同僚の三浦 ゆう子に、相談があるからと行って呼び出されたのは、八月も終わりに近づいた頃だった。





場所は場所は札駅構内のファッションビルの最上階のビュッフェだ。





ディナータイムは混みあって煩いのだし、もう少し静かな場所を指定してくれよ…と思ってしまう。   



しかもゆう子は私より十分遅れてやってきた。





『あっ!すいません!先輩ーお待たせしちゃいましたかねぇ?ごめんなさいっ!』





小走りで窓際の席へやってくると、ゆう子は手を合わせて大げさに謝った。








『いーよ別に十分くらい。それより、お腹すいちゃったわ。なんか頼もう、早く』





『先輩、今日は呼び出しちゃってごめんなさい。ここは私が奢りますからっ』





ゆう子が話すたび、ふわふわにカールされた綺麗な髪が揺れた。



『いーって!あっすみません。注文を…』







ボーイを呼び注文を済ませると、私たちはようやく本題へ入った。      










『で?今日はどうしたの』



『えっ、あーいぇ…まだ言いたくないなぁ…先輩あたしに呆れるもん、きっと』



『ふーん』







ボンゴレビアンゴを口にはこぶと、アサリと潮の香がいっぱいに広がった。ここのパスタはやはり一級品だ。





友達がいない(悲しい)私はあまりこういう店に一人では来られないので、今日は少しゆう子に感謝してもいた。



八階のまどの外は絶景とまでは言えないが、ワシントンホテルはじめ、たくさんのビルやネオンの輝くむこうに、テレビ塔がぽわんと浮き上がって見えて、悪くなかった。







『結婚しようかと思ってるんです、私』







ゆう子が突然、切り出したのでわたしはぽかんとしてしまった。


口に入れかけたパスタの麺がだらんとさがり、間抜け面になった。





『は?けっこん??けっこんて結婚?』







『…はい。』    とんちんかんな私の問いにもまったく動じず、ゆう子は答えた。












『私、ずっと付き合ってる彼がいるんです・・・高校の頃から。


こないだプロポーズされて・・・。』






『ええ?だってこないだまで渉外の皆川くんがいいとかなんとか言ってたばかりじゃない』








『そうなんですけど・・・。脈ないっぽいし。あの人だれか他に好きな人がいるみたい。あたしとは体だけ。』






ゆう子は平然と浮気を告白しておきながらも、そこで本当に悔しそうな顔をしてみせた。






私は少し呆れてしまったが、この娘は私と少し似ていると感じていた。


そして同時に、先日橘課長と見た皆川の姿が思い出された。




皆川は確か、年上の女と歩いていたな・・・








『なんだそうなの。まあ、皆川君はね・・軽そうだし。結婚すればいいじゃない。仕事はどうするの。うちなら


産休育休もちゃんととれるだろーし、結婚しても特に支障なく仕事続けてけると思うけど』






私は言った。ゆう子がもしやめると言い出したら、さびしいかもしれないと思った。






『まだ・・・どうするかは・・・。なんか、仕事してても、毎日同じことの繰り返しで、窓口で人形みたいに


笑って客の相手して、窓口が終わったらお金数えてるだけだし、空しい気がするんです。給料もいいし、


早く帰れるし、周りからしたら


銀行員て準公務員みたいなもんでいいのかもしれないけど、所詮出世していくのはほぼ男だし。


つまんないな・・・早く老けちゃう・・・・・せんぱい、そうおもいませんか?』






『そうかもね。仕事はつまんない。でも、ゆう子ちゃんがそんな事まじめに考えてるとは思わなかった。』






『ひどいなあ~人生考えてますよ!・・・・・・彼氏、・・・すごくいい人なんです。いい人なとこしか


取り柄がないくらい。顔はかっこ悪いですし。ぜんぜん好みじゃないんだけど、・・・なんで付き合ったんだろ、


あの頃。』






ゆう子は少し遠い目をしている。私はゆう子の彼氏を想像してなんだか微笑ましくなってきた。






あぶなっかしい感じのするゆう子にも、しっかりとした後ろ盾的な存在がちゃんといたのだ。








『皆川さん・・・・なにしてるかな。今。誰といるんだろう。』






ゆう子がぽつんとつぶやいた。


私はゆう子を見据えて言った。








『ゆう子ちゃん、気持ちで大事な相手を裏切ったらだめだよ。


いつかきっと、後悔するよ。』






本当は、私のようなどうしようもない女が口にしてはいけないような綺麗な


歯が浮くような台詞がすらりとでた。




『わかってますけど・・・。』






ゆう子は、皆川に恋をしてる。






『くるしくて。』






窓の外は、秋の風が吹き始めていた。














市内の某ホテルのバーラウンジで、皆川は山下聡子を待っていた。


聡子と部長の会議室でのセックスを目撃してから、皆川が聡子と勤務時間外に


会うのは今日で二回目だ。




前回は何もなく、飲みにいっただけだったが、


今日はすでにこのホテルの部屋をキープしてある。






山下さん、来るかな・・・








皆川は緊張で固くなる手を握り締めた。

スタバを出た渚と私は、週明けにもかかわらず賑わっている街中を歩いた。


二人で長い距離…といっても駅までの一キロ弱の道ではあったが、を歩くのは高校生の時以来だ。


高校生の時は、部活帰りに一緒に帰ったりした。


今は、待ち合わせ→タクシーでホテルというコースが殆どだけれど。



『ゆきちゃんていつもあんまり喋らないよね』


『まぁ、そんなに話すこともないじゃない。セフレでそんなお話してんなら恋人やってんじゃない?』


『ホント喋ると可愛くないからやっぱ黙ってなよ』


渚はククッと笑って、デニムのポケットに手を突っ込んだ。


『なっちゃん、今日はありがとう、来てくれて』

私は素直に礼を言った。


『何?聞こえなかった』


『ふざけないでください』

渚を軽く睨む。恋人同士みたいだと思った。


『私を送った後どっかいくの?』


『あー。もうパチ屋閉まったしなー、家に帰るよ』


『家?家なんてあるの?寮か何かのこと?』


渚は高校を出た後、家を出て、すすきので夜の仕事を点々としているので、だいたい仕事場か寮で寝泊りしていると以前に聞いたことがあったのだ。     


『家は家だよ。』


渚が意味深な笑みを浮かべていたので、女ができたんだと解った。



すすきのから徒歩圏内にいる女も又、同業者なんだろう。

『良かったね、家ができて』


『まーね。あっそーいやさ、こないだ会ったユーヤ覚えてる?』


『は?』


『ほらぁー、先週三人で仲良くやったじゃん?あいつがねー、ゆきちゃんと又やりたいって。カラダに惚れたとか言ってたよ?』      


すぐに例のセックスを思い出し、私はかっと熱くなった。


『もうあーゆーのはやらないよ。』



『なんで?ゆきちゃん結構ヨガってたのに』



殴ってやりたくなった。



『いー加減にして!今そんな話しなくたっていいじゃない!無神経!』


私は怒鳴った。

行き交う人たちがいぶかしげにこっちを見ている。



何故そんなにムカついたのか自分でもよくわからない。


渚は驚いた顔でこっちを見ていたが、ごめん、と小さい声で言った。 



私たちは残りの道を無言で歩くことになった。


そしてそのまま駅に着いた。


『ゆきちゃん、気を付けて帰んなよ』


『うん、じゃ…』 



『あっ』



その時、急に渚に手をひっぱられた。

同時に、前から来たB系の格好の集団が通り過ぎていった。


『前みて歩きなよ?』

渚がそう言ったので、              自分がぶつかりそうだったことに気付く。


渚の腕は、その細さからは想像出来ないくらい力強かった。         

そして、その力強さがなんだかとてもくやしかった。

私と橘課長の視線の先に見えた、渉外課の皆川は、かなり酔っているように見えた。



『ゆう子ちゃんじゃない…』

心のなかで呟く。

皆川の隣を歩いていた女は、グレーの半袖のスーツを着ていた。後ろ姿だけだったが、三浦ゆう子ではないのがわかった。



私には少し意外な気がしていた。



そのまま彼らはすすきのの人込みの中へと消えていった。



橘課長が私を振り返った。 

『坂下さん、気になりますか』


『…いえ』


『じゃ、私は帰ります』

橘課長は眼鏡の奥の優しい目を少し伏せ気味に、小さく片手をあげた。
橘課長のそういう仕草は、見事なまでに紳士的だと思った。


課長は誰にでも丁寧に接するが、その反面、何人をも自分に近付けないようにするオーラをもっている。



『お疲れさまでした』


私は頭を下げて課長の背中を見送った。



人込みに取り残されると、なぜかふいに寂しさがこみあげてくる。          


無意識にバッグから携帯を取り出してみると、不在着信が一件ある。



N…、渚だ。      


週末の夜が頭を過った。


週明けの今日は性欲など全く湧かないので、正直彼に電話を掛け直す気など毛頭無かったのに、指が意志に反してリダイヤルの操作を行った。  




『はい・・・・・・あ、ゆきちゃんじゃん。』


3コールで渚が出た。




『うん。・・・・あのー、電話、着歴あったからかけたんだけど』



『ああ・・・。さっき、ゆきちゃんに会いたいなと思って。』




渚の言葉は直接的で私の胸に小さく響いた。素直な言葉だった。



『私は、・・・・』



『うん?』



『わかんないけど、これから誰かに会いたいかもしんない。』



『なんだそれー、誰でもいいのかよ・・・』



渚が笑いながら嘆く声が心地いいと思った。


どんなに体をもてあそばれようと、心がなかろうと、私に向かって会いたいと面と向かって

言うのは、彼だけしかいない。



『今日はセックスなしでいい?・・・こないだので疲れたから。てゆーか今なにしてたの』



『え・・・?普通に遊んでたけど。構わないよ、ぜんぜん』



『じゃあ、私は通りのスタバでまってるから』



『30分でいく』







渚はすぐに来た。チェックの古着風のシャツに、クラッシュデニムで、

まるで大学生みたいだな、と私は思った。


多分近くでスロットでも打っていたのだろう。それでも、

昔は待ち合わせなんてできなかったのに

少しは大人になったもんだと地味に感心する。


スタバはまだまだ学生や外国人のカップルなんかで混んでいて、テーブルには

コーヒーのいい香りが漂い、私たちはすぐにリラックスした。



『ゆきちゃん、なんかあったでしょ。仕事か恋愛か知んないけど』



渚が、キャラメルマキアートを啜る。

昔っから甘党なのだ。




私はエスプレッソが一番好きだ。



『なんもないよ。なんで』



『ゆきちゃんは、セックスした後たいてい1ヶ月くらい俺とは会いたくないはずだもん。

こんなにすぐ会いたがるなんて、よっぽどなんかないと変かなって』



『そうかな・・・そんなことないと思うけど。そっちが私を誘わないからじゃない?

とりあえず抜いたらしばらくいーや、みたいなね』



『ははっ』



渚が笑うと、きれいな茶色の髪がさらさらと額にかかって、私はそれにちょっとみとれていた。



『寂しかったんだ?ゆきちゃんでもそう感じることあるんだね』



渚が不意に言ったので、私は彼を見返す。



『私でも・・・・?』




寂しさなんて、いつも漠然と感じているのに・・・・・



昔、渚と付き合っていたときも、ずっと寂しかった。


今も、ずっとそうなのに、そんなことは誰も知らないんだな、と思った。



自分の言葉で甘えないから、誰も私がどう思っているのかなんてわからないんだ。



昔から、極度の寂しがりのくせに、私は変にそれを隠すくせがある。


それは年齢とともにうまくなった。



寂しさを他人に理解してもらいたいと思うなんて、子供のすることだと思ってるから。



自分を押し付けるみたいで。



でも、渚にはもう何の遠慮も必要ない関係なのだ。


ただの、体だけの・・・・。


私は渚に向かって笑いながら言い放った。




『そーだよ、寂しいからあんたと会ってるの。誰でもいいんだけど。

でなきゃ一ヶ月は会わないし。渚の言うとおりね』



その時の渚の表情は、



彼と再会した夜、私が彼を無視して歩き出した瞬間の、


表情と同じだった。



しまったと思った。



私はうつむいてエスプレッソを一口のみ、向かいの席に座った

渚から視線を外そうとした。






『・・・ゆきちゃん、寂しい時は俺をつかっていいよ』




『えっ・・・』




渚を見た。



『ゆきちゃんが、寂しい時は俺をいつでも呼び出して、ゆきちゃんの好きなようにしたらいいよ』



私は渚を正面から見た。



あまりにも、その言葉は意外で、渚らしくなく、しかも私たちの関係にはとてもそぐわない。



けれど、その時の渚の目は昔と変わらず綺麗で、私をまっすぐに見返していた。



























結局、又…別れられなかった。


聡子は、新人社員が無造作に自分のデスクに置いていった書類に目を落とす。

書類に添付された小さな付箋には、〔チェックしておいてください、よろしくお願いします。〕
と、ある。名前もない、走り書きの文字だった。


聡子は小さくため息を吐いた。


あまりにも誠意が無さ過ぎる。


新人の高田美佐子に任せていた渉外日誌の内容は、かなり簡素なもので、しかも誤字脱字も少し目を通しただけでも沢山見つかった。

愛想の無い、仕事しか能のない彼女に対し、嫌悪感を顕にする者もいる。聡子自身もそうした自覚を持っていたけれど、それを仕事中にされるのは、やはり堪えることだった。         


一人残ったフロアで、ペンを走らせながら、楢館の事を考える。



楢館はいつも聡子に優しい。


十代で両親を亡くし、高校を卒業してすぐに働きに出た聡子は、パートタイマーとして雇ってもらった、あすなろ銀行で、死に物狂いで働いた。
最初は苦しい生活を余儀なくされたが、聡子の働きぶりを見た楢館が、正社員として採用を人事に掛け合ってくれたのだった。


聡子は楢館に感謝していた。

人間不信になりそうなこの社会で、楢館だけが暖かく聡子を支えてくれていたのだった。


年功序列、学歴重視の古い体制が色濃く残るあすなろ銀行のなかでは、高卒の聡子は昇給が遅く、何年勤めていても役職がなかなかつかない。


悔しい思いをすることも多かったが、ここまで辞めることなく居られたのは、彼が居てくれたからかもしれない。         

当時渉外から公報へ転課したばかりの楢館は、仕事を与えてもらえずいつも独りぼっちで居る聡子を気に掛け、営業のノウハウを教え込み、一人前に育て上げてくれた。


聡子にとって、頼りがいのある優しい楢館は、父親のようでもあった。


けれど聡子が少しずつ楢館に惹かれていったのは、当時楢館30歳、聡子は21歳で、年齢的にも父親というほど年が離れていなかったせいかもしれない。



初恋だったのだ。    


苦しい、寂しい初恋だった。           


楢館はあすなろ銀行内でも有名な美人だった子と既に婚約しており、彼女は妊娠もしていた。


聡子の辛い片思いは、楢館が幸せの絶頂にいたその後四年間続くことになる。



《やばっ…もうエースマート閉まっちゃうじゃない…牛乳と卵、胡麻油切れてたはず…》


バタバタと書類をしまい込むと、聡子は室内の冷房をオフに切り替え、換気扇と電気を切ろうとした。




『あのーすんません、俺まだ残ってるんスけど』  
『わっ』



声のした方向を見やると、皆川がまだ書類を広げていて、片肘つきながら聡子を見上げていた。     


皆川のデスクはちょうど聡子のデスクから死角になるので、気が付かなかった。

でもそれにしたって、少しくらい気配に気付いてもよさそうなものだけど、私はそんなにぼんやりしていたのか。


『なんだいたの。ごめんごめん。気付かなかったわ』

『えーひどいっすよー。僕夕方からずっといたのにー』

皆川が書類をパタパタさせながらむくれる。


『あらそう。じゃああと頼んだわよ』



聡子は冷房のスイッチを上げた。

ブォンと音がして、冷房装置が再起動する。


『あーありがとーございます』


『じゃあ』


『あっ山下さん』



今度こそと扉に手を掛けた聡子を         

皆川が呼び止めた。



『何よ』


『あの…』


そのまま、彼が口を嗣ぐんでしまったので、聡子はイライラした。



『何。帰るわよ?』 



『…嫌だ』


『はぁ?』




『嫌だ。帰らないでください。』



何なのよこの子は…



皆川を見ると、こちらに顔は向けておらず、表情も飄々として変わり無い。



聡子は何か言い返してさっさと帰ろうかと思ったが、とっさに言葉が出てこなかった。         


『…』



微妙な沈黙が流れる。


ゆっくりと、皆川が口をひらいた。



『四階の、会議室…』



『えっ…』


どくん、と心臓が鳴った。

聡子は、明らかに動揺していた。

昼間の事…
     

それだけを言って、あとは仕事の続きに取り掛かろうとする皆川を、聡子は凝視する。




『…会議室横の資料室に、調べ物しにいかなきゃなくて、怖いから、御一緒に…なんてー』


皆川はそこで表情を崩し可愛らしくふにゃっと笑った。



なんだ…と、少し胸を撫でおろしながらも、聡子はまだ強ばった表情で聞いた。    

『なんでこんな時間から調べ物なんかすんのよ、明日にすれば』



『すぐに知りたいです』 


『何をよ』



『あー…と今月の公報誌…急に読みたくなっちゃって』


『公報…』




ぞくっと、寒気に近い感覚を覚える。



九月の公報の巻頭インタビューは、楢館だったはずだ。

この子は、何か知っているのか…



皆川はにこっと可愛い顔で笑顔を作った。      

『嘘です、すみません。てか、そろそろ僕も帰ります』  


『皆川くん』


皆川が伏せていた目をあげた。




『お腹すかない』



咄嗟に、この子をこのまま帰してはいけないと聡子は思った。



少し、と言って席を立った皆川の横顔は本当に綺麗だった。


しかし聡子はこの時、この少年のような横顔に対し、得体の知れない恐怖感と嫌悪感の入り交じった感情を打ち消す事が出来ずにいたのだった。


渉外課 皆川一哉は、今見たばかりの衝撃的な光景を反芻しながらも、全力で、


かといって音を立てることもなく、静かに非常階段を走り降りた。






山下さんと、楢館部長が、あんな・・・・・






あーゆう関係だなんて・・・・








ぜんぜん、気づかなかったな、と皆川は思った。










楢館部長はいつもは6階広報室にいることが多い。


彼は確か、先ほどまで自分の出席した会議にも途中顔を出していた。




いままでにも内線くらいは何度も彼は取ったことがあるし、そういえば新人研修の時には講師をやっていた


かな、と何となく思い出した。








それにしても、心臓が、早鐘のように打ってる・・・






それに、体がやばいくらい全身熱い・・・・












楢館部長からの内線を、山下さんに繋いだことがあったかどうか・・・・、皆川一哉は回らない頭で


思い出そうとしたが、そういったことは一切ないし、見たこともないという結論に至る。










つーか、大人って、やっぱ迂闊なことはしないもんなんだろーか・・・。










山下は、普段は自分を含め後輩に対し、そっけなく冷たいようでいて、常に気を配ることを忘れない。




新人の女の子たちからは、うざったいお局と思われている節も無いでもなかったけれど、


彼女は仕事をきちんとするし、皆川自身は先輩として尊敬していた。








そう、ずっと先輩として尊敬してたんだ。






けど・・・・。










先ほどの、山下聡子の表情が、なんどもなんどもフラッシュバックする。










彼女は、女だったんだ。










楢館部長が好きだったんだ・・・。










楢館の表情はよく思い出せない。ただ、ただ脳裏に焼きついて離れないのは


聡子の艶かしい顔と声だけだった。












一時間ほど前、エレベーターを降りた聡子があまりにも急いでいたので、


何か急な仕事が入ったのだろうと思った皆川は、それを手伝おうとして聡子を追いかけた。






そして、聡子が普段滅多に使われない会議室の中に消えたのを見た。












これから、職場で顔をあわせるたび、俺興奮しちゃうかも・・・・・


やべー・・・まじで・・・






皆川が非常階段から二階フロアに抜けて、廊下を駆け抜けようとしたとき、受付の


三浦ゆう子が同僚と連れ立って歩いてくるのにすれ違った。








三浦ゆう子は、皆川が先週の納涼会帰りに持ち帰りした子だが、今の皆川にはそれどころではなかった。










渉外課の仲間がかわいいかわいいと騒いでいたけれど、皆川自身は彼女と一度セックスしてから


というもの、彼女に対してほとんど興味を失っていた。






セックスのときまで可愛い子ぶる奴は苦手だ、と彼は思っている。








作り物のようなゆう子の表情と、声に皆川はすっかりげんなりしていたのだった。








しかしながら、ほとんど会釈だけですれ違った後、彼女の熱い視線を感じると、さすがに


少しは罪悪感を感じる。








でもすぐにそれを打ち消した。






皆川自身は今年24になるが、この年になってするセックスは、たとえ強い


お酒が入っていたとしても、同意の上であり対等だった。


















『おい皆川、悪いけど今日中に報告書とレポートまとめといてくれる?さっきの会議のやつね。


明日そんで町内会の人にもってくからさ』








渉外課長が皆川を呼び止めた。






『あ・・・はーい、やりまーす』








今日は定時に帰れそうも無いな、と時計に目をやると、渉外課の戸を開けた。






バンと大きな音を立てて扉が開くとともに、






『お疲れ、皆川君』






声が・・・・・








山下聡子が、そこに居た。








皆川の心臓が、再び止まりそうになる。








聡子が、エレベーターで先に渉外課に戻ってきていた。






ほどいた長い髪をかき上げながら、聡子はふっと笑った。








『なに、びっくりした顔してんのよ。怒ってないよ。 今日は会議出てくれて悪かったわね』






ストッキングのしわを何気なく直しながら、後はあまり目をあわさずに彼女は言った。       

知ってる。このストッキングの奥が、どうなっているのかを。



てゆーか…、山下さんがどんな声をだすのかを。




聡子の、少し紅潮した頬を見つめながら、皆川は自分でも意外な程に、楢館に対して嫉妬していたのだった。

『聡子のいいところは、何事にも節度をもっていることかな・・・』








楢館がいつかそんなことを言っていた。






聡子はその言葉を思い出す。








それは、褒めている様でも、彼女に対する牽制の様にも思えた。








楢館には家族がある。






本来であれば、楢館は不倫などできるような男ではない。






彼は、見た目よりもずっと小心者で心根の優しい男だからだ。






聡子はそう思っている。








・・・仕掛けたのは私。      








『あっ・・・ッあああッ』






後ろから突き上げられ、声を抑えてあえぎながら聡子は このセックスが


現実なのか非現実なのか、その境目がわからなくなってきている。








『八ッ・・・声だすんじゃない』






『う・・・でも・・・・あっ あっ!』






聡子の挑発に、楢館はすぐにのってきた。 










制服を脱がすことなくストッキングの一部だけを破り、


聡子を膝の上に座らせた楢館は、前戯もなしにいきなり挿入してきた。










楢館は聡子の叫びに近いあえぎ声を唇で塞ぎ、更に口の中に手を突っ込んで声を出せないようにした。


長い指がのど元まで聡子の口腔を侵す。








上と下を両方塞がれ、聡子は体中が楢館で満たされる感覚に陥る。






更に大胆になった楢館が、ブラウスのリボンを解きだしたので、聡子は少しあわてた。






『ちょっと・・そこまでしたら・・誰か来たら・・・・・』










取り繕えなくなってしまう。 




楢館はブラもすぐにはずした。






『ふッ!!あんッ!!!』




急に胸をダイレクトに強く掴まれて、聡子は悶える。










『おとなしくして』






前戯もなかったのに聡子のそこは潤いすぎていて、彼のスーツには飛沫がかかった。












『どうしてそんなに感じるんだ・・・・』








『だって・・・ああアッ アッ!あ・・・すぐいっちゃいそう・・・』










ドアの開け放たれた四階の会議室は、めったに人が来ない場所ではあるし、


少し離れた位置にあるエレベーターが万一開けば音がするのですぐにわかる。










見つかる危険は限りなくゼロに近い場所ではあるが、スリルを味わうには十分だった。






聡子にとっては、楢館が侵すリスクの大きさも、十分だと思えた。












『あ・・・・もう駄目なの・・・駄目なの!あっ・・塞いで・・・アッッ!イ・・クッ・・・ッ!んッ!・・・・・!!』














めちゃくちゃに痙攣する聡子の腰を、楢館の大きな手が強く支えた。








それでも聡子の腰は、その手を嫌がるかのように痙攣し続けていた。




















 そのとき、ドアの向こうに人影があることに、二人はまったく気づいていなかった。








その人物は、目を離すことなく、その一部始終を見ていたのだった。

会議が終わると、聡子は四階に向かった。



第二会議室・・。


聡子の腕時計は三時半を回って四十分を指していた。
会議が長引いたのだ。


ああ・・・とため息をつきながら急いでエレベーターに
飛び乗る。



『山下さん、何階ですか』



聡子がはっとして顔を上げると、ドアのところに立っていたの
は皆川だった。


『・・・お疲れ様。私は四階を』



『四階ですね』


『皆川君会議、どうだった』

『ああ、ビアガーデン行きたくなっちゃいました』

皆川はへらっと笑った。


『なーに言ってんの。』


『山下さん、今日・・・』


『あ、着いた』
ドアが開くのが遅い気がして聡子はもどかしい。

ようやく四階に着くと、皆川の手前できる限りの
平静を装ってエレベーターを降り、そして一目散に
第二会議室へと向かった。


第二会議室のドアは、開いていた。
あたりまえか。十五分遅刻しているのだ。


机、机、椅子、机、パソコン、


そして、いつまでたっても見飽きない、すこし骨張ってる、がっしりした背中。


楢舘が、ドアの方向に背を向けてノートパソコンを開いている



こんなときまで、仕事しなくたって。
聡子は苦笑する。


楢舘が、パソコンを打つ指を止めることなく言った。



『…何か話があるんじゃないのか』



『・・・あるわ。』  

まさか楢舘のほうから言い出してくるとは思っていなかった。

少しどきっとする。

『あなたでも、私の気持ちに興味を持つことがあるの。…変な感じ』


平静をよそおっても、やっぱり声が震える。  まだ、好きだと聡子は強く思った。
でも、次に口にするのは別れの言葉以外にはない。

楢館はまだ背中をこっちに向けたままだ。


『俺は狡いから。当然だと思ってるよ。』

そのままで、楢館は言った。
『聡子の思うようにしたらいい。』


聡子は下唇を強く噛んだ。


楢館の指がキーボードの上を滑らかに動く。おそらくは会議の報告書を作成しているのだろう。


片手間で、別れ話をする奴なんて最低だと、四年前の聡子なら一蹴出来た。



けれど、今はもう、彼についての色々なことを知りすぎてしまった、と聡子は思う。


たとえば、彼がすごく普段自信に満ちた態度を取っていても、本当は子供みたいに誰かのほんの少しの言動に一喜一憂し、大人振って周囲に気を遣って生きていること。

だから今だって格好つけて年上ぶっていたって、本当は聡子の次の言葉が恐くて、こっちを見れないだけなんだと分かっている。


背中を向けるのは狡い人だからではない。
この人は臆病者で、ただやさしいだけの自分をいろんなもので覆い隠して生きている人なだけ。


好きなように?


『じゃあ、ここで、セックスして』


聡子の言葉に、楢館の手がとまり、右手が空を軽く握った。



『ドアを空けたままで。』

聡子はじっと彼の背中を見つめながら言い放った。


試したい。



『俺が…』


ゆっくり、楢館が振りかええる。



『もっと若いときは、こんなに困らせる恋人をもったことは無かったよ…』



『そうでしょうね。』


聡子は、カラダを斜め半分こちらに向け少しうつむいた楢館を見た。

40を過ぎたばかりだが、顎の細いラインと引き締まった躰を持つ彼は、女子社員によくモテる。


聡子はゆっくりと、彼に近付いてみた。



うつむいていた楢館が、ようやく目をあげて聡子をみた。


鋭い眼光が聡子を捉えた。
山下聡子は あすなろ銀行渉外課に勤務している。

聡子はその日、とてもイライラしていた。

前任者が新人に引き継ぎきれなかった仕事が自分に一気に回ってきたせいもあった。



『波川さん、取引先一覧、更新しといて』

『はい』


そして、山下聡子はこの四月に新に入社した社員たちの指導係を命じられていたのだった。



『皆川くん、悪いんだけど午後の会議、私の代理で出てくれない。』


『えっ…会議って、渉外担当者会議っすか』

『違うわよ。地域コミュニテイ活動推進会議。今度大通り公園のビアガーデンに協賛するでしょ。その打ち合せ』

『あー…はい。わかりました』


皆川は山下聡子の後輩だ。


聡子が午後の会議を彼に行かせたのは、自分の会議がダブってしまったせいももちろんあったが、心のどこかでは他に理由があることもわかっていた。



あの人に会いたくないから。


最低だ。


私。



『山下さん、大丈夫?顔色悪いみたいだけど』

同じ渉外課の係長が声をかけてくれた。


『大丈夫ですよ、係長こそ週末の納涼会、かなり飲んでたみたいですが』


『だって渉外課はとりあえず君が宴仕切ってくれるでしょ?俺は安心してつぶれれるわけよね』


『私一人で若い子たち纏められませんよ。』

聡子は苦笑しながら言った。

『あのー…僕、休憩頂きます。午後イチ出るんで』

皆川が控えめに言い、席をたった。


そういえば、この子もあの飲み会、先に消えたな、と聡子はぼんやり思い出す。確か窓口の可愛い子とだ。三浦なんとかって…


いーわね、若いって。


聡子は30を過ぎてから、若い子から自分が、お局様とかいき遅れとか陰口を叩かれているのを知っている。


別に、なんと言われようが関係ないわ。


聡子は被りをふる。

だって、この人生は自分で選んで足を踏み入れたんだから。


内線三番が赤く点滅しはじめた。一番も二番もあいているのに、わざわざ三番をならしてくるのは、あの人だけだ。


聡子は軽い緊張感とともに受話器をあげた。


『はい、渉外課山下』


『四階第二会議室、三時半』


受話器からは抑揚はないがよく通った声。


『かしこまりました。しかし、会議の進行状況にもよりますが』



『それはこちらも同じ…』

電話は切れた。


時計は十二時半をさしている。
聡子はいつもどおり一人で昼を取るため、立ち上がった。


私はさぞ、馬鹿みたいにぽかんとした顔をして立ち尽くしていたのだろう。



課長が私のデスクの横に座って、作業を始めた。


それをただ見ていた。



課長が2冊目の製本を終えた。



『飲むのか手伝うのかどっちかにして下さい。』



課長が私に話し掛けたのでやっと我に返る。

橘課長は笑いを噛み殺しているようだ。

眼鏡の奥の目だけが笑っている。


『あ…びっくりしたので…』


そうだ。久しぶりに誰かの優しさに触れて驚いていたのだ。            


うれしかった。

ぬるくなったカップのコーヒーと、冷たい缶コーヒーを一気に飲み干すと、私も自分のデスクに戻って作業を再開した。




…後は私自分一人でやりますから…

という言葉が喉まで出かかったが私はそれを言わなかった。

私と課長は無言で作業する。

いつもなら、課長が横にいるとビクビクしながら仕事するのに。
 今夜ばかりは心地いい。

『坂下さん、これ、終わったらラーメン食べに行きませんか』


『えっ』


『嫌いですか』

『いえっそんな…でも』

『何』


課長、家に帰らなくて、いいんですか…も。

もちろん言わない。



『行きますっ』



それから、職場から歩いて3分の山岡家に行った。


札幌駅からも近いので、味は普通だけれど私たち社員には行きつけになっている。

九時を回っていて既にお腹はぺこぺこだ。    


『橘課長でもこんなところで一人でラーメンたべたりするんですか?』


『食べますよ。しょっちゅうね…。』

なんとなく課長とラーメン屋は似合わない。


『私もよく一人でラーメン屋とか吉野家行きますけど…』


『三浦さんとかと行けばいいじゃないですか』


三浦…そういえば、ゆうこは今日は早々に仕事を切り上げて帰っていった。


『三浦さんきっと、服に匂いが着くから来ませんよ』
私は笑った。


『…まあ、外見気にする年ですから』

課長がセブンスターに火を付けながら言った。


私もだけど…と突っ込みを入れたい。


空いていたのでラーメンは五分程で運ばれてきた。      
熱い太麺が、スープと絡んで喉に流れ込んでいく。

おいしい。山岡家のラーメンがこんなにおいしく感じられたのは初めてだ。  

『すっごいうまいです』


『いつも食べているんでしょう』


課長が笑った。     

私達はすぐに食べてしまった。


 課長は食べおわった後少しタバコを吸いながら、仕事の話をした。

橘課長はプライベートでもあくまで課長で、私の上司だ。


『坂下さん、仕事の調子はどうですか』


なんて聞いてくる。

今日は橘課長の話が聞きたかったが、大人の男ほど 自分の話はあまりしないものだ。

若くて傲慢だった渚は、付き合っていた頃、自分のことばかり話していて、私が彼の興味の対象になるのは、セックスの時だけだった。           

こんなふうに自分に質問が投げ掛けられるのは、くすぐったくて困る。    




会計を済ませ、店を出ると、私と課長は別方向だった。


『課長、ほんとごちそうさまでした。あと、今日は有難うございます』


『いいえ。気を付けて』


課長はそれだけ言って、さっさと私に背を向けてしまった。

見送っていると、課長は立ち止まって何かを凝視している様だ。



『課長…?』 



近づいて視線の先を見ると、
渉外課の皆川だ。

渉外課の皆川が誰かの肩に手を回して歩いているのが見えた。        


相手は…後ろ姿しかみえないが、ゆう子ではないことが解る。


            
年上の女だった。
結局、八時を回っても私は帰れずに、一階フロアにはもう誰も居なくなっていた。

静まり返るフロアで、一人残業をするのは初めてだった。冊子製本は50部だが、あと20部で終わる。

肩が凝った。

お腹すいたなぁ…それに蒸し熱い。 真夏の夜だ。


私は立ち上がってフロア入り口に設置してある自販機からアイスのエスプレッソコーヒーを買って飲んだ。


『ゴホッゴホッっ…あっつ』


アイスを買ったつもりが何故かホットだった。

器官に入ったコーヒーが苦い。私はむせた。



『…何をしてるんですか、坂下さん』




突然の声に驚いた。


振り向くと、橘課長が立っていた。


『課長、…帰ったんじゃ』


驚いたので更にむせてしまった。今度は止まらなくて本当に苦しい。

『ゴホッゴホゴホッう…』


『大丈夫ですか』


橘課長は決して不用心にわたしの背中をさすったりはしない。
そんなことはわかっている。
その代わり、目の前にアイスコーヒーの缶が差し出される。


『この熱いのに、更にホットなんか飲むからです』 

わかってますけど…。



『ゴホッ…なにか、これから打ち合せでも入ったんですか、課長』


『いいえ何も』



問いながら私は少しずつ気付いていた。


橘課長は私のデスクに残っている山積みの資料に手を伸ばす。


『…あと少しじゃないですか。』



『あっはい…あの、じゃあ課長、』


『ただの忘れ物ですよ。』



『忘れ物…』



課長を見ると、目が合った。眼鏡の奥の目が、悪戯そうに光っている。




『困りものの部下を』



課長の目が優しい。



背中をさすられるよりも

心地のいい安堵感と優しさを 


その時の私は感じていた。