日本文化、世界の歴史・健康・ミライにチャレンジ -16ページ目

「人生が不安なときこそ、“未来のわたし”に贈る選択を」




皆様こんにちはいかがお過ごしでしょうか。数年前に人生をリセットする時期がありました。その時に手元に残る金額に不安を覚えて、保険や投資信託なども処分してしまおうと考えていたところ、踏みとどまるようにと諭されなんとか続けてきたものが今では心の支えになっています。


人生にはいま現在がとても大切ですが、自分の未来に投資をするということも同時にすべき事だと感じています。私が住む日本は災害大国ですので日々の災害に対しての備えも準備しておくように、老後に対する資金準備や健康に対する投資、日々納得の行くお金の使い方など考えておく事があります。


世界情勢を知る事で投資の思考が強化される。

「いま起きていること」が、これからの世界や自分の暮らしにどのような影響を与えるかを考える視点を育ててくれるからです。

たとえば、物価の変動や為替の動き、エネルギーや食料の供給状況、あるいは気候変動や国際紛争など -これらは決して“遠い世界の出来事”ではありません。気づかないうちに、私たちの生活費や老後資金の価値、さらには健康管理の選択肢にまで影響を与えています。


また、今日のスポーツした成果は未来の自分への健康投資になります。具体的に週に3回ほど10kから20kクロスバイクで走行すると血流が良くなり、心肺機能が高まり、筋力や持久力も自然とついてきます。年齢を重ねるごとに感じる体力の衰えや代謝の低下に対して、こうした運動習慣が「抗う力」となってくれます。

クロスバイクは、膝や腰に負担が少ない有酸素運動であると同時に、風景の変化を楽しみながらストレスを軽減する効果もあります。週3回のペースで10km〜20kmを走ることで、1ヶ月では約100km以上、年間では1,200kmを超える“自己ケア”の積み重ねになります。

この習慣が、将来の医療費や介護リスクの軽減にもつながっていくと考えると、まさに「見えない資産」を築いているようなものです。

また、ほぼ毎日行くジムで入るサウナと温泉は私にとって心と身体のリセットボタンのような存在です。汗を流し、身体を芯から温め、じんわりと疲れが抜けていく感覚は、何ものにも代えがたい癒しです。サウナと温泉に入ることで血行が促進され、筋肉のこわばりや日常のストレスがゆるんでいきます。

特にサウナでは、短時間でも深いリラックス効果が得られるうえ、「ととのう」と言われるあの感覚が、私にとって明日への活力の源になります。温冷交代浴を取り入れることで、自律神経のバランスも整い、睡眠の質がぐっと上がるのを実感しています。

そして、湯船に身を預けているとき、不思議と頭の中が整理されていくのです。仕事や人間関係で抱えていたモヤモヤが、湯気とともにふわりと軽くなっていく。ジムでのサウナ・温泉のセットは、まさに「自分を整える時間」となっています。

また、自分のしている行動に対してどんな意味があるのか考えることで、日々の行動が「ただの習慣」から「価値ある選択」へと変わっていくのだと思います。たとえば、運動や入浴、食事や睡眠といった一つひとつの行為に、「これは未来の自分への投資」「これは心を整える時間」「これは自分自身との対話の場」といった意味を持たせることで、日常の質そのものが深まりました。 


また、記憶に残るお金の使い方をすることで「お金」と「時間」が単なる消費で終わらず、自分の中に豊かな体験として積み重なっていくのを感じるようになりました。

たとえば、ただ物を買うのではなく、誰かと過ごす時間に投資したり、自分を高める学びや趣味にお金を使ったりする。あるいは、日常を少し心地よくする道具や空間づくりにお金を使う。そういった使い方は、記憶の中に「幸せの種」として残り続け、後から振り返ったときに心を温かくしてくれます。


思い返せば、節約だけに意識を向けていた時期には、お金を使うことにどこか罪悪感がつきまとっていました。しかし今では、「未来につながる消費」「意味のある支出」という視点を持つことで、たとえ小さな出費であっても、それが人生を丁寧に編んでいく一糸になっているように感じられるのです。

お金は生きた感情と深く結びついています。

だからこそ、感情が動く場面に意識的にお金を使うと、人生そのものが彩り豊かになっていくのだと思います。 

私が20代の頃からお金のこと保険の事を人生のターニングポイントでアドバイスしてくれた方が今では人生の伴奏者のような存在になっています。

わからないなりにやり始めたことが少しずつ形になり、自信へと変わっていったのは、その方の存在があったからだと思います。的確な知識だけでなく、いつも私の人生に寄り添った言葉をくれました。「正解を探すよりも、“あなたにとっての納得”を大切にして」と言われたとき、その一言がどれほど心強かったか、今でも覚えています。

わからないなりに始めた小さな積み立てや、仕組みのよく分からないまま始めた投資信託。将来が不安だったあの頃には、それらが本当に意味のあることなのか疑心暗鬼になる日もありました。けれど、数年経って振り返ってみると、それらは確実に「私自身を守るための土台」になっていました。

そして何よりも、そうやって“自分で選んで、続けてきた”という積み重ねが、私の中に「私にもできる」という感覚を育ててくれたのです。人生における“わからなさ”や“不安”に向き合いながらも、自分で選び、自分で責任を持つという姿勢は、あらゆる局面での支えになります。

人生はつねに選択の連続です。大きな決断もあれば、小さな日常の選択もある。そのどれもが、自分という人間をつくっていく。だからこそ、「わからないなりに始めたこと」が、実は一番大きな一歩だったのかもしれません。


「富士山噴火」と「米不足」―そのとき、どう生きる?

皆様こんにちはいかがお過ごしでしょうか。今日は久しぶりに太陽が顔を出しましたね。

やはり日差しがあると、心も少し軽くなる気がします。

最近、多くの方とお会いする中で、「価値観のアップデート」や「災害への備え」について考える機会が増えました。

そんなときにふと頭に浮かんだのが、「私たちは本当に、大きな災害に備えられているのだろうか?」という疑問でした。




江戸時代に起きた富士山の噴火をご存知ですか?

1707年、江戸時代中期。

富士山は大きな噴火を起こしました。これが「宝永噴火」と呼ばれるもので、現在に至るまで富士山最後の噴火として記録されています。

この噴火は15日以上も続き、火山灰が大量に降り注ぎました。

江戸(現在の東京)にも灰が届き、昼間でも空が暗くなるほどだったといいます。




生活が一変した富士山噴火の被害

灰が屋根に積もって建物が倒壊し、川は泥で埋まり、農地は灰で覆われて作物が育たなくなりました。

その影響は広範囲に及び、人々の生活は大きく混乱しました。

とくに農村では食料不足が深刻となり、多くの人が飢えに苦しみました。

さらに、衛生状態の悪化によって疫病が流行し、医療の届かない地域では命を守るすべもありませんでした。




昔の話ではなく、今の警告として

現代に生きる私たちは、技術も制度も進歩しています。

しかし、もし今富士山が再び噴火すれば、当時と同じく深刻な影響を受ける可能性があります。

たとえば、

  • 東海道新幹線の停止

  • 首都圏への降灰と交通まひ

  • 飲料水や農作物への被害

最近のシミュレーションでは、東京や千葉、茨城といった首都圏でも数センチの火山灰が降るとされています。これは交通・電力・インフラすべてに影響するレベルです。




現在の「米」も、安心できない時代に

歴史を振り返ると、宝永噴火後の大きな社会混乱の原因のひとつが「米の不足と高騰」でした。

そして今、私たちの時代にも再び“米”をめぐる課題が見え始めています。

昨今の異常気象や燃料高騰、農家の高齢化によって、国内の米の生産量は年々減少傾向にあります。

一方で輸入原料や肥料コストの上昇により、今後は米の価格上昇や供給不安が現実味を帯びています。

もし富士山の噴火などで主要な産地が灰に覆われれば、物流の混乱と合わせて、再び「米が手に入らない」状況が発生するかもしれません。

このことは、江戸時代の教訓と重なります。




富士山噴火の影響を示すマップの活用

  1. 降灰マップ(宝永噴火当時の記録)

      静岡や神奈川では30~60cm以上の火山灰が積もり、江戸でも数センチの灰が確認されました。



  2. 現代のハザードマップ

      静岡県や国の機関が作成した地図には、溶岩・土石流・降灰それぞれのリスク範囲が色分けされています。







  3. 広域降灰の影響予測

      関東平野まで灰が届くと、航空機の運行停止、車両の故障、上下水道への影響などが懸念されています。





  4. 立体的な地形モデル

      宝永噴火によって形成された火口の位置や構造を3Dで再現した地図も、防災教育の素材として注目されています。








最後に —日常のありがたみを、忘れないために

太陽が差し込むだけで少し気分が明るくなる。

それは、自然と共に生きてきた私たちの記憶が、安心を感じ取っているからかもしれません。

富士山の噴火は「いつか」ではなく、「いつ起きてもおかしくない」と言われています。

そして、それに備えるということは、食・水・情報・住まいといった私たちの「生きる土台」を見直すことでもあります。

今日という日を大切に生きながら、未来の自分や大切な人を守るための小さな準備を、今から始めてみてはいかがでしょうか。



「思い出は、所有しない」



皆さま、こんばんは。いかがお過ごしでしょうか。

まるで梅雨がひと足早く訪れたような、しとしととした空模様。そんな鬱々とした空気を、私は音楽の力でそっと遠ざけています。


今日も、クローゼットの整理をしました。

「これはまだ着るかな」「これはもう手放そうか」ひとつひとつ手に取りながら、まるで過去の自分と静かに対話するような時間。どこかでふっと姿を消しても、誰も困らないくらいの持ち物で生きていたい。そんな思いが、最近少しずつ濃くなってきました。


もちろん、「もういらない」と手放したものが、後になって恋しくなることもあります。

「取っておけばよかったな」なんて、ちょっと悔しい気持ちになることも。でも私はやっぱり、思い出は“モノ”に宿すのではなく、心の奥に静かにしまっておくほうを選びたいのです。


…とはいえ、ふとした拍子に記憶は不意打ちのように現れてきます。「あのシャツ、まだ持っていればよかった」「旅先で買ったあのマグカップ、手にとって眺めたかったな」そんなふうに、思い出が手のひらの温度まで連れてくる瞬間もあります。


けれど、風の音や雨の匂い、誰かのやさしい声や、自分の笑い声。そうした“かたちのない記憶”のほうが、ずっと鮮やかに、長く残ってくれる気がします。だから私のクローゼットは、日を追うごとに軽やかになっていきます。


けれどそのぶん、心の中の“見えないアルバム”には、静かにページが増えていくようで。きっと人生の終わりにそっと開くのは、しまい込んだ服の引き出しではなく、誰かと過ごした時間の、あたたかな断片なのだろうと思います。今夜もそんなことをぼんやりと考えながら、お気に入りの音楽と、静かな夜の空気に身をゆだねています。皆さまも、どうか心穏やかな夜をお過ごしください。