ご覧くださりありがとうございます。
※今日のブログは過激、というより性格が悪いです。
特にお受験ブログの方々には不快かもしれません……。
少し前に読んだ本が2冊。
教育虐待 子供を壊す「教育熱心」な親たち 著:石井 光太 (ハヤカワ新書)
境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ
著: 宮口幸治 (SB新書 627)
今回は境界知能の本の方にはあまり触れません。
教育虐待についてですが……。
読んでいて思ったことは、虐待の線引きって難しいな、ということです。
そして、虐待された子供はその影響を引きずって大人になってしまう、ということ。
虐待された子供に共通して、「自分が悪い子だから、辛い目に遭うのだ」と思ってしまうようです。そして、自分を大切に出来ない。
被害者は精神的にも肉体的にも影響を受けてしまう。
虐待は良くない、という思いを新たにしました。
ただ、こういった本を読むのは、虐待について意識を高めたいからというよりは、
「自分はこんな親のもとに生まれなくて良かった」
という気持ち、『他人の不幸は蜜の味』だから読むんです。わたしは。
この本は色々な事象や案件を取り上げて書かれているので、この『他人の不幸は蜜の味』がものすごく沢山あるわけです。
ですから、わたしみたいな、性格の悪い人は気持ち良く読めるかもしれません……。
もちろん分かりやすいので、教育虐待についての考えも深められますよ!
さて、ここからが本題です。(前置きが長い!!)
読んでからちょっと時間を置いて考えてみると、教育虐待に気づかず、虐待している人が沢山いるのではないかと思いました。
Amebaに!
まあ上記のように『他人の不幸は蜜の味』の気持ちを味わうためにお受験ジャンルのブログを読むのです。
「この親のもとに生まれなくてヨカッター」
って思いながら読むんですね。
(多分あちらも、わたしを子供に欲しいと思わないでしょうが)
そういう受験ジャンルにあるのは以下のようなブログ。
「今日は〇〇というドリルとワークをやります!
※大抵ドリルが3冊くらいURL付きで載っている」
「〇〇は難しいみたいです〜。ちゃんと復習させなきゃ!」
〇〇には面積の計算とか、国語の文章読解などの言葉が入ります。
時々、傍でタイマーで測ってたのか? と思うような文が見つかったりします。
模試やクラス分けがあった時などのブログは、細々と偏差値や点数が載っていたり、順位とかについて
「これをキープしてほしい」「もっと頑張ってほしい」
などのコメントがついています。
こういうのをざっと見ていると、時々ものすごく気持ち悪さというか、不穏さを感じるブログに行きあたったりします。
基本、教育熱心なママだな、とか、子供も頑張っているな、と思うブログが多いですし、良好な家庭が多いです。
ですが、やっぱりいるのだと思います。
「『みんなが』とか『ママ友が』とか書いてあるけど、あなたの意見は? というか子供の意見は聞いているの?」
とか、
「いや、そんなに勉強させたら子供が壊れるでしょう」
とか、
「親は自分のことしか好きじゃないんだろうな。子供がアクセサリーのようになっている」
とか。
読んでいてこう感じるブログがあると、教育虐待っぽい……と思ってちょっとワクワクします。(ワクワクするな)
教育虐待だけに関わらず、虐待は、親が虐待と思っていないことが一番怖いと思います。
そして、それを虐待だと周りも気付かず、むしろ応援したり、親を励ましてしまう、それが怖いな、と感じます。
中学受験をさせたい親は、まず、「させる」じゃなくて、「やってもらう」という意識を持つべきじゃないかと思うのです。
ですから、「やらせる」という発言がいくつもあったり、細かい点数や問題について細々指摘してあったり、子供の愚痴がツラツラとあるブログは、ちょっと不穏ですよね。
わたし自身は、小学校の頃は、習い事も塾も行っていなくて、考えたり遊んだり、自分と対話する時間があって良かったなと思っています。
わたしの場合は、塾に行っていなくて、困ったことはむしろ無いのです。
中学でも、クラスの子が授業中寝ていて、その子と話してみると「塾が大変で、終わるのが10時」と言うのを聞いたりします。
10時に帰って寝るのが1時……朝は7時って、中学生の理想の睡眠時間を大幅に下回っていると思うのですが……。
今は塾に行くのが当たり前のようになっていますが、塾は本人がやりたいとか、塾の方が学校より楽しいと思っていないと効果がないと思うのです。
子供にもよるでしょうし、親や先生の手助けがないと勉強できない子供いるかもしれませんが、それでもやはり、教育は子供主体であるべきだよなぁ〜と、考えました。