『坂下さん、この稟議書校正しといてくれますか。』


よく聞き取れなくて、私は眉間に皺をよせ、いらいらしながら顔をあげた。

途端、心臓がぎゅっととまりそうに鳴った。


『あ、橘課長…すいません…校正ですか?』



『うん、手空いたときでいいから』


橘課長は私に用件だけ伝えるとさっとデスクへ戻っていった。
…危なかった。     仕事にまったく集中していなかった事がばれたら、又課長を怒らせていたかもしれない。
といっても、課長は周りに怒鳴り散らすようなあからさまな怒り方はしない。


ただ、仕事を任せてくれなくなるのだ。あからさまな叱責よりも却って精神的ダメージを受けてしまう。 



『せんぱい、今やばかったでしょー?』隣のデスクの三浦ゆう子が声を掛けてくる。ゆう子は私の一年後輩で、去年この銀行に入職してきた。二年目でなぜか私が面倒をみるはめになっている。

『大丈夫ですが何か?』

私は三年目だけれど、決して仕事はできるほうでは無い。大体、仕事に対してそれほどウェートは置いていないし、そもそも私は元大手証券会社の重役をしていた父のコネで、このあすなろ銀行に入ったのだ。  
短大時代、派手に遊んでいた生活を思うと、このお固い職場は私の性に会っていない気がする。     
だけれども、栗色のカールヘアを揺らし、社則で禁じられているマニキュアを塗った指で電卓を打っているゆう子は、一見私以上にこの職場に馴染んでいないように見えて、 実は私より遥かに仕事ができる子だった。


だから私も窓口のルーティンワークを一通り教えたら、もう彼女に指導することは特に無くなってしまったのだ。


『ねえねえせんぱい、今日の納涼会行きますよね?なんと、渉外課の皆川さんも出席らしーですよぉ』              『ふーん。



『はあ。ゆう子ちゃん達前から騒いでたもんねー。』


『そおぉなんですよっ!かっこいーですよねぇ。岡田准一とウエンツを足して2で割った顔ってゆーかぁ?』


ゆう子の声は甘ったるく纏わりついてくる。それじゃあただの甘め顔の足し算じゃねーか、と突っ込みたくなったがやめた。

私は時計を確認した。四時半。大体定時にあがれるのだけが、うちの職場のいいところだ。


『納涼会、六時半にのみ八だったよね。あたしも行くよ、一応ね。』


『坂下せんぱい来たら、田代室長が鼻のした伸ばしちゃいますねっ』 はしゃぐゆう子を横目で見ながら、私は五時にもならないのにデスクの整理を始めた。

今年の七月末は、この札幌でも異常な熱さを記録していた。銀行のフロア内はものすごく強いエアコンで常に20度程度の室温に保たれており、私は気温の落差についていけず夏ばてしていたけれど、重役も多数出席する今夜の飲み会に出席しないわけには行かなかったのだ。



あー、だるい。
はやく家帰って寝たいわぁ。           
心のなかで本音を呟いた…。