6月7日 (8日) ~ ショパンの恋人 ジョルジュ・サンド 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、週末もお元気でお過ごしでしたか?あじさい

3か月間休館だったジムが再開したので、昨日久しぶりに行って泳いだり、ストレッチしたら、今朝起きたら全身が筋肉痛ですあせる あんまり痛くて動きがパントマイム風になってる私です・・・にやり やっぱり身体ってすぐなまるなぁ。

 

さてさて、「今日はなんの日」のコーナーです。

出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。

 

今日、6月7日は・・・ショパンの恋人だった 「ジョルジュ・サンドの命日」 です。

ただ、この本では6月7日となっていますが、今ではたぶん6月8日が命日 が一般的ではないでしょうか。なので、当記事でも6月8日として進めます。

 

George Sand : 1804.7.1 - 1876.6.8 ; フランスの作家

(1835年(31歳)に描かれた肖像画)

 

「ジョルジュ・サンド」という名前はいわゆるペンネームで、本名は、アマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン (Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人 (Baronne Dudevant) といいます。

 

私のジョルジュ・サンドのイメージは、ショパンの恋人、という他、男装の麗人、頭がよくて気が強そう、男性遍歴がすごい、などでしょうか。あともっと言えば、ショパンをマジョルカ島に連れていったばっかりにかえってショパンの寿命を縮めた女性って感じでしょうかw (でも当時はそんな知識もないから言っても仕方ないことですけどね・・・)

 

1804年にパリで軍人貴族の父と庶民の母のもとに生まれたサンドは、1822年にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し、モーリスソランジュという1男1女をもうけますが、まもなく別居し多くの男性と恋愛関係をもちました。

 

 

 

 

 

(写真はすべてwebからお借りしました)

 

これらは男装したサンドを描いたものですが、サンドが初めて男装したのは4歳のときだそうです。当時サンドの一家はスペインのマドリードの戦地の前線で生活しており、将軍への謁見のときにサンドの母ソフィが娘にナポレオン軍の華やかな軍服を着せたらしいです。当時の男の子に抱く母親の憧れの感情からだったらしいです。

ただサンドが4歳のときに父が落馬事故で死亡、その後母と父方の祖母との間に葛藤が生じ、最終的に養育権を得た祖母のもと(ノアンという村)で暮らします。結局サンドは子供のころから晩年までこのノアンで暮らしました。

 

元々サンドは乗馬や狩りが大好き、などとても活動的な女性でした。

結婚生活が破綻して2人の子供とともに自立の必要があったサンドは、生活費の節約や衣料費を安くするために母のソフィから男装を勧められたそうです。(ソフィぶっとんでる・・・w)

当時民衆の自由主義が盛んとなったころでもあり、サンドはパリの音楽会、演劇、カフェなどあらゆるサロンに男装して現れ、色んなものを吸収しようと熱心でした。

 

そうして作家として頭角を現すと、彼女の周囲には才能あふれる人間たちが集まってきます。

作家バルザック、詩人アルフレッド・ド・ミュッセ、作家スタンダール、詩人ハイネ、画家ドラクロワ、音楽家リストやベルリオーズ、その他政治家や哲学者などあらゆる人たちが彼女の周りに群がりました。(ショパン以外の男性遍歴については省略します)

 

そしてショパンと出会います。

1836年秋にリストが初めてふたりを引き合わせました。このときショパンは26歳、サンドは32歳でした。 

そのころショパンは別の女性に恋しており(マリア・ヴォジンスカ)、サンドに対しての第一印象はむしろ悪いものでした。虫の好かない女で本当に女なのか疑わしいと友人に感想をもらしているそうです(この時サンドが男装していたかどうかは不明)。

その後ショパンとマリアは家族の反対にあって婚約破棄になってしまいました。そして1838年4月に久しぶりに再会したショパンとサンドは急速に親しくなりました。元々サンドの方はショパンに好意を持っていて積極的だったようです。

 

そしてサンドのふたりの子供を連れて1838年10月から翌39年2月までスペインのマジョルカ島へ”逃避行”します。

ちなみにショパンはこのマジョルカ島への旅行費用として、完成が近かったプレリュード集を2000フランで売り、さらに友人から1500フラン借りたそう。

 

マジョルカ島のパルマでの生活は最初こそ快適でしたが、ショパンが結核(スペインでは伝染病と恐れられていた)と診断されると、家主から立ち退きを要求されます。そしてパルマ郊外のバルデモサ(バイデモサ)の空き家同然となっていたカルトゥハ修道院へ移りました。

サンドは献身的にショパンを看護しますが、ショパンの体調はよくならず(むしろ悪くなった)、島民からの敵意も苦労となり結局1839年2月に島をあとにしました。

帰りの旅もパルマでショパンは喀血、船でも一番ひどいベッド、バルセロナのホテルでも寝具や家具を焼却(当時は結核患者が使用したものはそうするよう法律で決まっていた)するための代金を請求されたそうです。 サンドはその後手紙でスペインとマジョルカ島のことをボロクソに書いてます・・・にやり (現在の研究ではショパンは結核ではないという説が有力? らしいです)

 

現在もこの修道院内の彼らが住んだ部屋は公開されています。

 

マジョルカ島のバルデモサのカルトゥハ修道院(中央の尖塔のある建物)

 

 

修道院内のショパンの部屋

(ピアノはショパンが実際に使用したパルマ市ヘルマノス製のものらしい)

 

 

サンドの部屋

(写真はすべてwebよりお借りしました)

 

ふたりはその後サンドの実家があるノアンやパリで暮らしますが、サンドの二人の子供たちをめぐるトラブルなどから1946年秋にショパンはノアンの家から去っていきました。その後も文通はしていたようですが、翌年7月に(サンドの長女ソランジュの結婚のことで)サンドとの別離は決定的なものとなりました。

サンドは7月28日にショパンに宛てて、

『ごきげんよう友よ。この9年間の友情にこうした奇妙な終止符がうたれたことに感謝します』 と最後の決別の手紙を書いています・・・ (こわっハッ

 

サンドが溺愛した息子モーリス

 

サンドに似ていますよね(最初サンドの男装写真かと思いました)。 母親はやっぱり息子に甘くなっちゃうんでしょうか。 そしてモーリスも愛する母をショパンにとられた気がして反発したのでしょうか。

 

 

サンドの娘ソランジュ

サンドはソランジュには厳しくあたり、そのため彼女はショパンの方を慕うようになりました。

ソランジュはサンドそっくりの性格だったそうで、それもあって折り合いが悪かったのでしょうか・・・ ショパンがソランジュを庇うのがサンドは余計に腹立ったのかな。

 

 

1848年3月ショパンとサンドは偶然に出会い、その際ショパンはソランジュに子供が生まれたことをサンドに告げましたが、この短い再会がふたりの永遠の別れとなりました。

1849年10月17日にショパンは息を引き取ります(ソランジュは最期を看取ったひとり)が、10月30日にパリで行われた葬儀にサンドは出席しませんでした。

 

サンドは1840年代から政治志向を強め、マルクスら政治思想家や活動家と交流、1848年の2月革命のときは政治活動に参加しましたが、5月のクーデター失敗のあと同志たちが次々と投獄される中、サンドもノアンに隠遁せざるを得なくなりました。

彼女はその後も女性権利拡張運動を主導するとともに執筆活動も続け、ヴィクトル・ユーゴーやテオフィル・ゴーティエなど多くの文学者と交流しました。

 

サンドは1876年6月8日に71歳で亡くなりました。

溺愛した息子のモーリスと彼の妻、そしてふたりの孫娘たちに看取られながら、彼らに「さようなら」と残したそうです。6月10日の葬儀では、ヴィクトル・ユーゴーの弔辞が読み上げられたそうです。

 

1864年(60歳)ナダールによる肖像写真

 

 

プラシド・ヴェルドが撮影したサンドの最後の写真(1875年(71歳))

 

年とってもシワひとつないし肌ツヤもよくて(しかも昔の人なのに)なんか若いです!

 


ノアンにあるジョルジュ・サンドの館

 

ノアンはフランス中央部のアンドル県ベリー地方(パリから約300キロ)にあるノアン・ヴィックという小さな村です。元々はサンドの父方の祖母の家ですが、サンドはここで子供時代から亡くなるまで多くの時間を過ごしました。

 

ショパンは9年間にわたるサンドとの交際の間、8回もの夏をこの屋敷で過ごしました。そしてその作品のうちのほとんどをここで作曲したといいます。
サンドは夏が来るたびにショパンのために新しいピアノを買い替え、屋敷まで運ばせたそうです。(なんちゅう贅沢!えっ) ただショパンの使ったピアノは屋敷内には残されてないそうです。



「青の間」とよばれるサンドの寝室

サンドはここで息を引き取ったそうです。

 

 

敷地内の庭園のはずれにあるジョルジュ・サンドのお墓

向こう側のふたつの十字架は娘のソランジュとソランジュの娘のお墓です

(写真はパリの観光ガイドサイトからお借りしました)

 

 

こうしてサンドの人生を振り返ると密度が濃い生涯だな~!とあらためて思いました。

サンドは19世紀で唯一作家として自活できた女性ともいえるでしょう。

 

それでは今日の曲です。近藤氏が選んだのはショパンの「小犬のワルツ」です。

サンドが飼っていた小犬が自分のしっぽを追ってくるくる回る癖があり、それをショパンに音楽で描写してほしいと頼んだことから即興的に作曲されたともいわれています。中盤の高く短い音は小犬がつけた鈴の音といわれているそうです。

マンガの「ピアノの森」でも主人公のカイが最初に出会うショパンの曲がこの「小犬のワルツ」でしたよね~にやり

 

 

ショパン:ワルツ第6番 変ニ長調 Op.64-1 「小犬のワルツ」  (1分47秒)

/ ラファウ・ブレハッチ

 

この曲を作ったのは1846年から1848年頃と書いてありましたが、そのころってサンドと別離する~したくらいの時期ですよね。そんな時期にショパンは本当にサンドの愛犬の微笑ましい様子を曲にしたんでしょうかね・・・笑う

ちなみに私はこの曲、聴くのは好きだけど弾くのはどうにも苦手でした。音符ばかり考えて弾くからか、”ラ~ソラドシソラシラドシソラドシ・・・”と続くのがパズルのようで頭がこんがらがるのです・・・もやもや   

 

サンドが描いたショパン

 

 

サンドが描いたショパン