日本文化、世界の歴史・健康・ミライにチャレンジ -17ページ目

「絶対無理!」と思った人やモノほど、なぜか逃げられない不思議

皆様こんばんはいかがお過ごしでしょうか。最近点と点が結ばれて線になっていく様が感じられるようになってきました。今日は、メガネのレンズを変えに出かけてクロスバイクを楽しみました。冷たい風が心地良かったです。




さて、皆さんも経験ありませんか?初対面で「この人だけは絶対に無理」と直感的に思ってしまう瞬間。もしくは、新しく試した何かが「これ、私の性に合わない」と即座にジャッジされること。なのに、そういう「無理!」と思った相手やモノほど、後々になって不思議と人生に深く関わってくる。なぜなんでしょう?宇宙のいたずら?それとも人間心理の仕業?


今回は、その「逃げられない関係」の謎をちょっぴり皮肉を交えつつ紐解いてみたいと思います。


第一印象の“嫌い”は本能的防御反応⁉

私たちが直感で「嫌だ」と感じるのには理由があります。それは、本能的に自分を守るための防御反応。たとえば、嫌な態度を取る人や自分と違う価値観を持つ人に出会うと、その違和感に不快感を覚え、脳内で「これは危険信号だ」とアラートが鳴るのです。

しかし、ここに一つの落とし穴があります。直感は、過去の経験や固定観念に基づいていることが多いので、実はあなたの偏見が作り出した幻影かもしれません。つまり、「絶対無理!」と感じる理由が、あなたの内側に潜んでいることもあるんです。


なぜか巡り合う“絶対無理”の法則

人生は皮肉なもので、「嫌だ」と思ったものほど、何度も繰り返し目の前に現れることがあります。まるで「お前が嫌いと言ったな?でもこれが課題だ、受け取れ」と言わんばかりに。

これは一体なぜなのでしょうか?


① 成長のためのチャンス

人生は不思議と、苦手なものを通じて成長のきっかけをくれることがあります。例えば、苦手な同僚と一緒にプロジェクトを進めることで、自分に足りないものに気づいたり、意外な一面に気づいたりすることがあるのです。結局、嫌だと思っていたものが「実は学びの宝庫」だった、なんてことも。


② 心理的投影

「嫌だ」と思うものや人の中には、自分が無意識に隠している性格や価値観が反映されていることがあります。自分の中にある「見たくない部分」を相手に感じているだけだった、というケース。これが分かると、逆に「なんだ、自分も結構似た者同士じゃないか」と笑えてきます。


③ 感情が強いほど記憶に残る

「無理!」と思う感情は強烈なので、心に刻まれやすいです。その結果、記憶に残り、意識的にも無意識的にもその存在に引っ張られてしまいます。これが「逃げられない」感覚を生む原因の一つです。

“見えないからこそ良い”という贈り物

でも実は、「絶対無理!」と思った相手や状況に出会うことには、もう一つの面白い側面があります。それは、「見えなくていい現実」を教えてくれること。

例えば、細かい欠点や、些細な違いに気を取られてしまうのは、ある意味でエネルギーの無駄遣いです。年齢を重ねて老眼になり、手元のシワや細かい字がぼやけて見えたとき、「これぐらい見えなくてもいいのかも」と感じたことはありませんか?「絶対無理!」と思った人やモノも同じで、その全てを理解し、克服しようとする必要はないのです。むしろ「ぼやけたまま」が心地よく、許容できる余白を生む場合もあります。


嫌いが好きに変わる瞬間もある

最後に、人生の妙をもう一つ。最初は「嫌い」だった人やモノが、時間とともに「なくてはならない存在」になることってありませんか?それは、最初の抵抗が薄れたとき、私たちがその本質を受け入れられるようになるから。

例えば、苦手だった同僚が、あるとき自分を助けてくれた瞬間に「意外といい人だな」と思えたり。最初は嫌いだった食べ物が、ふとしたきっかけで「実はめちゃくちゃ美味しい」と気づいたり。こうした転換点もまた、「絶対無理!」と思った相手やモノに逃げずに関わることで得られるものです。

🌟人生の小さな皮肉を楽しむ

結局、「嫌い」と思うものほど、何度も人生に登場するのは、成長や学び、そして視野を広げるための巡り合わせ。だからこそ、最初の印象だけで全てを決めつけず、少しだけ心の余白を持ってみると良いのかもしれません。

「絶対無理!」と思ったものが、もしかしたら未来の大切な存在になるかも。そんな人生の小さな皮肉を、少しだけ楽しんでみませんか?


麹と人類の進化:古事記に見る「発酵する神秘」

皆様こんにちはいかがお過ごしでしょうか。お友達からとても美味しいコチュジャンと塩麹をいただき!私も生麹でコチュジャンにチャレンジしました。炊飯器でささっと作りました。出来上がりが楽しみです。と、言うことで麹を深掘りしてみます。




麹 それは、ただの微生物ではありません。人類とともに進化し、私たちの食卓に「旨味」や「幸福」を届け続ける、いわば小さな魔法使いです。そして、古事記という日本最古の物語に耳を傾けると、麹の物語は自然や生命のリズムと共鳴し、私たちに深い気づきを与えてくれます。

さあ、ここからは少し肩の力を抜いて、麹と人類の長い旅路をひも解いていきましょう。


発酵の力は古事記にも?麹のヒントを探る

古事記には、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する際に、蛇を酔わせるために「八塩折(やしおり)の酒」を用意したエピソードがあります。酔っ払って弱くなったヤマタノオロチはスサノオに討たれるわけですが、この場面、実は麹菌の大活躍が隠れていると考えられています。

というのも、日本酒に欠かせない麹菌がなければ、あの酒は作れなかったはず。「酔わせて倒す」というこの作戦、現代で言うなら、「夜中に焼酎片手に恋人と語り合って、気がついたら勝ちパターンに持ち込む」ようなもの。つまり、麹菌が紡ぐ発酵の力は、人間の知恵を生かし、難題を乗り越えるサポート役でもあったのです。

麹菌は生命の再生を象徴する小さなヒーロー

さて、スサノオがヤマタノオロチから取り出した「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」は、命の再生や新たな秩序を象徴しています。この流れ、実は麹菌が原料を発酵させてまったく新しい食品に生まれ変わらせる働きと不思議なくらい似ていると思いませんか?


味噌、醤油、日本酒……これらすべてが麹菌の手にかかれば、ただの大豆や米が「和食の主役」に変身します。麹菌は「地味にすごいやつ」の代表格、いや、むしろ「地味だけど最強のヒーロー」です。



麹菌と人類の進化、少し科学的な視点から

もし麹菌がなかったら?おそらく人類は、栄養価の低い単調な食事に甘んじていたことでしょう。しかし、麹菌がデンプンやタンパク質を分解して甘みや旨味を引き出すことで、人々はより栄養価の高い食事を得られるようになり、脳が発達し、文化も進化していきました。

発酵食品の力を手にした私たちは、いわば「食べるだけで進化する」という人生チートを手に入れたのです。麹菌のおかげで、今日の私たちがあると言っても過言ではありません。

古事記と麹菌が教えてくれる未来のヒント

古事記が語る物語には、常に「自然との調和」が描かれています。麹菌もまた、自然の力と人類の知恵が生んだ奇跡の存在です。毒性がなく、穏やかに素材を変えていく麹菌の働きは、現代社会が求める「持続可能性」のシンボルと言えるでしょう。

さらに、近年注目されている塩麹や甘酒など、新しい使い方が次々と生まれていることを考えると、麹菌は今も進化を続けています。まさに、「古代から未来へと続く発酵のメッセンジャー」として、私たちの生活を支えています。



麹菌と共にある私たちの物語

麹は単なる発酵のツールではありません。それは、自然と人類の共同作業であり、古事記の神話が伝える「再生と循環」の象徴そのものです。麹菌が作り出す味噌や醤油、日本酒のように、私たち自身も日々変化し、進化し続ける存在です。

次に麹を使った料理を食べるとき、あるいは日本酒を一口飲むときには、ぜひ思い出してみてください。麹が紡ぐ物語には、古代の神話から続く「自然と共に生きる知恵」が詰まっているのです。


刺し子と諏訪大社――布に織り込まれた祈りと歴史

皆様本年もどうぞよろしくお願いします。



刺し子半纏をいただきました。縁起ものです。嬉しいです。本当に手が混んでいてその家にしか伝わらない紋様があるという奥深さが味わいになっています。数年前から馴染みの料理屋さんから譲っていただきました。しかも諏訪大社近辺の歴史的な刺し子半纏。



刺し子とは、もともと日本の庶民の日常生活の中で生まれた刺繍技法の一つです。その起源は江戸時代にさかのぼり、布の補強や保温性を高めるために考案された実用的な手仕事でした。当時、布は貴重なもので、穴が開いたり擦り切れたりしても捨てず、布を重ねて刺し縫いすることで再利用しました。この技法は単なる補修にとどまらず、やがて美しい紋様を生み出す工芸としても発展しました。



刺し子には地域ごとに独自の美意識や文化が反映されています。たとえば、青森の「こぎん刺し」や山形の「庄内刺し子」は、それぞれの土地の風土や暮らしが紋様に映し出された代表例です。このように刺し子は、その土地の人々が培ってきた知恵と感性が詰まった一種の「布上の物語」といえます。

いただいた刺し子半纏もまた、諏訪大社近辺の地域性や歴史、信仰が織り込まれている特別なものです。諏訪大社は日本最古の神社の一つで、その起源は神話時代にまでさかのぼります。諏訪湖のほとりに鎮座するこの神社は「諏訪明神」として広く知られ、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社です。主祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は武神として信仰される一方で、農業や狩猟を司る神としても親しまれてきました。



諏訪大社は「上社本宮」「上社前宮」「下社春宮」「下社秋宮」の四社から成り、その信仰体系は独特でありながら、地域文化の中心的存在として長い歴史を持ちます。特に「御柱祭(おんばしらさい)」は約1200年もの伝統を誇り、7年に一度行われるこの壮大な神事では巨木を神社へ曳き建てます。この祭りは、自然との共生と土地の人々の絆を象徴するものです。


こうした歴史的背景を持つ諏訪大社近辺の刺し子半纏には、地域の自然信仰や伝統が深く刻み込まれていることでしょう。刺し子には特定の家や地域にしか伝わらない独自の紋様があり、それらは単なる装飾ではなく、魔除けや祈りといった意味が込められた象徴的な存在です。農作業や山仕事をする人々を守るために刺された模様や、家族や地域の繁栄を願った祈りが、布の一針一針に込められています。

また、諏訪大社に関わる刺し子半纏であれば、神事を担う者や祭りの際に着用された神聖な衣服としての側面も想像されます。これらの半纏には、土地の信仰や文化の精髄が注ぎ込まれ、神と人との結びつきを象徴するものとして代々受け継がれてきたのです。


現在、刺し子半纏はその実用性だけでなく、美しい手仕事や歴史的価値が再評価されています。いただいた刺し子半纏も、料理屋さんが大切に保管されてきたように、単なる衣服を超えた特別な存在だったことでしょう。それを譲り受けるということは、地域の歴史や文化、さらには作り手の祈りや思いを引き継ぐことにほかなりません。

刺し子半纏を身に纏うたび、そこに込められた手仕事の温もりや、諏訪大社を中心に築かれてきた自然との調和、地域の祈りに触れる感覚を味わえるでしょう。こうした伝統工芸の一着には、目に見えない物語や人々の想いが詰まっています。それこそが、現代においてもなお刺し子半纏が輝きを放ち続ける理由ではないでしょうか。

諏訪大社と刺し子半纏――どちらもその土地の文化と歴史を象徴する存在として、私たちに自然への畏敬と人々の営みの尊さを教えてくれます。このような美しき伝統を、これからも大切に受け継ぎ、未来へと伝えていきたいです。