茂福城に行くときに、
「斎宮」という交差点を見たり、
「伊賀留我神社」というのがあったり、
「采女城」だったりと古代関係の匂いが
するので、色々と見てみると
「久留倍官衙遺跡」という遺跡公園があり、
歴史館があったので立ち寄らせて
いただきました。
国指定史跡
久留倍官衙遺跡は、一般国道1号線北勢バイパス
の建設に関わる事前調査で確認された、
古代の役所(官衙)の遺跡です。
①政庁・正倉院などの施設の全体像や変遷が
分かる。
②主要施設が他の官衙遺跡と異なり東を
向いている。
③「壬申の乱」「聖武天皇東国行幸」の史実
と結びつく可能性がある。
このように、日本の古代史解明の上で重要な
意味をもつ遺跡として、国史跡に
指定されました。
遺跡は大きく3期に分かれます。
I期(7世紀後半〜8世紀前半)は、正殿と
2棟の脇殿、及び八脚門と各施設に連なる
塀からなる政庁を中心とした役所の
建物群です。
東を向いているのが特徴です。
II期(8世紀中頃〜8世紀後半)は、I期の政庁
に重なるような位置で建てられた、
平面積200㎡を超える長大な建物を中心
とする建物の可能性もあります。
Ill期(8世紀後半〜9世紀末)は正倉院です。
正倉院には、一般集落ではほとんどみら
れない4×3間、3×3間の平面をもつ倉庫
が複数整列して建てられていました。
正倉院も東を意識していたようです。
このような遺構の変遷を理解していただく
ため、各時期を色分けして表現するとともに
役所が成立した時期であるI期の建物について
正殿を立体表示(休憩所)に、八脚門を
復元建物として、当時の役所を空間的に
体感していただけるよう整備しました。
上記の案内板より
案内板を見て面白そうだったので、
少し寄ろうということになりました。
お城めぐりをしながらも、途中こうした
地域の歴史にふれあえるので、本当に
楽しみです。
中に入ると
こんなパネルがあります。
女性の方が、このパネルの前で
久留倍官衙遺跡について話して
くださいりました。
1300年以上も前の、全国でもめずらしい
東向きの役所ということを強調されてい
ました。普通は南向きだそうです。
久留倍官衙とは…飛鳥・奈良時代から
平安時代の前期(7世紀後半〜9世紀末)に
かけて古代朝明(あさけ)郡の役所があった
場所のことだそうです。
官衙とは役所ということです。
この遺跡の移り変わりはI期〜Ill期という
大きく3つの時期に分かれるとのこと。
こちらのキーワードは
「壬申の乱」(672年)と
「聖武天皇の東国行幸」(740年)
学習展示室には
パネルや出土物などの展示がされて
いました。
とてもわかりやすく書かれていました。
私は、「壬申の乱」においては
関ヶ原に行ったときに「不破関資料館」など
も行ったりしていましたが、
大海人皇子がとった行動👇
③の場所にあたるのですね。
どこか遠くに感じていてきたのですが、
全く気がつきませずにいました。
そういえば、ここでも話を聞いたのですが、
壬申の乱でなぜ大海人皇子は
伊賀を通って来たのか?
などと話しになり、私もとても不思議に
思っていました。大友皇子の母は
「伊賀宅子娘」(伊賀の郡司の娘、
采女として天智天皇に後宮に入り大友皇子を
伊賀の軍事の娘で采女として天智天皇の
後宮に入って大友皇子を生んだという)で
伊賀はいわば敵方かと思っているところへ
と思いました。
その点なども、少し話を聞けたので
私は案内の方とかなりの時間を費やすことに
なってしまいました。私としては有意義な時間。
しかし、思いがけずに時間が過ぎてしまって
その後の城めぐりに結構支障がきたして
しまいました。
まぁ、計画があってないものですから。
その後に、実際に役所の跡や長倉のあと、
その後、正倉院(脚付き倉庫)などの復元を
みてきました。
このバイパスは最初下に作るはずでしが、
この様な国の史跡となるような跡がみつかり
10年も発掘調査をして、上を通すことになった
そうです。
私にとっての歴史は一つのことに特化して
研究する専門家ではないのですけれど、
こうして地域を巡って色々と歴史のパズルを
広い集めています。
巨大なピースなので、たまにピースがはまると
私にとってはまた、楽しみが増えるんですね。
また、ゆっくりきたいですね。