ギフティッドの子どもたち (集英社新書)
著:⻆谷 詩織
読了しました。


わたし自身が、
中学の頃は「天然さん」という扱いから一変し、
高校入学と共に「二重人格」「サイコパス」と言われるようになり、

わたしはもしかして
サイコパスなのかしらと思って、
「サイコパス・インサイド」を読んでみたのですが、
どうやらわたしはサイコパスの根本にある
「共感性の欠如や良心への不理解」
というものはないなと感じたので、
どうやらサイコパスではないなと思い、
ギフティッドというものも考慮に入れようと考えた所存です。


わたしの現在の悩みの根本にあるのが、
自身の他者との会話の不得意さです。


しかしながら、
小中学校のころには
特にコミュニティから排されているという意識に至ることはなく、

悩みの原因が
この自分の知性の高さにあるとするのなら、
わたしはわたし自身を、
ギフティッドの枠にいれてもいいかもしれないと思います。
(ただ、IQを判定したことはないので、
確実性は伴っていませんが。)



けれども確かに、
会話をするときに、
相手にこの四字熟語は通じるか、
この慣用句を知っているか、

あるいは
「これくらいなら勉強しなくても
それなりの点を取れるのではないか?」
「なぜ勉強を嫌うのか?」

と言った無意識の発言が、
マウントと取られたり、
相手を傷つけたりしないかと
考えてしまうが故の
同級生に対する返答の遅さが、
わたしと同級生で会話が上手く行かないことの原因のひとつかもしれません。



知的ギフティッドの割合は

3〜10%いるとされています。

これは35人学級に1〜3人程度いる計算になります。

と、この本で述べられており、
となると案外身の回りにギフティッドは多く存在するでしょう。


しかしながら、
読んでいて思うことは、
本当に日本はギフティッド教育が遅れているのか、という点です。

現在、
学校では数学や英語の習熟度別クラスの実施があったり、
または中学・小学受験という選択により、
幼少期の頃から自分と同じレベルの人間がいるコミュニティに加わることができます。

また、塾に行く子どもも増えており、
学校だけが教育の場ではなくなってきているようにも思えます。

しかし、
中学受験をするかしないかというのは、
親の経済力や、教師の意見にも左右されます。
本人(ギフティッドの子供自身)の努力だけではままならないことも多いでしょう。

となると、
本当に必要とされるのは、
やはりギフティッドに対する認知だと思うのです。(本文でもそう述べられています。)


突然ですが、
わたしの中学時代は大変恵まれたものだったと言えます。

帰国子女が3分の1を占め、
芸能活動をしている子が多かったこともあるでしょう、
多様性というものが「ごく当たり前に」理解されていました。

勉強ができる、素晴らしい。
努力ができる、すごいことだ。
運動が得意、かっこいい。
手先が器用、人と関わるのが上手、独創的である、ユーモアがある……
そういった長所や才能は、
おしなべて「尊敬されるもの」でした。
誰かと違うところは長所であって、
差別されることではなく、
人をいじめるくらいなら、個人の能力を伸ばすことに時間を費やすこと。

そういった意識を生徒や教師が持っていた事が、
生きやすいコミュニティを作っていたと感じます。

授業においても、
出来る子は暇になって暴れたり、
投げ捨ててしまうのではなく、
まだ理解出来ない子に対して教えてあげていました。
(教師もこれを認めていました。
なぜなら、日本語を話せない子とそのサポートをする子の会話の場合、
教師には分からない言語でやりとりされることも多く、
教える存在が教師以外にもいなければいけない状況もあったからです。

しかも、
先生よりも知識がある子がいたときは、
その子が講義をする瞬間もままありました。)


そして、
この経験を通して思うことは、
人間は他者を思いやる心さえあれば、
どんな人間であれ共生できるということです。

ですから、
わたしの理想としては、
ギフティッドの子どもを
ギフティッドの子ども同士で固めてコミュニティを作らせるよりは、

ギフティッドかどうかに限らず、
他者を思いやれる人間同士で固める方が理想的ではないかと。

というよりは、
ギフティッド同士で結束し、
幼少期は幸運に過ごせたとして、
社会に出た時に、
自分のことを認めてもらえないことに
憤りや困難を抱えることを考えると、

むやみにクラス分けをするのではなく、
他者との共存をすすめた方がよいのではないかと思うのです。

もちろん、
わたしの中学校のような学校は
極稀であることも承知していますが、

つまりは、
授業中生徒同士の教え合いや交流を認め、
先生だけでなく、
生徒も先生の立場に立って授業を作ってもいい、教えられる、交流できる場として発展させてあげることのほうが、
良い影響を与えられるのではないだろうかと考えます。

わたしの意見としては、
クラス分けをやたらすることによって、
生徒のためというより、
親が自身の子供の才能を誇示したいからと
ギフティッドのクラスに入れてほしいと頼み込んだりするような状況も危惧されます。

そして、
ギフティッドに対する認知が、
親、教師、そして子ども本人に広がること。

加えて、
ギフティッドの支援とともに、
それ以外にも困難を抱える人々のことを考えて議論し、施策を練っていくこと。

それが最もギフティッドに対する支援につながるのではないかしらと感じました。


やはり才能の有り無しに関わらず、
その人がその人であるという
存在自体が肯定されるようになるといいなと思います。