負うキリスト像が。

 

 

この像の下の方や台座にはたくさんの銃弾の跡があります。これは第2次世界大戦のときのもの。

 

 

当時の写真ですが、周囲が壊滅状態でもこの像だけは立っていたんですね。

 

 

 

再建前の聖十字架教会

このような状態でも多くの人たちが祈りを捧げに来ていたんですね。

 

 

パリではショパンの一周忌の1850年10月17日に、オーギュスト・クレサンジュ(サンドの娘ソランジュの夫)が設計・製作した、墓の記念彫刻が除幕されました。音楽神の叙情詩の女神エウテルペーが壊れた竪琴(ライアー)の上で涙を流す姿をかたどったものでした。台座にはショパンの横顔が彫られ、手前の門にはイニシャルの”F.C”が装飾されています。

 

パリのペール・ラシェーズ墓地にあるショパンのお墓

 

 

 

 

 

 

この墓石の制作費、葬儀費用(計5000フランとも)、そして姉ルドヴィカの帰国費用、買い取ったショパンのピアノをワルシャワのルドヴィカの元へ輸送する費用、などすべては前述のスターリングが負担したそうです(スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していたそう)。 また、彼女はショパンが遺した家具や身の回りのものも全て買い取り(ショパンのデスマスクも含まれる)、さらに自筆譜、スケッチ、書簡や書類なども集め、一部はスコットランドの自邸に運んで特別室に展示していたそうです。

(ただし、諸々の費用を負担したのはスターリングではなく、ジェニー・リンドだったという説もあり)

 

 

ショパンの死因については、昔から言われている「肺結核」という説が有力のようですが、2014年にこんな記事を書いたことがあります。下差し

 

 

この記事では「肺結核」の他に遺伝性の「のう胞性線維症」という死因も疑われているそうです。

前からの素朴な疑問なのですが、ショパンが肺結核だとしたら、たとえばジョルジュ・サンドや彼女の子供たちなどずっと濃厚接触していた周囲の人はなぜ肺結核の発症の人がいないんでしょうね。

 

 

ショパンの肖像画は記事の中で挙げた他にも色々ありますよね。あと3つほど載せておきます。

 

            

左:ショパン(1833):Pierre Roche Vigneronの原画による石板画

右:ショパン(1848):Antonio Colberg画

 

 

そしてこれは有名なドラクロワが描いたショパン像です(1838)

元はジョルジュ・サンドと一緒に描いてて切り離されたっていうやつ。

 

ショパンはパリ時代にはもっぱらプレイエル・ピアノを愛用しました。彼はプレイエルのピアノを、

「香水のような香りがする」といって好んだそうです。

 

 

ショパンが使用したピアノ(ショパン博物館)
 

それではやっときょうの今日の曲です。ピアノ・ソナタ第2番より第3楽章「葬送行進曲」です。

1839年に完成されたピアノ・ソナタ第2番ですが、第3楽章はその2年前に単独で書かれていました。

 

 

ショパン:ピアノ・ソナタ第2番より 第3楽章 「葬送行進曲」  (9分33秒)

/ ミケランジェリ (Pf)

 

ショパンの埋葬の際に演奏されたという、管弦楽編曲版(ただし編曲者は当時とは違ってエルガーです)も載せておきます。

 

ショパン/エルガー編:「葬送行進曲」管弦楽版 (7分30秒)

/ Sir Adrian Boult&ロンドン・フィルハーモニー管

 

 

ショパンの祖国ポーランドが120年以上もの外国支配から解放され、独立を取り戻したのは第1次世界大戦終結後の1918年。ショパンの死去から約70年が経っていました。

しかし、その後ポーランドは一層苦難の歴史が待っていることになるのです・・・

私はポーランドに一度だけ行ったことがありますが、とても大好きになりました。私の中ではまた訪れたい国の第1位ですチュー

 

 

「ショパンは祖国に帰れず望郷の念に苦しんだからこそ、精神的な深みを増し、ロマン派の詩人から国民楽派的詩人へと成長した。祖国を外から俯瞰することで、祖国の偉大さと美しさ、悲劇と栄光の移り変わりをより感じ、理解することができた。」と評している人がいましたがそうなんだろうなと思います。ただやっぱり愛する祖国へ最後まで帰れなかったのは本当にかわいそうに思います。

 

ワルシャワのワジェンキ公園にあるでっかいショパン像

(2016年9月撮影)

 

 

後ろから見たところ

ショパンの後ろのものは風かなんか?と思っていたら柳の木だそう。