いまのしゅんかん -418ページ目

欲望バトン

「欲望バトン」

1.今やりたいこと

一時帰国(温泉、本屋に行きたい。日本語の新聞、雑誌、漫画を読みまくりたい。)

2.今欲しいもの

語学力(切実)

3.現実的に考えて今買ってもよいもの

自分のは、、、思いつかないなぁ。

とりあえず、子供のものしか。

4.現実的に考えて欲しいし買えるけど買ってないもの

電子レンジ

5.今欲しいもので高くて買えそうにないもの

車

6.タダで手に入れたいもの

自然豊かな環境

7.恋人からもらいたいもの

子供抜きで、彼と美術館、博物館などに行く時間

8.恋人にあげるとしたら?

いい時間を過ごすこと

9.このバトンを5人に回す

これみて、興味がわいた方がおられたら、、、

10.このバトンを無視したら?

強制できるものではないですので、、、

*****************

これは、友人のブログでやっていたバトンで、勝手に奪ったものである。

ちょっと考えるところがあり、やってみた。

つくづく、わたしは、時間とか能力、仕事は欲しいと思うけれど、ものに対する欲求が前よりもなくなったなぁ、と思う。感覚が変わった、というか。

車も、あると便利だから欲しいことは欲しいが、デンマークは、日本の3倍の値段である上に、保険や車検、ガソリン代などの維持費も2倍くらい高く、よほどのことがない限りは買わないと思う。

****************

ある事情で、娘のクリスマスカレンダーをやめた。

わたしが娘に対して激怒するようなきっかけがあったのだが、それだけでなく、娘の物欲に対して、それまでも相当辟易していたことがその理由である。

例えば、わたしがもっている靴がボロボロだったので、新しい靴を買ったところ、それをすかさず娘が認識して、さんざん祖父母やわたしに買ってもらってたくさん靴をもっているにもかかわらず「わたしも靴欲しい~!!」とねだってきたり、わたしが3時間かけてクリスマスの切り絵を作ったのに、翌朝彼が息子さん用に切り絵を作っていたら「わたしも同じものが欲しい~!!」とねだったり。

さんざん与えてもらっているにもかかわらず、それを省みずに、他人のもっているものにすぐに目移りしてしまう。

あえて娘の目の前で、プリンセスのドレスや、クリスマスカレンダーを手間暇かけて作ったり、欲しがっていたイヤリングをビーズ作るなりして、ものが出来上がる過程を見せ、ものは簡単にできるものではないのだから、ものを尊重しなければならない、というきもちを促そうとしてきたつもりであるが、娘にとってはもらうことが当たり前になって、物欲は限りなく続いたため、ここでこの問題について考えなくては、と思ったのである。

クリスマスカレンダーで、それこそ毎朝プレゼントをもらいつづけたら、それこそものに対する感覚が麻痺するのではないか?

そう危惧して、あげるのをやめたのである。

そのかわり、一緒にクッキーやエベスキューアを焼いたり、クリスマスクランツのろうそくに火をともしたり、紙のクリスマスカレンダーの窓を開け、関連したTV番組をみて、そのあと関連本を読むなど、別のやりかたでクリスマスを愉しむようにしているが。

でも、本当に、難しい。

なまじ、昔に比べて、ものを得ることが容易になった分。

保育園でものの見せ合いをしたら、嫉妬するのも自然の感情だろう。

わたしだって、、、

いい時間を過ごすことで満たされるようになったのって、、、

そう昔のことではない。

爆発

昨日、爆発した。

デンマーク語の勉強も放棄した。

彼は、コンプレックスをかけらももっていないせいか、ときどきわたしを無意識に傷つける。

そう。

わたしは、コンプレックスだらけの人間だから。

容姿、とか、さまざまな能力など、ひとそれぞれ違っているのが当たり前で、優れているとか、劣っているとか、順列つけるものではなくて、ただ、人を「特徴」つけるものとしかいいようがない。

容姿が劣っていようが、さまざまな能力に欠けていようが、

それが、「わたし」だ。

いいも悪いもない。

わかっている。

わかっているんだけど、、、、

なんで人が懸命になって覚えようとして、それでもなかなか身につけられないそばで、

「M(元奥さんの名前)は家で勉強したことがない。移動のときだけ。でも、クラスで一番の成績だった。」

とか、

「Mの語学学校に行く前にすでにI(わたし)の今の英語力以上の語学能力をもっていた。」

っていうの???

「やってられるかよ!!!こんなもの!!」

ちゃぶ台をひっくり返すかごとく、テキスト、プリント等々、ぶちまけてやった。

本人は、当然、わたしを傷つけるつもりもないし、なんでわたしが傷ついたのかもわからなかったらしい。

だって、

「Iは、語学能力には劣るかもしれないけど、ハードワーカーだ。真面目なことが才能だ。」

と、わたしの悪いところを批判するのではなく、アプリシエートも含めながら、ただ特徴のひとつとしてでしか捕らえていないから。

ついでにいうと、元奥さんの語学力についてもアプリシエートしているわけでなく、ついでに付け加える「才能を無駄にしている」というのも批判ではなく、いい悪いではない、それが彼女という人間なんだ、という。

でも。

「それがわたし」

ということを受容するのって、案外難しい。

「できなくてもいい」というふうになかなか思えないから。

ましてや、語学なんて必要とされる能力なわけで、できないことで苦労することが多いから。

でも、気づいてしまった。

元奥さんの悪口を言いまくっていたのは、自己防衛のひとつだったのかな、と。

彼女の語学能力の高さは認めざるをえなくて、でも、アプリシエートは死んでもしたくなくて、「レイジーだ。」「いまだ最終試験も受けていない。」「自立もできない。」「会話内容が貧弱」等々言うことで、彼女よりも語学能力にはるかに劣るわたしを貶めないように防御していたんじゃないかって。

つまらない、コンプレックスなんだけど。

それにしても、彼も鈍感というか、、、、男ってそういうものなのかもしれないけど。

例えば、理解力に乏しい、語学能力に乏しい自分を、それでも認めてあげたくて、

「なかなか理解できないタチだから、小学校のときから人よりもたくさん勉強した。それでも凡庸な成績だったけど。」

というと、

「でもMは、両親が出稼ぎに行ってたから、家のこともしなくてはならなくて、勉強する時間なんてなかった。でも、ハイマークだった。」

「・・・・・」

わたしに対するコメントはないんかい!

なんでそこで唐突に彼女のことが出てくるのさ~。そんなの知らんがな!!

「そうか。。。人より時間はかかったかもしれないけど、それを努力でカヴァーしたんだね。」

とかなんとか、言って欲しかった。。。

事実だったら、何を言ってもいいと思っている。

別に、彼女をアプリシエートしたいとも、彼女と比較してわたしの問題について指摘しようという意志もないことはわかっている。

でも、その事実をすでに痛いほど認識していて、そのことについて言うのは今さら意味もないし、それに、事実を認識しながらなお、「これがわたしなんだ」というギリギリの受容というか自尊心を維持できるように、少しでもその自信を支えて欲しいというのは、わたしのわがままなのだろうか。

ああ~、マジでやる気ない。。。

彼も語学能力に劣るが、今のところ、それをすべて避けてやっている。得意なプログラミングだけに専心して、メールやレポートは主にお父さんが担っている。

でも、わたしは、語学が嫌いでも苦手でも、やっている。

その原動力は、ものすごいあやうい自尊心だけだ。

そりゃあ、「ハードワーカー」だけが取り柄であっても、

レイジーになりたいときだってある。

レージーでも、語学達者な彼女を妬ましく思うことだってある。

語学習得の困難

あと2週間で、デンマーク語の進級テストがあるので、その準備が始まった。

話す内容を決めるのと、テスト向けの会話の練習である。

テストの課題は、

1.5分間のショートトーク

2.誰かとパートナーを組み、ある写真を見ながら、お互いに「ここはどこですか」「この人は誰ですか。」「彼は何をしているんですか」といった質疑応答。

という、口頭試験である。

1に関しては、

a) 読んだ本に関するトーク か、

b) 自分のプライベートに関するトーク

であり、その場でのくじびきによって、a)かb)、どちらを話すかが決まる。

そしてさらに、

a) に関しては、あらかじめ3冊の本を読まなければならず、これもまたその場でのくじびきによって、3冊のうちどの本について話すかが決まり、

b) に関しては、2つのネタを考えておかなければならず、これもまたくじ引きで決まる。

つまり、ショートトークは、ひとつのことについて話せばいいのだが、実際には5つの内容を用意しなければならないわけである。

昨日は、その5つの内容について、リストに書き込んだわけである。

わたしは、本については、

「夫の不倫が発覚して妻が離婚の決意に至る話」

「精神病にかかっている女性がある母子に出会った話」

「14歳の息子が夜の誕生日パーティに出かけ、12時の門限だったのがそれよりも一時間遅く帰ってきて母親が激怒する話」

を選択し、

プライベートなネタは、

「家族の話」 と、

「夏に行ったレゴランド旅行の話」

を選択した。

今、その5つのネタについて、それぞれ原稿を作成したところである。

昨日、ある生徒が話していたのだが、以前のテストで、10人の参加者のうち、2人しかパスしなかったという噂を聞いたのだそうだ。

でも、わたしの感触としては、わたしたちのクラスも相当危ういように感じている。

まぁ、もともと20人くらい参加者がいて、それまでも相当の脱落者が出てきているものの、今残っている中でも、多くて5人くらいしかパスできないような気がしている。

3週間くらい前に、グラマーと作文のテストがあったのだが、先生からみて、全体的に相当出来が悪かったそうだ。

つくづく、語学って難しいなぁ、と思う。

わたしは、テストそのものでは、クラスの中でも秀逸の出来だったものの、先生には、

「ライティングはもう充分な出来なのだけど、スピーキングに問題があるわね。ときどき、聞き取れないこともあるし。もっと、普段から話して、慣れるべきではないのかしら?」

といわれてしまった。

わたしも、その問題を認識していて、発音の物理的な困難だけでなく、もっと本質的なきもちの問題、すなわち-

「間違うこと、理解させられないことに対してフラストレーションを感じてしまう自分」

から、なかなか解放されない。

で、容易な英語で話してしまうことになる。

語学って、結局理屈ではなく、経験、習慣に基づくものであるから、いちいち出来ないことにイライラしてしまったら、それで習得の道から大きく逸れてしまうことになる。

間違っても、理解させることに困難を感じても、たくさん話して練習していくしかない。

そんなこと、わかっているんだけど。

脱落者が多いのもわかる。

語学って、ひたすら繰り返しで、面白くないし。

テストのあとに参加者が激減したのも、語学習得の道がいかに困難であるかを痛感した人が多かったからだと思う。

ただ、クラスに出ればいいというわけでなく、どれだけ自分自身で日常生活にフィードバックできるかが重要なことだから。

まぁそれは、英語でも同様なことが言えるわけで、わたしは英語でも相当の苦労をしている。

いまだにボキャブラリーの貧しさにエッと思うこともある。

間違ってはいけない、

という呪縛から解き放たれたい。

多忙なクリスマス前

明日から12月。

子供にとっては、夢のような一月が始まる。

大人にとっては、地獄のような一月が始まる。

クリスマスのためのデコレーション、クッキー作り、プレゼントの用意(大人にもあげるので大量)、クリスマスカードの発送、それから、クリスマスランチ、ヒュッゲ(お茶会のようなもの)が、いやっていうほどあり、目がまわるほど忙しい月である。

それに加え、わたしの場合、課題の提出、デンマーク語の進級テスト、娘の誕生日が控えており、最近午前様就寝である。

しかし、彼に頼んでいた、課題に必要なプログラムが非常によい出来で、それを使っての解析の結果を指導教授に見せたところ、非常に高く評価してくれ、

「いいボーイフレンドをもったね。」と言われるほどであった。

11月はずっと毎日午前様になるほどのハードな作業をこなしてくれ、なおかつデンマーク語の勉強にもつきあってくれ、本当に、真面目で優秀なボーイフレンドをもって幸せである。

昨日は、そのへんからとってきた枝と松ぼっくりを使って、クリスマスクランツとカレンダーロウソクの台を作っ(てくれ)た。

 

カレンダーろうそく

 

クリスマスクランツ

 

クリスマス飾り


 

本当にいいボーイフレンドをもって幸せである。

子供たちが寝たあとは、彼が例のプログラムの修正をしているかたわら、わたしは保育園にもっていかなければならない切り絵を制作した。

着替えをする部屋に飾りつけをするのである。

 

クリスマス切り絵

 

保育園脱衣場

こんな感じ(去年の写真)

 

彼は、わたしのためのプログラミングを1時まで修正作業してくれたために、切り絵は朝やっていた。。。

本当に、いいボーイフレンドをもって幸せである。

 

切り絵作業

マティス展とバレエ観劇

土曜日、娘が金曜の夜からスカウトのクリスマス行事で泊まりに出たので、彼の息子さんをお父さんにお願いして、彼と二人で、国立美術館&王立シアターに行ってきた。

念願だった、マティス展鑑賞と、バレエ観劇のためである。

 

マティス

 

まずマティス展。

なんと、現代美術作家のコラボレート展であった。

マティスの作品そのものは少なかったので、無理やりほかの作家とミックスさせてボリュームを増やしたのではないか?と疑ったが。

マティスは、意図的に背景の色を変えているのが多いのだが、例えば片側の空間は明るい色で、もう片方は暗い色でという感じで、それがまたリズムを与えるというか、絵全体に動きを与えて、主題物(人の顔や野菜など)の存在感を増大させている。

そして、コラボレートしているフォトグラファーの作品もまた、(マティスにインスパイヤされているわけではなく、結果的に共通しているのだが)人物の服の色や、背景の家具などの色などでアクセントがついており、なんとなくその写真の一こまの中に、ストーリーの存在を感じさせるものがある。

要するに、いずれの作品も、直接的な表現ではないが、色の動き、オブジェクトの配置などでもって、観ている側の想像をかきたてるのである。

ただ、作家の意図を受け取ろうとする、というのではなく、この人は何を見ているのだろう、どうしてそんな光惚とした表情をしているのだろう、どうしてそんなしぐさをしているのだろう、などなど、作品をみながら、いろんなストーリーを自分自身で作り出そうというモチベーションがわくのである。

またもやマティスの作品が少なかったのが不満だったものの、観るほどに味わいのある絵ばかりだったので、今回は充実した。

そのほかにも、美術の500年史という企画展がやっており、宗教画から現代美術にいたるまでのプロセスをみることができ、彼と歴史の話をしつつ観てまわった。

 

ロミオとジュリエット

 

次に、バレエ観劇。

「ロミオとジュリエット」である。

バレエでその演目というのが珍しいと思ったが、案の定、バレエというよりは演劇という印象の色濃い内容で、それはそれで楽しかった。

もちろん、バレエダンスもふんだんに観られたが、ジュリエットが仮面舞踏会の前にお風呂上りでバスタオルをまいたまま踊ったり、ロミオが殺人を犯して街を去ったあとにジュリエットが、美しいジャンプをしながらではなく、そのままかけあしで追いかけていくといったシーンに、より人間らしい感情を垣間見ることができた。

それに、前回のように妖精との恋ではなく、生身の人間同士の激しい恋愛ものだけに、その愛情表現がより生々しく、激しいキスシーンが頻繁にあったりして、ドキドキしてしまった。

そして、音楽がまたせつなくて、よかった。

*****************

彼と二人きりで出かけたのは、去年の12月以来でほぼ一年ぶりであったが、たまにはこうして子供ぬきで出かけるのも愉しいなぁ、と思った。

子供がいると、どうしてもゆっくり芸術鑑賞なんてできる状況ではない。

彼もまた芸術に対する興味が深く、二人で感想を言い合うのも楽しい。

この日が来るまでは、わたしの方が楽しみにしている感じであったが、いざ当日になってみると、彼の方が浮かれていた。

それに、互いに、こういうデートをしたことがあまりない。

元伴侶がいずれも芸術には興味がなく、その愉しさを分かち合うことがなかったから。

元夫は、いつも早く観終わって、わたしは待っているというプレッシャーでゆっくり鑑賞できなかったし、彼は元奥さんとそもそも一緒に美術館に行ったことなどほとんどなかったという。

わたしは、一人で観に行くのでもよかったけれど、誰かと行くのもまた愉しいなぁ、と思った。

クリスマスカレンダーの準備

クリスマスカレンダー(3)

 

彼と、クリスマスカレンダーの小さなプレゼントの梱包をした。

去年は、彼のお父さんに梱包ずみのプレゼントをもらったので認識していなかったが、24日分の梱包と、その順番決めが案外と大変。。。

もちろん、毎日ちゃんとしたプレゼントをあげるのは不可能で、髪どめとかゴムとかちょっとしたものが多いが、中にはまともなものもある。その配分がなかなか難しい。

クリスマスカレンダープレゼント(1)

最初はこんなかんじ。

 

クリスマスカレンダープレゼント(2)

梱包後

 

クリスマスカレンダープレゼント(3)

 

クリスマスカレンダープレゼント(4)

息子さんのためにクリスマスカレンダーの梱包作業をしている彼

 

しかし、、、

今さらこう言うのもなんだが、24日間、毎朝プレゼントをもらえるって、たとえ100円くらいでもスゴイなぁ、と思う。いくらクリスマス限定とはいえ、ものを得る感覚が麻痺するなぁ、と思う。

昔は、色ゴムひとつ、折り紙一枚でも、大事に大事にしていたけれど、今はそんなの必需品を買うのを同じ感覚でバーンと買うし、ありがたみがない。そして、がらくたがいたずらに増えていくという。。。

まぁ、それは、わたしも同じことがいえるのかもしれないが。

日本にいたときは、いたずらに不必要な本や雑誌が増えていったし、、。

しかし、、

やっぱり、ものを買うのって、心がときめく。

なんだかんだいって、小さなプレゼントを買い集めるのは楽しかったし、クリスマスの準備が大変といいつつ、アドベンツクラウンやカレンダーろうそくといった材料を揃えるのもまた楽しかったりする。

不必要といいながら、買う瞬間のときめきの魔力からのがれられない。

ストーリーの違い

今日は、語学学校で、来月あるテストのための模擬スピーチがある。

ある本を読んで、それについて話すというものである。

そのために、昨日は、わたしが用意したスピーチ用の原稿を彼にチェックしてもらったのだが、修正がたくさん出てきた。

しかし、彼の修正にただ従うだけでなく、逆にわたしが彼のサジェスションにクレームつけたりして、2人であれやこれやと議論しながら直す作業が楽しかった。

以前にもブログで書いたことのある、「Alene(ひとり)」という、夫の不倫から離婚を決意するまでの経緯について書かれた本を取り上げたのであるが、

「これなんかおかしいなぁ。「妻は、夫の結婚式の写真をみた。」っていうのはどう?」

「ええ~、夫の写真っておかしくない?二人が写っている写真なんだからさ。じゃぁ、いいよ。「妻は結婚式の写真をみた。その当時の夫は幸せそうだった。」でいいや。」

「う~ん、この文章もおかしい。「結婚当時の彼は明らかに彼女を愛している表情がみられるのに、今は愛していない。」というのはどう?」

「違う、違う、ちがーう!!ここで、愛してないって書いちゃダメでしょう。結婚式の写真を見て、夫がもはや自分を愛していないことを初めて認識するんだからさー、具体的にそう認識した原因について言いたいんだよ。ほらっ、このページの夫が帰宅したときの記述で、あえて夫の妻に対する冷たい表情について言及しているんだしさ。結婚式のときと今とで、明らかに夫が異なる具体的なことについて言いたい。今は、妻をみる目に冷たさを感じるとか、愛情あふれた表情がみられない、とか。そしてそのあとに、「彼女は初めて理解した。夫がもはや自分を愛していないことを。」ってくるわけよ。」

「う~ん、じゃぁ、「結婚したときは幸せそうだった。でも、今は彼女に対して冷たい。」」

「(まんまやん!)まぁ、それでいいや。」

ってなかんじで、またまた手伝ってもらっているのに、偉そうに意見するわたしであった。。。

でも、文章を構築する作業は楽しいし、その作業を通じて、彼とあれこれ話すのも楽しい。

っていうか、デンマークのストーリーって、本当にうまいと思う。

特別なことが起きるわけではなく、決定的な理由があるわけではなく、ごくごくありふれたエピドードでもって、人間の感情の機微をうまく表現しているところが。

日本だったら、必ず、いい人悪い人という設定がされると思う。例えば、不倫した側が、徹底的に悪い、とか。

でも現実には、人間関係において、そう誰が悪いって決められるほど単純ではない。そういう意味で、日本のドラマは、設定だけやたら凝っていて(というか、ありえねーだろというエピソードが満載)、人間の感情についてはやや紋きり型な傾向があって、なんか物足りないと感じてしまうことが多い。あとは、子供の設定が滅茶苦茶だったり。大人にとって都合よい存在というか、利用されている立場になっている。それも、子供を得て気がついたことであるが。

ちなみに、アメリカのサスペンスドラマのコンペティションで、デンマークの犯罪もののドラマが最優秀賞に輝いたそうだ。

こっちのサスペンスは、人間の深層心理をうまくついていて、別の意味で怖い。

そういう、日本のドラマ事情について彼に話すと、

「元妻の母国のドラマもすごいよ。とにかく金持ちの彼女と貧乏な彼の間でいろんな事件が起きて、25話を経て、最終的にくっついて終わりだからね。」

「本当は、くっついたあとが、いろんなささいな問題が起きて、関係維持が大変なのにね。」

彼女は、彼が離婚を決意する前に、

「誰か、いい人見つけたら。」

ってなことを言ったのだそうだ。

つまり、、、、彼と離婚はしたくないが、すなわち、彼が生活費すべてを負担し息子とも気が向いたときに一緒に過ごせるという状況は維持したいが、彼には求められたくない。彼のそういう欲求を、別の人に向けて欲しいということだったのだろう。

でも、セパレート後、実際に彼がわたしを得たあと、彼女は激怒し度重なる干渉をしてきた。

というのは、子供同士一緒に遊ぶために、25m2しかないわたしたちのアパートでは無理なので、頻繁に彼のアパートに行くようになったら、隣人の元奥さんに対する態度が激変したようで、その原因としてわたしたちを責めたのである。

彼女は、彼に別のガールフレンドを得て欲しがってはいたものの、それはあくまで彼女に影響のない範疇で、とのことだったのだろう。

そんなご都合主義、安っぽいドラマみたいで笑ってしまうのだが。

実際には、登場人物それぞれ特有の感情や考えなどがあり、主人公中心に回っている世界など存在しない。

自分が正しいと思っていることが、絶対的に正しいという思い込みは危険である。

名前の変更

結局、名前の変更は、離婚を扱う機関に申請することができるとのこと。

そもそも、離婚を扱う機関が存在するというシステムもユニークであるが、結婚以外での名前変更は有料だというのも驚きである。

彼の元奥さんが、彼の姓をキープしていることを、内心面白くないわたしであるが、離婚でも名前変更の申請で6万円払うと聞いたときには、思わず納得したものだった。

というか、彼がインターネットでざっと調べ、6万円かかる可能性を示唆されたときには、このまま夫の姓でもいい!と強く思ったほどである。

しかし、直接機関に問い合わせてみたところ、わたしと娘の場合は、母国で正式氏名が変更されているので、その証明さえできれば、無料で氏名の変更ができるとのこと。

ただし、その証明するためのプロセスが煩雑といえば煩雑なのだが。

すなわち、

出生証明

両親に関する情報

過去の婚姻証明

過去の離婚証明

などなどの、書類を提出しなければならないらしい。

つまり、この国に来て登録した際の姓と、現在の母国での姓が、なぜ異なるのか、その原因について、詳細に証明しなければならないわけである。なまじ、家族制度をとっている日本のシステムが、個人システムをとっているこの国と著しく異なるために。

結局、、、、大使館でその書類を発行してもらわなければならないわけだから、同等のコストがかかってしまうのかもしれない。

でも、彼いわく、結婚の際にも、このような書類を同じように用意しなければならないとのこと。

わたしが、真に独身で、婚姻可能な身分であるのか証明するために。

ちなみに、彼の元奥さんのお母さんは、その書類を用意するのに、3度も母国に帰れなければならなかったとのこと。

本当かどうか知らないが、彼らの母国の場合、この国の大使館での書類発行はアクセプトされず、母国でのこの国の大使館発行の書類のみ適用されるそうである。

隠蔽、詐称が多いお国柄のせいであろう。

彼の知人の奥さんは、やはり同じ国出身であるが、4人の子持ちであるのを、3人の子持ちであるとだまして登録したらしい。

したがって、結婚するのと同じタイミングで、娘の姓変更の手続きもしようかと考えている。

ずっと気になっていた、語学学校の友達にメールを送ってみた。

彼女は、オペアとして働いているのだが、ホストファミリーとの関係があまりよくなく、別の家族をオペア協会にアレンジしてもらったのだが、結構遠い街で、語学学校もやめてしまったのである。

すると、すぐ返事がかえってきて、先週遠距離のボーイフレンドと時間を共にし、クリスマスに正式に婚約すると互いに決心したとのこと!

彼女はエチオピア出身で、ボーイフレンドはイギリス人。

彼女も、いろいろと結婚までのプロセスが煩雑なのかもしれない。

なんか、彼女に会いたくなった。

細菌感染、再発

とうとう、彼のお母さんが、再手術することになってしまった。

金曜日の血液検査で、細菌の検出が見られなかったので、それで「ジ・エンド」のはず、だったのだが、、、。

土曜日の夜中、膝に違和感を感じ、なおかつ見た目も赤くなって腫れているような感じだったので、即座に救急病棟に行ったところ、そのまま入院となってしまったそうだ。

手術後に除去しそこなった糸が感染源であることを一縷の望みとしてもっていたものの、結局、6週間も抗生物質投与されながら、細菌の完全除去ができなかったことから、感染源は、やはり前の病院で埋められた膝の人口骨であり、これを取り除かないうちは、細菌を完全に除去することはできない、という判断をされたのだった。

まず、人口骨を取り除き、そのあとの2週間、強い抗生物質投与で細菌除去をし、改めて新しい人口骨を埋める、というのが今後のシナリオである。

そもそも、病院での細菌感染は、普通の感染とは異なり、厳しい衛生管理がされている環境の中での感染であることから、それでも生き残るような相当タフな細菌であることがほとんどであるという。

だから、抗生物質投与されている間は沈静化されていたけれど、実は人口骨に密かに棲みついていて、投与されてまもなくして、再度活性化したのだろう。

それにしても、心配なのは、彼のお母さんの精神状態。

膝の感染そのものは、生命に関わる脅威があるほど、深刻な状況ではないと思う。

それよりも、彼の弟がオランダ人の彼女を得て移住を決めたとき、あまりのショックで30kgも体重が減り(もちろん1年以上かけてだが)、5年以上たった今でも、弟への恋しさで毎晩涙するというような繊細さをもつお母さんが、なかなか先の見えない治療にきもちが耐えていけるのか、その方が心配である。

先日の1ヶ月半の入院中、お父さんは毎日最低2回は病院に訪問していて、周りの人にもうらやましがられていたという。

にもかかわらず、毎晩彼のところに電話してきていた。よほど、病院での生活がつらかったのだろう。

つくづく、人のきもちって、状況ではなく、その人自身の感じ方によるところが大きいのだと思う。

この国とオランダは、外国とはいえ、東京とわたしがかつて暮らしていた地方都市との間の距離と同じである。まぁ、1000km弱といったところだろうか?

にもかかわらず、うちの両親は、遊びに来るどころか、電話さえもほとんどしてくることはなかった。わたしの方からたまにする程度である。

今でも、時差8時間のせいもあるが、ほとんど電話することはない。メールもごくごくたまに。

両親だけでなく、今まで移るたびに、そしてこちらに住んでいる間にも、いろんな人との別れがあったが、というか、よりによってものすごく親しい人が、こぞってアメリカや中国などに移ってしまったが、不思議とさびしいと感じることがない。

連絡をとっていなくとも、なんとなくみんながんばってやっているのではないか、そう思えるからさびしくはない。

両親も、きっとそう思っているのだろう。離婚のときも、両親はほとんどかかわらなかったし、どんなことが起きても、わたしがなんとかすると思っているのだろう。

やっぱり、誰でも、生きている限り、いろんなことがあるわけで。。。

それに対して、どうとらえるかどうか、そのきもちが、人生に大きく影響するのだろう。

姓はどうするべきか

今日、新しいパスポートをとりに、大使館に行ってきた。

ついでに、離婚にともなって変更になった名前を、この国でも変更したいのだけれどどうすればよいのか聞いたのだが、「わからない」とのこと。

おそらく、離婚を扱っている機関で名前変更の段取りをしてくれるだろうと思うが、確信はない。

パスポートでは、すでに名前が変わっているものの、この国で前の姓のまま違いが生じようとも、あまりたいしたことではないようである。

現に、彼の元奥さんは、結婚時に彼と同じ姓に変え、離婚した今も彼の姓をキープしているが、母国には婚姻届を出しておらず、パスポートは結婚する前の姓のままだという。

以前、お気に入りブログさんのところで、わたしは別姓派だとコメントを残したものの、実は、どっちでもよいと思っている。

わたしが気になるのは、名前を変える変えないで、どれだけ労力が伴うかどうか、である。

6年前に結婚したとき、とりあえず籍だけ入れたのだが、すると会社から、

「すぐに、新しい姓での名義で銀行口座を開設してください。姓が変更された以上、その名義でのみ給料の振込みがされますので。」

なにーーーー。

銀行口座開設は、本人であることを証明するもの、すなわち、免許証か保険証が必要なのである。免許証も銀行口座も、新しい戸籍抄本を証明として発行してもらえない。しかし、保険証発行は2週間もかかる。

とにかく保険証ができるのを待ち、受け取って即座に銀行口座を開設した。給料が振り込まれるかどうかにかかるのだから切実である。

それからも、免許証をはじめとして、いろんなところでの名前変更、、、(パスポートは放置していた。)

はっきりいって、名前が変わることの感傷はまるでなかったが、あまりの面倒くささに、夫との不公平感を感じた。

今回も、果たして本当にこの国で名前を変えることができるのかさえも不明な今、もはやどうでもよくなっている。

別に、夫の姓でもいいかな~と。

ただ、論文には、日本の本当の姓で掲載されているので、同僚らには変えたほうがいいとプレッシャーをかけられているのだが、「はっきりいって、どうやって変更できるのかわからない。」といったら、皆一様に驚いていた。

ちなみに、彼は、結婚したとしても、名前は変えないほうがいいだろうとのこと。

元奥さんは彼と同じ姓だから、ちょっとムっとして、

「じゃあ、なんで元奥さんは変えたの?」

「彼女自身が決めたことだから。」

「本当に~?あなたは、どう思ってたの?変えて欲しかったんじゃないの?」

「はっきりいって、どうでもよかった。変えたくなければ、それでもよかったし。」

「じゃあ、もし、わたしがあなたと同じ姓に変えたいと思ったら、それを受け入れるの?」

「もちろん。君が決めることでしょう?」

「じゃぁ、なんで変えないほうがいいってサジェスションするの?」

「その方が面倒じゃないと思ったから。たいした意味はないよ。」

「でも、本当のところ、名前を変えることに対して、あなたはどういう意見をもっているの?」

「どうでもいい。」

「そんなのが意見なの?」

「大したことじゃない、っていうのもれっきとした意見でしょう?だって、君は君であって、名前が変わったところで、君が変わるわけじゃないから。」

う~ん、ごもっとも。。。

名前はどうでもいいといいつつ、実は、元奥さんが彼の姓をいまだ残していることを気にしているわたしは、やはり「姓=家族」という日本人的感覚をもっているのだろうか。

*****************

親友のひとりは、「○○の奥さん」「××のお母さん」というような属性ではなく、れっきとした自分のアイデンティティを取り戻すべく、実質は伴わない、戸籍上の離婚を果たした。

つまり、元夫と変わらず暮らして家族の生活形態を一切変えないまま、自分の旧姓を名乗りたいためにペーパー離婚したのである。

いまだ、そういう離婚に対して、親御さんの理解は得られていないようである。

彼女が本当に取り戻したかったもの。

それは本当に理解できる。

出産後まもなくして、地方都市に移り、知人も家族もいない環境で、わたしが社会とつながることのできる唯一の道が、「○○の奥さん」「××のお母さん」としてであり、夫がいるとかいないとか、子供がいるとかいないとかではなく、ただわたしという人間に向き合ってくれる人を欲していた時期があったから。

でも、彼女が離婚するために、ご主人の理解を得ようと奮闘しているとき、わたしは口で応援しながらも、心の中ではずっと叫んでいた。

「はっきりいって、ご主人の姓を名乗っているあなたであっても、一度もご主人に重ねたことなんてない!いつだって、あなただけを見ていた。名前がどうであろうとも、わたしにとっては、あなたはあなたで変わりがないよ!」

******************

この国では、どんなに遠い関係であっても、ラストネームでよばれることがない。

だから、名前にあまりこだわりもない。

一応、離婚を扱う機関に問い合わせしようとしているものの、回線混雑でつながらず。

わたしとしては、別にこの名前のままでもいいのだが。。。