外回りから帰ると、昼頃から降っている雨が次第に強さを増し、風も吹き始めてていた。


もう、こんな日は早く帰りたい。

でも、今日はまだ仕事が終わりそうにない。

体が鉛のように重かった。
フロアには、もう六時を過ぎていたが、まだ何人か残っている。


明日の会議の打ち合わせだろうか。

私は課長に頼まれたコピーに取り掛かった。

冊子を一枚一枚地味にコピーしていると、受付担当の新人の子たち三人が通り掛かる。三人とも髪を明るく染め、規律違反のマニキュアやピアスを悪気なく、つけている子達だった。


私も二年くらい前までは自分に投資し、周りの目なんて気にしないぜ的なファイトもあったなぁと、彼女等を見ていると少し懐かしく、少し切なくなる。

ふと目が合って、彼女等が私に軽く頭を下げた。


『お疲れですー。坂下さん、まだ帰らないんですか!頑張りますねー』

『あー、私はコピーとかやることあるから…』


『えーすげー量!!たいへんですねぇ。あ、なんだったら…あの、手伝いますけど』

『みずほ、今日合コンじゃん…』

横の子がすぐに、手伝うと口にした相川みずほをつっ突いた。

相川はとたんに申し訳なさげな表情になる。    

『いーって。私が頼まれたコピーだし』 

そう言うと、相沢を含めた三人は途端に安堵の表情を浮かべた。 

『そうですか?すみません…じゃああたし達帰りますんで!お疲れさまでしたあ。』


『ん、お疲れさま』 



三人が帰ると、私は黙々とコピーを続けた。後輩よりもおそくまで残ってやっている仕事がコピーというのは、軽い屈辱感がある。


ひたすら作業に没頭していると、色んな考え事をしてしまう。

今まであまり気にしなかったが、後輩にとって私は良い先輩では無いと思う。 
コネ入社の件もどこかしらから漏れているだろうし、仕事も雑用までやらされているし、よく注意はされる。容姿だって、常に黒い髪をひっつめて眼鏡をしているから合コンにも使えない。その上愛想がない。

三浦ゆう子が何故私に懐くのか本当にわからない。 
就職難だった私の卒業年度、この銀行へ入ったのは三人だけだった。  女は私だけで、すぐ一階フロア受付に回されたので、この階には同期の子が一人もいない。

かといって群れるのが好きではない私は決して寂しいと感じたりはしなかった。
ただ、孤独だったことは確かだ。

だから、ゆう子の人懐っこさは嫌いではない、と思う。 

『うぉっ坂下ちゃんがまだ働いてるーう』     
フロアの接客用の仕切りの中から田代室長が現れた。
室長がまだ残業していたのは、エイジングノートの残り香で承知の上だ。

『お疲れさまです。今日はちょっとやることがあるので…まだ稼ぎまーす』


『あららもう七時よ?俺は会議の打ち合せも済んだしもう帰るけど?』 

『裏切り者ですね、室長』
私が言うと、室長はハッハッと笑いながら、

『坂下ちゃん、今度デートしよーね!』

誘ってくる。
私は内心、…これ、セクハラよな? と突っ込みつつ、

『身重の奥様に確認と承認印をとって貰ってからでお願いいたします』

と流した。

室長は、やられたなぁ、と笑いながら帰っていった。

七時半を過ぎると、残りの会議メンバーがぞくぞくと奥の会議室から出てきた。
橘課長もいる。 課長は腕時計を確認すると、私の方には目もくれずに帰っていく。                                  少し、みじめな気持ちがした。
週末はオーガニックのバジルとオリーブオイルを使ったパスタを作ったり、溜まっていた洗濯物をクリーニングに出したりして一人静かに過ごした。


さっぱりした部屋を見渡すと、満足感に浸れる。
結構小さいことが、今の私には幸せに思える。
昔から、私はそんな感じだ。

人間関係を築くのが不得意で、週末は誰とも会わず、一人で過ごすことが多い。

実家も市内のため、たまに母親が訪れては差し入れの煮物なんかを置いていった。

光の差し込む南向きのアパートで一人コーヒーを飲みながらくつろげば、平日の喧騒を全て忘れられる気がした。




週明け、寝呆け眼で出勤した私に、早速ゆう子が近づいてきた。

『せーんぱい☆おはようございますぅ』

『あ、おはよう』

ゆう子の顔色は明るい。どうやら、週末の皆川との一件をご丁寧にも報告して頂けるようだ。


案の定、ゆう子はロッカールームに私をひっぱり込み、開口一番に


『あのー、あたしー、今までで一番感じちゃったかもしれないです!もぉ皆川さん最高なんですよぉ~ッ。とにかく、二人で抜けるまでは大変でしたけどねー。渉外課には山下さんとかもいるし恐いしみたいな』

山下さんは渉外課の32歳独身、頭は切れるが所謂お局様だ。


『そうー。じゃあ、ゆう子ちゃんは皆川さんと付き合うの?』

『それがぁ、特に口説いてきたりとかナイんですよぉ。これって遊びじゃないですよね?』


知るかい、んなこと私に聞くなよと軽く心のなかで毒づきながら、私は制服のブラウスを羽織った。

『照れてるだけなんじゃない?きっと。皆川さんなんて浮いた話もないじゃない』


『まぁそうですけどお、不安かも。おわった後もタバコ吸っててあんまり話しなかったし』

ゆう子は本当に不安そうに眼を伏せた。長い睫毛がかぶさる。
ゆう子ほどの美人を一回寝た後自分のモノにしたいと思わない男がいるのだろうかと思う。


スカートの皺を直しながら、私は 言う。


『ほら、元気出して。朝礼遅れるよ』



週明けは溜まった仕事を片付けるのに追われた。振込業務を処理するのでいっぱいいっぱいになってしまった。午後には外回りで得意先を訪問する予定が入っている。


週明けはいつも憂欝だった。こんなに憂欝なのに、私が働き続ける意味って何なんだろう。

『坂下さん、こないだ頼んでおいた稟議書の校正はあがりましたか。』

私がはっとして目をあげると、橘課長がデスクの前に立ち、私を見下ろしていた。


忘れていた!金曜日に頼まれていた明日予定されている会議の重要案件の資料だった。

『す…すみません、今からすぐに取り掛かります!』
橘課長は少し溜め息をついたようだった。

『いい。あなたは午後は外回りの予定があるでしょう。明日には間に合わない。私がやりますから書類を返して』

『は…はい、すみません…』

背筋がひんやり冷たくなる。


最悪だ。


橘課長に軽蔑されたくなかった、と私は思った。

他の社員は失態を演じた私を遠巻きに見守っているようだった。


橘課長は追い打ちをかけるかのように言葉を重ねた。

『これ、コピーお願い、明日まで、冊子製本で』



分厚い冊子が手渡された。
渚がポケットから注射針のような物を取り出したのでふと我に返った。



『なっちゃん、それ…何』

『うん?…あぁこれ…気持ち良くなるやつ。』


『ちょっと私に…絶対やだっ!』


渚は薄く笑いを浮かべながら私に近づいてくる。
渚はマリファナ以外の薬に手を出していたのか。
裸のカラダが急に寒気を覚えた。

『大丈夫だよ。ただの媚薬みたいなもん。』


『やめてよマジで!私はあんたとは違うの。そーゆーのは絶対嫌なの!』


両手が縛られていて抵抗できない。代わりに足をばたつかせた。

『動くなよ、ゆきちゃんの体もっと気持ち良くさせてあげる…』


渚は甘えるような顔を私に見せたかと思うと、私の足を想像もつかない力で押さえ込み、手首から液体を注射した。


『いや…痛い…』



暫らくすると体が熱くなって、少しの眩暈と疼きを感じた。



『なっちゃん…お願い、見てないでよ…』

渚はベッドに寝そべり、セブンスターに火を付け吸いはじめた。シャツとデニムをまだ身につけたままだ。


『アハハ…ねぇ、ホントいい眺めだよ。俺は、ゆきちゃんを縛っていられれば、ホントはどんな女の子も要らないかもしんない…なんちって。…好きだよ、そのカッコ』



渚の言葉がだんだん聞こえなくなる。

疼きは体中に広がって体の奥から溢れ出てきていた。

『お願い、渚、抱いて…』
気が付くと私は渚が先程まで違う女とセックスしていた事実も忘れてひたすら懇願していた。

我慢できない。


『ア…や…機械なんて…』
渚がバイブを取り出したかと思うと、私の足を思い切り開かせていきなり挿入した。私は抵抗できない。


グチュッ!!グチュッ!!!

『あッ!アッ!アンッ!アアッ』

『すッごい濡れ方』
渚が馬鹿にするように笑う。

バイブを出し入れされると私は釣り下げられたままの格好で自ら足を開き、腰をがくがく揺らした。

どうなってもいいと云うのはこんな感覚なのか…。


グチュッ!ニチュ!グチュグチュ!!
バイブ振動がさらに強くなる。


『アンッ!アンッ…やーッ!!きもちよくなる…ヤバイって…ヤバイ、アンッ!アッ!ハアッ…』           
ズッ!ズッ!グチャッ!ニュチャ!!

足を大きく開いたとき、快感が最高潮へとちかづいた。


狂ったようにイッてしまいそうだ。


グチュグチュッ!

『ほら、またイキなよ。バイブもっといっぱいぶっ挿してやっから』


『アーッ渚ッ!!イイ!んあんッ動かして!もっと!イッちゃうよ、イクよぉッ!!アーッ渚……え…?』


いつのまにか、部屋のなかにもう一人男がいる。



そいつにむかって、渚はにこっと笑って言った。

『前の方は俺がいじめてるから、後ろの方お願い、ユーヤ』

グチャッ!!!

『あああッ!』


『あの…いいんですか?』
『いーんですかぁ??ハハッおまえ、そんだけ勃ってて処理しないで帰る気なの?…早く挿れなよ、バックの方から』         

グチュッ!
バイブをすばやく動かしながら渚がその男に支持していた。男はあわててズボンのベルトをカチャカチャ外す。

私の思考回路は正常ではなかったが、見知らぬ若い男に犯されるかも知れない恐怖から、

『ふざけないで!何すんのよ…嫌だってば!!』

ようやく声を振り絞って叫んだ。

グチャッ!!!グチュッ!!!

『ゆきちゃん、全裸でバイブ挿したまんまで抵抗しても説得力ナイよ。それに、後ろも好きってしってるよ?昔やったよね』


男が私の後ろに回ると、腰を大きな手でがっしり掴んだ。

『嫌アッ止めてよッ!!入れないで』


『いれますよ…でも、なんかバイブと二本刺しなんてしちゃったら壊れちゃいそうじゃないですか』

『大丈夫だよ。ユーヤのが入ったら、もっと気持ち良くなるよーにしてあるから』

『やだッ!二本なんて入んないよぉっ!!無理!!』
私は泣きそうになった。

ズニュッ!ニュチャッ!!!

渚に突っ込まれたバイブが刺さったままの状態で、精一杯足をバタつかせる。


グッグッと、背後の男が挿入を開始した。


『アーーーッ!ンウッ!!!アッく…ヤーーッ!無理!やめ…ンアッ』

『はあっ…やべ、すぐ出そう…工藤さん、マジきもちーんですけど…動いていーっすか?』

『待って、うん…』
渚は私を見上げた。


『クイズでーす。前後から思いっきり突きまくったら、ゆきちゃんはどうなるの?』


『知ら…ないよ…』
途切れ途切れに言葉を紡いだ。


『ほらっ動かすよ!!』


二人が、私の中をめちゃくちゃにかき回しはじめる。
ズブッ!

グッチャグッチュ!!


『アアーッ!!!ンッ!ンッ!ンッ!!あはァッ!きつ…アンッ』

すぐに快感は戻ってくる。

『やぁあッ!アン!ンーッ!ヤッ!イキそ…アンッ!!ンンッ!』

二人はスピードをあげて私を落としにかかる。

『あ…イッ…イクッ!!!』



『ゆきちゃん、最高に無様だよ』


二度目の絶頂を迎え、ものすごい痙攣とともに私はようやく自分のすべてを解放した気がした。
ホテルの一室に滑り込むように入った私と渚は、服も脱がず、立ったままで性急にお互いの舌を求め合った。



『…んっ…うッ…』 
渚の舌使いは巧みで、私の中の官能はすぐに反応し始めていた。 

『ゆきちゃんの感じてる声可愛いね。もっと聞かせなよ。』

『はあっ…渚、ベッドに…』

『やだよ。行けるもんならいけばいい』

セックスの時の渚は完全に私よりも優位に立つ。

渚の舌は私の歯列を離れると今度はそのまま耳の後ろからうなじへと移った。私の頭全体をかき抱く格好になる。渚は昔から背が高かった。         
耳の後ろからうなじにかけては私の性感スポットだった。



『ああぁッ…ヤだッ…アッ』


『嫌だとかよく言えるね。ゆきちゃんは俺のことが好きなんだよ。指も…』

ストッキングと下着をかき分けるようにして渚の指が侵入する。

もちろん抵抗など無駄なことだ。

グチュッ!!

『あああッ!うンッ…なぎさ…』

渚の指が二本私のなかに入ってくる。

グチュグチュグチュッ!

『やぁッ待っ…だめッ早すぎ…』          


渚の指はどんどん速度を早めて私の中をぐちゃぐちゃにかき回した。
濡れすぎていたから、その乱暴さが却って快感を呼んだ。


グチュグチュッ!!!



グチュグチュッ!!



『ッあーッだ…ダメッもうイキそぅ…やっん…やめて!!やめて!!!』  

『…はぁ?何言ってるの…もし今イッたら、ゆきちゃんのカラダに俺ひどいことするつもりだけどいいの?』

『止めて!』
 
グチュ!!グチュ!!

『ヤダ…アッ!はアッ!…嫌いイッ!アッ!やめて!ああっ』



渚の指は更にスピードを早めた。私は陥落した。
最高に気持ち良い痙攣が襲ってくる。



『…アンッあーーーッ!!ヤッ止め…や…ンッッ!!ダメ…イ…イッ…!クーーー!ああああああああアッ!!!!』  

飛沫が上がった。


私のカラダが ガクガク痙攣しながら崩れて落ちていく。渚の二本の指は次第にスピードを緩めながら、尚も私の中で蠢いている。


『…馬鹿女だね』


屈辱的な言葉も、今の私達にはただのスパイスでしかない。
床に崩れ落ちて軽く気を失っている私を渚は軽がると抱え上げて、ベッドへと乱暴に投げた。



『ゆきちゃん今日は俺は挿入しないから』


そんなことを言いながら渚は壁にある衣紋掛け用のフックに二ヶ所、ロープを引っ掛けて結んでいく。

渚は無表情で、私は何となく不安になってきた。

『はぁ…何する気よ?』


『ん?や、ゆきちゃんを悦ばせてあげたいだけ。』


『アッ!やだよ…』


渚はベッドの上でぐったりしていた私の衣類をはがしにかかった。


『静かにしろ…』


渚の目が据わっていたので私は更に若干の恐怖を感じ、同時にそれを楽しんでいる自分が居ることも自覚していた。        

ロープくらいなら、経験もあるし大丈夫だ。



私は彼の為すがまま、全裸で壁に括り付けられたのだった。


ロープくらいなら、経験もあるし大丈夫だ。

渚が薄く笑いを口の端に浮かべたのを、私は見ることができない。


時計が深夜零時を回った。
マリファナとアルコールを同時に摂取すると感覚器官が冴えるからバッティングセンターに行きたくなるんだ。



十代の頃、渚がよく言っていた。彼は私の初めての男だった。


同じ高校で、野球部のエースだった『工藤くん』と、マネージャーをしていた私。

三年になり、最後の地区大会後の打ち上げでメンバーの一人の部屋でみんなで飲んだ後、野球部のキャプテンにレイプされそうになった私を助けてくれたのが工藤 渚だ。


渚は暗闇でキャプテンを殴り気絶させた後、その横で笑いながら私を抱いた。


終わった後少し出血したのを見て、決まり悪そうに ごめんと呟いた。



私は嬉しいと思っていたので、逆に謝られて変な気持ちになったのを覚えている。


その後彼とは、色々合ったが半年ほど付き合って別れた。卒業と同時に彼からの連絡が途絶えたのだ。


私もあまり男に執着するタイプでは無いので、あぁ、工藤くんはもう私が要らないんだ…気持ちが離れたんだなぁ…と冷静に分析し、自ら折り合いをつけた。 

卒業後私は道外の短大に進学したので、彼との距離はすっかり遠くなり、風の便りすら届かず、記憶はさらに忘却の彼方へと追いやられていった。


だから、去年の12月、すすきのでの会社の忘年会の後、ホストクラブのキャッチをやっていた彼と目が合っても、私は最初、本当に渚とはわからなかったのだ。


第一、高校の頃の渚は坊主だったのだから。


酒の入った同僚と談笑しながらすすきのの歓楽街を歩いていた私は、グレーのスーツ姿の渚から声を掛けられたが無視した。


渚はその時、本当に悲しそうな顔をしたのだ。

それでやっと気付いた。思い出した。だけど私はどうしても、いかにもなスーツに、金髪に近くブリーチした男が 昔の男であることを同僚に悟られたくないと思った。


『あの時のゆきちゃんの横顔、死ぬほど冷酷だったなー』


今でも渚はベッドの中でそんなことを言う。捨てられた気がした、と。

何を言うか、もともと捨てたのはお前だろ、と反論の一つもしたいところだが、確かにあの時の私は、冷たい目で渚をやり過ごしたに違いない。     

あの時、自己嫌悪があったのだ。だから、正月明けそうそうに私は彼の働く店に行った。

そうやって、新しい関係が始まった。       

私と渚はもはやお互いに恋愛対象ではない。

渚は確かにとても格好良いし仕草もスマートだけれど、時折見え隠れする対人間への割り切りと虚無感とが、深く付き合うことで顕になるのは、昼間仕事で疲れ切る私にとって何れは我慢できなくなることが明白だった。       


ただ、短時間のセックスをするのだけが、私たちの利害の一致するところなのだ。           
渚のからだは私の栄養剤だ。

『今日は挿入無しで私だけをイかせて』 


『あ、そう。綺麗好きだもんねゆきちゃんは。機械はありね』

『ありだよ』


地下鉄南郷七丁目駅を降りて、南にまっすぐ。そして、二つ目の自販機を曲がる。閑静な住宅街を少し行くと、何件かのパチンコ店や吉野家等の店が並び通りがぱっと明るくなってくるのだが、少し注意して歩けば、その手前の薄暗い曲がり角に、本当に控えめなまでの SunBranch Bar という看板がぽつんと寂しげに置いてあるのに気が付くだろう。


サンブランチバーは、その看板のかかっている建物の階段を下りたところ、つまりは地下にある。


この建物自体はかつては楽器屋だったらしいが、今では廃墟と化している。

私はその階段を手摺りにつかまりながら降りていった。           地下の扉を開くと、どうやらイベントが開催されているようで、ステージでジャズバンドの生演奏が行われていた。        

20人前後だろうか、狭い店内には人が溢れていた。


『ゆきちゃん!来てくれてたの。ひさしぶり』

バーテンのミキヤがすぐに水割りを出してくれた。

『ゆきちゃんが随分顔出してくんないからさあ、ボトル俺が飲んじゃおうかと思ったんだよ』


『ごめんね、最近仕事忙しくって…つーか、あいつきてるんでしょ』  

私は探りを入れる。


ミキヤは黙ってトイレを見やり、
『吐いてるかキメてるかどっちかだなぁ』とつぶやいた。


私はグラスをカウンターに置くと、人をかき分ける様にして店の奥のトイレへと向かった。




私がノブに手をかけようとした瞬間、扉がバンッと開いた。 


エタニティの強い香が一気に押し寄せてくる。
トイレから出てきたのは

痛んだ茶色い髪の男の子…、そして一緒に出てきた金髪の女の子の肩に腕をまわしている。


男の子の方と目が合った。

『…ゆきちゃん、来てたの』


『久しぶりだね、なっちゃん』



工藤渚は、女の子の肩にまわしていた腕をそっとほどくと、向こうで飲んでて、と促した。 

女の子は不機嫌そうに私をと渚を睨んだ後、離れていく。 



『ゆきちゃんの声が聞きたくなっちゃって、何度もかけちゃった』


『顔が見たくて?』私は彼に問う。

『そーだよ』


『トイレでヤリたくて?』


『そーだよ。遅かったじゃない』         私の皮肉は、彼には通用しない。         

『ゆきちゃん、世界で一番愛してるよ』      

渚は、私の耳元で更に囁く。


私は何も言わなかった。今日は金曜日だ。
ただ、渚のリップサービスを受け入れ、甘やかされたセックスがしたいだけだった。



私にとって、彼はそのためだけの存在だった。
田代室長の一本締めも終わって、皆でぞろぞろと外に出た。


夏の風が、なま暖かく私の体をつつむ。室長のしつこい誘いを断るのは大変だったが、どうやら私は無事二次会からは逃れられたようだ。

ヨカッタ…小さくため息をついた途端、ゆう子がこちらにかけてくるのが見えた。

『坂下せんぱい!!なんでずっとあっちの席にいたんですかぁ~?あたし達の卓は結構盛り上がってるのに、せんぱいすんごーぃ、つまんなそうにしてたでしょ?』

『あぁ…私態度に出てた?やっちゃったなぁ』

確かに先程の私の態度は少しばかりふてぶてしいものだったかもな、とぼんやり思う。

まぁ、済んだことだし、仕方がない。

『でね、あたしー、これから皆川さん達、渉外課男性メンバーと二次会でポテトサーカスに行こうと思うんですけど、せんぱいも、どぉですかぁ?』

皆川達は既に歩きだし、何気にゆう子が追い付くのを待っているようだ。こちらを気にしている。

『てか、庶務課メンバーの二次会行かないでそっち行ったのばれないようにね。私は二次会はパス。ごめん』

『ショム課も窓口のコはみんな渉外課の方に出るって言ってるんで。そっかぁせんぱいは彼氏とデートかぁ。いいなあー』

『彼氏なんていないよ。今日は疲れたからね。ほら、皆川くんたち待ってるみたいじゃん、早くいきなよ』
『坂下せんぱいにー、かれぴがいないのなんて、もぉーったいないよー!!』


私は彼女の肩をからかうように押す。ゆう子は酒が入ってほんのりピンク色に上気した頬をほころばせながら ケタケタと笑った。
そしてふっと小悪魔的な笑みを浮かべると私の耳元で囁くように言った。

『あたし、今日絶対彼と寝ます。誓ってもいいですよ!』


私はそう、頑張ってねとだけ言って、笑って去っていく彼女を見送った。    



彼女の勢いにはいつも少し圧倒されてしまう。とても一つ違いとは思えなかった。
それとも私が年の割に落ち着きすぎているのだろうか…。否、私は昔から、はしゃいだり、人の輪のなかに居ることを苦痛に感じる質だったのだ…


すすきのを抜けて、地下鉄までの道を急ぐ。

あちこちでビアガーデンが開催され、道には浴衣姿の女性もちらほら見える。
札幌の、切ないくらい短い短い夏を皆 精一杯味わいたいのだ。



ふと、せかすように、携帯電話が唸る。
人込みを抜けた路地で、私は携帯を開いて着信履歴を確かめた。


不在着信 N

不在着信 N

不在着信 N


            私は 電話を掛けなおすこともせず、携帯電話をバッグに放り込むと、再び歩きだした。

行き先は決まっていた。

7月28日金曜日、給料日後の週末の大通りは やっぱり凄い渋滞となった。




私は車を置きに一度自宅に戻ってことが災いして案の定ラッシュに巻き込まれ、会場についたのは夜七時近かった。




遅刻だ。



『すみません!遅刻しちゃいました!』
私があわてて宴会場に駆け込んだ頃には既に乾杯やお偉い方の挨拶なんかも済んだ後だった。




既に場は盛り上がりを見せている。




『おー遅いよぉ坂下ちゃん、とりあえずここ座んなよ。』既に赤ら顔になった田代室長が私を呼ぶ。



『あっ…、はいーじゃ、失礼します』

私は内心舌打ちしながら田代室長の隣に座った。遅刻した自分を呪う。
田代室長の頭皮からくるエイジングノートは殺人レベルなのだ。
同僚の女の子達の席は遠い。テーブル二つを挟んで、後輩の三浦ゆう子の嬌声が聞こえてくる。

『ちょっと信じられなくないですかぁ?こーゆーひとが女の子泣かせるんですよぉー』





ゆう子は狙い通り、渉外課の皆川の隣を同期の女の子達と陣取り、上目使いで皆川に絡んでいる。皆川はゆう子が絶賛していただけあり
、キレイな顔をした男だ。


『三浦さんにだけは言われたくないんだけど?』




『やだぁ!なにそれ!』
甘い目元と、きれいな肌、薄めの唇、人懐っこい顔だった。ゆう子に迫られて、まんざらでもなさそうな表情に見える。
ゆう子はきっと今晩彼を落とすのだろう。正直、アイドルタレントの様な容姿のゆう子に迫られたら、大体の男は落ちるような気がする。



私はそっと目を逸らすと、黒ラベルをぐっと流し込んだ。

『ねーねー坂下ちゃん、二次会とかどーする?』



『あー、私は帰ります。申し訳ない。』


『えっなんでさー、行こうよぉ』



『や、あたし今日から実家なんで。』


室長がしつこく誘ってくるのを私はやんわり断った。
『坂下ちゃんてさぁ、ホント俺に冷たいよねぇー』

私が苦笑いをしていると、田代室長のグラスにビールが注がれた。



『おっ橘くん、すまんねぇ』


『室長、締めはお願いします』


橘課長がこうした宴会に参加するのは珍しい。   結構飲まされているのだろうが、涼しい顔をしてる。


『橘くん、ほら、うーん、あのキレイな、嫁さんは、元気、かい?』




室長は呂律が廻らなくなってきているようだ。       



『はい、元気ですが』



『うん?』 



『室長のお宅は先日奥様がご懐妊されたそうで。おめでとうございます。』


『うへぇーなんだよぉ情報早いなぁ。てか会社の飲みで家庭のこと思い出させないでよぉ』                   橘課長は目を細めながら室長のグラスにさらにビールを注いでいく。私はその様子をぼんやり見つめながら、 


橘課長の笑った顔って初めてみたかも、と思った。 考えてみると、私はいつも注意を受けてばかりだった。

次第にアルコールに支配され、ぼんやりしていく頭の中で、不意に私はジャケットの胸に入れた携帯電話のバイブ音を聞いた。



誰だか、わかっている。
三コールくらいの短さで切れるバイブ音。

そろそろ宴もたけなわだ。私の週末がようやく始まろうとしていた。

『坂下さん、この稟議書校正しといてくれますか。』


よく聞き取れなくて、私は眉間に皺をよせ、いらいらしながら顔をあげた。

途端、心臓がぎゅっととまりそうに鳴った。


『あ、橘課長…すいません…校正ですか?』



『うん、手空いたときでいいから』


橘課長は私に用件だけ伝えるとさっとデスクへ戻っていった。
…危なかった。     仕事にまったく集中していなかった事がばれたら、又課長を怒らせていたかもしれない。
といっても、課長は周りに怒鳴り散らすようなあからさまな怒り方はしない。


ただ、仕事を任せてくれなくなるのだ。あからさまな叱責よりも却って精神的ダメージを受けてしまう。 



『せんぱい、今やばかったでしょー?』隣のデスクの三浦ゆう子が声を掛けてくる。ゆう子は私の一年後輩で、去年この銀行に入職してきた。二年目でなぜか私が面倒をみるはめになっている。

『大丈夫ですが何か?』

私は三年目だけれど、決して仕事はできるほうでは無い。大体、仕事に対してそれほどウェートは置いていないし、そもそも私は元大手証券会社の重役をしていた父のコネで、このあすなろ銀行に入ったのだ。  
短大時代、派手に遊んでいた生活を思うと、このお固い職場は私の性に会っていない気がする。     
だけれども、栗色のカールヘアを揺らし、社則で禁じられているマニキュアを塗った指で電卓を打っているゆう子は、一見私以上にこの職場に馴染んでいないように見えて、 実は私より遥かに仕事ができる子だった。


だから私も窓口のルーティンワークを一通り教えたら、もう彼女に指導することは特に無くなってしまったのだ。


『ねえねえせんぱい、今日の納涼会行きますよね?なんと、渉外課の皆川さんも出席らしーですよぉ』              『ふーん。



『はあ。ゆう子ちゃん達前から騒いでたもんねー。』


『そおぉなんですよっ!かっこいーですよねぇ。岡田准一とウエンツを足して2で割った顔ってゆーかぁ?』


ゆう子の声は甘ったるく纏わりついてくる。それじゃあただの甘め顔の足し算じゃねーか、と突っ込みたくなったがやめた。

私は時計を確認した。四時半。大体定時にあがれるのだけが、うちの職場のいいところだ。


『納涼会、六時半にのみ八だったよね。あたしも行くよ、一応ね。』


『坂下せんぱい来たら、田代室長が鼻のした伸ばしちゃいますねっ』 はしゃぐゆう子を横目で見ながら、私は五時にもならないのにデスクの整理を始めた。

今年の七月末は、この札幌でも異常な熱さを記録していた。銀行のフロア内はものすごく強いエアコンで常に20度程度の室温に保たれており、私は気温の落差についていけず夏ばてしていたけれど、重役も多数出席する今夜の飲み会に出席しないわけには行かなかったのだ。



あー、だるい。
はやく家帰って寝たいわぁ。           
心のなかで本音を呟いた…。