結局、又…別れられなかった。
聡子は、新人社員が無造作に自分のデスクに置いていった書類に目を落とす。
書類に添付された小さな付箋には、〔チェックしておいてください、よろしくお願いします。〕
と、ある。名前もない、走り書きの文字だった。
聡子は小さくため息を吐いた。
あまりにも誠意が無さ過ぎる。
新人の高田美佐子に任せていた渉外日誌の内容は、かなり簡素なもので、しかも誤字脱字も少し目を通しただけでも沢山見つかった。
愛想の無い、仕事しか能のない彼女に対し、嫌悪感を顕にする者もいる。聡子自身もそうした自覚を持っていたけれど、それを仕事中にされるのは、やはり堪えることだった。
一人残ったフロアで、ペンを走らせながら、楢館の事を考える。
楢館はいつも聡子に優しい。
十代で両親を亡くし、高校を卒業してすぐに働きに出た聡子は、パートタイマーとして雇ってもらった、あすなろ銀行で、死に物狂いで働いた。
最初は苦しい生活を余儀なくされたが、聡子の働きぶりを見た楢館が、正社員として採用を人事に掛け合ってくれたのだった。
聡子は楢館に感謝していた。
人間不信になりそうなこの社会で、楢館だけが暖かく聡子を支えてくれていたのだった。
年功序列、学歴重視の古い体制が色濃く残るあすなろ銀行のなかでは、高卒の聡子は昇給が遅く、何年勤めていても役職がなかなかつかない。
悔しい思いをすることも多かったが、ここまで辞めることなく居られたのは、彼が居てくれたからかもしれない。
当時渉外から公報へ転課したばかりの楢館は、仕事を与えてもらえずいつも独りぼっちで居る聡子を気に掛け、営業のノウハウを教え込み、一人前に育て上げてくれた。
聡子にとって、頼りがいのある優しい楢館は、父親のようでもあった。
けれど聡子が少しずつ楢館に惹かれていったのは、当時楢館30歳、聡子は21歳で、年齢的にも父親というほど年が離れていなかったせいかもしれない。
初恋だったのだ。
苦しい、寂しい初恋だった。
楢館はあすなろ銀行内でも有名な美人だった子と既に婚約しており、彼女は妊娠もしていた。
聡子の辛い片思いは、楢館が幸せの絶頂にいたその後四年間続くことになる。
《やばっ…もうエースマート閉まっちゃうじゃない…牛乳と卵、胡麻油切れてたはず…》
バタバタと書類をしまい込むと、聡子は室内の冷房をオフに切り替え、換気扇と電気を切ろうとした。
『あのーすんません、俺まだ残ってるんスけど』
『わっ』
声のした方向を見やると、皆川がまだ書類を広げていて、片肘つきながら聡子を見上げていた。
皆川のデスクはちょうど聡子のデスクから死角になるので、気が付かなかった。
でもそれにしたって、少しくらい気配に気付いてもよさそうなものだけど、私はそんなにぼんやりしていたのか。
『なんだいたの。ごめんごめん。気付かなかったわ』
『えーひどいっすよー。僕夕方からずっといたのにー』
皆川が書類をパタパタさせながらむくれる。
『あらそう。じゃああと頼んだわよ』
聡子は冷房のスイッチを上げた。
ブォンと音がして、冷房装置が再起動する。
『あーありがとーございます』
『じゃあ』
『あっ山下さん』
今度こそと扉に手を掛けた聡子を
皆川が呼び止めた。
『何よ』
『あの…』
そのまま、彼が口を嗣ぐんでしまったので、聡子はイライラした。
『何。帰るわよ?』
『…嫌だ』
『はぁ?』
『嫌だ。帰らないでください。』
何なのよこの子は…
皆川を見ると、こちらに顔は向けておらず、表情も飄々として変わり無い。
聡子は何か言い返してさっさと帰ろうかと思ったが、とっさに言葉が出てこなかった。
『…』
微妙な沈黙が流れる。
ゆっくりと、皆川が口をひらいた。
『四階の、会議室…』
『えっ…』
どくん、と心臓が鳴った。
聡子は、明らかに動揺していた。
昼間の事…
それだけを言って、あとは仕事の続きに取り掛かろうとする皆川を、聡子は凝視する。
『…会議室横の資料室に、調べ物しにいかなきゃなくて、怖いから、御一緒に…なんてー』
皆川はそこで表情を崩し可愛らしくふにゃっと笑った。
なんだ…と、少し胸を撫でおろしながらも、聡子はまだ強ばった表情で聞いた。
『なんでこんな時間から調べ物なんかすんのよ、明日にすれば』
『すぐに知りたいです』
『何をよ』
『あー…と今月の公報誌…急に読みたくなっちゃって』
『公報…』
ぞくっと、寒気に近い感覚を覚える。
九月の公報の巻頭インタビューは、楢館だったはずだ。
この子は、何か知っているのか…
皆川はにこっと可愛い顔で笑顔を作った。
『嘘です、すみません。てか、そろそろ僕も帰ります』
『皆川くん』
皆川が伏せていた目をあげた。
『お腹すかない』
咄嗟に、この子をこのまま帰してはいけないと聡子は思った。
少し、と言って席を立った皆川の横顔は本当に綺麗だった。
しかし聡子はこの時、この少年のような横顔に対し、得体の知れない恐怖感と嫌悪感の入り交じった感情を打ち消す事が出来ずにいたのだった。
聡子は、新人社員が無造作に自分のデスクに置いていった書類に目を落とす。
書類に添付された小さな付箋には、〔チェックしておいてください、よろしくお願いします。〕
と、ある。名前もない、走り書きの文字だった。
聡子は小さくため息を吐いた。
あまりにも誠意が無さ過ぎる。
新人の高田美佐子に任せていた渉外日誌の内容は、かなり簡素なもので、しかも誤字脱字も少し目を通しただけでも沢山見つかった。
愛想の無い、仕事しか能のない彼女に対し、嫌悪感を顕にする者もいる。聡子自身もそうした自覚を持っていたけれど、それを仕事中にされるのは、やはり堪えることだった。
一人残ったフロアで、ペンを走らせながら、楢館の事を考える。
楢館はいつも聡子に優しい。
十代で両親を亡くし、高校を卒業してすぐに働きに出た聡子は、パートタイマーとして雇ってもらった、あすなろ銀行で、死に物狂いで働いた。
最初は苦しい生活を余儀なくされたが、聡子の働きぶりを見た楢館が、正社員として採用を人事に掛け合ってくれたのだった。
聡子は楢館に感謝していた。
人間不信になりそうなこの社会で、楢館だけが暖かく聡子を支えてくれていたのだった。
年功序列、学歴重視の古い体制が色濃く残るあすなろ銀行のなかでは、高卒の聡子は昇給が遅く、何年勤めていても役職がなかなかつかない。
悔しい思いをすることも多かったが、ここまで辞めることなく居られたのは、彼が居てくれたからかもしれない。
当時渉外から公報へ転課したばかりの楢館は、仕事を与えてもらえずいつも独りぼっちで居る聡子を気に掛け、営業のノウハウを教え込み、一人前に育て上げてくれた。
聡子にとって、頼りがいのある優しい楢館は、父親のようでもあった。
けれど聡子が少しずつ楢館に惹かれていったのは、当時楢館30歳、聡子は21歳で、年齢的にも父親というほど年が離れていなかったせいかもしれない。
初恋だったのだ。
苦しい、寂しい初恋だった。
楢館はあすなろ銀行内でも有名な美人だった子と既に婚約しており、彼女は妊娠もしていた。
聡子の辛い片思いは、楢館が幸せの絶頂にいたその後四年間続くことになる。
《やばっ…もうエースマート閉まっちゃうじゃない…牛乳と卵、胡麻油切れてたはず…》
バタバタと書類をしまい込むと、聡子は室内の冷房をオフに切り替え、換気扇と電気を切ろうとした。
『あのーすんません、俺まだ残ってるんスけど』
『わっ』
声のした方向を見やると、皆川がまだ書類を広げていて、片肘つきながら聡子を見上げていた。
皆川のデスクはちょうど聡子のデスクから死角になるので、気が付かなかった。
でもそれにしたって、少しくらい気配に気付いてもよさそうなものだけど、私はそんなにぼんやりしていたのか。
『なんだいたの。ごめんごめん。気付かなかったわ』
『えーひどいっすよー。僕夕方からずっといたのにー』
皆川が書類をパタパタさせながらむくれる。
『あらそう。じゃああと頼んだわよ』
聡子は冷房のスイッチを上げた。
ブォンと音がして、冷房装置が再起動する。
『あーありがとーございます』
『じゃあ』
『あっ山下さん』
今度こそと扉に手を掛けた聡子を
皆川が呼び止めた。
『何よ』
『あの…』
そのまま、彼が口を嗣ぐんでしまったので、聡子はイライラした。
『何。帰るわよ?』
『…嫌だ』
『はぁ?』
『嫌だ。帰らないでください。』
何なのよこの子は…
皆川を見ると、こちらに顔は向けておらず、表情も飄々として変わり無い。
聡子は何か言い返してさっさと帰ろうかと思ったが、とっさに言葉が出てこなかった。
『…』
微妙な沈黙が流れる。
ゆっくりと、皆川が口をひらいた。
『四階の、会議室…』
『えっ…』
どくん、と心臓が鳴った。
聡子は、明らかに動揺していた。
昼間の事…
それだけを言って、あとは仕事の続きに取り掛かろうとする皆川を、聡子は凝視する。
『…会議室横の資料室に、調べ物しにいかなきゃなくて、怖いから、御一緒に…なんてー』
皆川はそこで表情を崩し可愛らしくふにゃっと笑った。
なんだ…と、少し胸を撫でおろしながらも、聡子はまだ強ばった表情で聞いた。
『なんでこんな時間から調べ物なんかすんのよ、明日にすれば』
『すぐに知りたいです』
『何をよ』
『あー…と今月の公報誌…急に読みたくなっちゃって』
『公報…』
ぞくっと、寒気に近い感覚を覚える。
九月の公報の巻頭インタビューは、楢館だったはずだ。
この子は、何か知っているのか…
皆川はにこっと可愛い顔で笑顔を作った。
『嘘です、すみません。てか、そろそろ僕も帰ります』
『皆川くん』
皆川が伏せていた目をあげた。
『お腹すかない』
咄嗟に、この子をこのまま帰してはいけないと聡子は思った。
少し、と言って席を立った皆川の横顔は本当に綺麗だった。
しかし聡子はこの時、この少年のような横顔に対し、得体の知れない恐怖感と嫌悪感の入り交じった感情を打ち消す事が出来ずにいたのだった。