
「ボールルームダンスの魅力|音楽と心が共鳴し、意識が覚醒する瞬間」
皆様こんばんはいかがお過ごしでしょうか。
今日は午前中からボールルームダンスに関わる時間に心も身体もたっぷり浸りながらレッスンを受けてきました。
本当に贅沢です。幸せっすぎる!
ボールルームダンスとは—周波数の融合と祈りの舞
ボールルームダンスのスタンダードとは、優雅さと洗練された動きが求められるダンススタイルのことを指します。ワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップ、ウィンナーワルツの5種目が含まれ、ペアで踊ることで生まれる一体感や、フロアを大きく使う流れるような動きが特徴です。
しかし、スタンダードの魅力は単に技術を磨くだけではありません。正しい姿勢や表現力を高め、相手とのコミュニケーションを深めながら、美しく舞うことに本質があります。今日のレッスンでも、音楽に身を委ね、一歩一歩の動きを大切にし、よりエレガントな踊りを目指しました。
ダンスは周波数の融合—音楽と身体、心が共鳴する瞬間
ダンスとは、ただの動きではなく、周波数の融合でもあります。音楽にはそれぞれのリズムや振動があり、私たちの身体もまた固有のリズムを持っています。ペアダンスでは、パートナーと自分、さらに音楽の3つの周波数が調和し、一つの美しい流れを生み出すのです。
最初はバラバラだったリズムも、呼吸を合わせ、相手のわずかな動きを感じながら踊るうちに、まるで波が重なり合うようにシンクロしていきます。その瞬間、ダンスは単なるステップを超え、言葉を使わない会話のようなものへと変わるのです。
意識の覚醒と祈りの舞
この周波数の融合が深まると、意識の覚醒が起こります。自分と相手、そして音楽が一体となり、境界が消えていくような感覚に包まれる。そのとき、人はただ踊っているのではなく、ダンスそのものになっているのです。
これは単なる技術では到達できない領域。相手と共振し、心と体、音楽が完全に調和した瞬間、私たちはより深い次元でつながり、新たな感覚に目覚めるのです。踊り終えた後のあの幸福感、時間が止まったかのような余韻は、まさにその共振が生み出すものなのかもしれません。
古代から続く「祈りとしてのダンス」
ダンスは、単なるエンターテイメントではなく、古来より祈りの形でもありました。日本の神楽、インドのバラタナティヤム、アフリカのトランスダンスなど、多くの文化で「舞うこと」は神聖な儀式の一環として行われてきました。
ボールルームダンスもまた、単なる技術の習得を超え、意識の覚醒や共振を生むもの。パートナーとの調和、音楽との一体感、そして自分自身の内側と向き合う瞬間——それらが重なったとき、ダンスはまるで祈りのような深い意味を持ちます。
まるで音楽の波に身を委ねながら、宇宙のリズムと共鳴するような感覚。そこには、言葉を超えた「祈りの形」が存在しているのかもしれません。
「海外で成長する息子を見守る親の学び|送り出すたびに気づく成長と変化」
皆様こんにちはいかがお過ごしでしょうか。
私は出張から帰ってひと息ついています。
春節で帰国していた息子をまた海外に送り出していつもの日常を取り戻しつつもあります。
息子を送り出すたびに、私は親としての役割の変化を実感します。かつては手を差し伸べ、導くことが当たり前でしたが、今は遠くからそっと見守り、必要なときに支えられる存在でありたいと願うようになりました。
確かに、親の目から見ると、まだまだ未熟な部分も多くあります。それでも、日本を離れ、異国の地で自分の力で生活し、学び、人と関わる経験が、彼の生きるポテンシャルを大きく引き上げているのを感じます。旅を重ねるごとに、彼の語彙の選び方や物事の捉え方に変化が生まれ、視野が広がっているのが伝わってきました。異文化の中で得た学びは、教科書では決して学べない、生きた知恵として彼の中に蓄積されているのでしょう。また、日本と海外で離れているけれど優しい彼女のサポートが異国の彼をどれだけ支えになっているのかよく分かります。本当に感謝しかありません。
一方で、息子の成長を見守ることは、私自身にとっても大きな学びとなっています。親であることの本質は、ただ育てることではなく、共に成長すること。子どもが自分の世界を広げていく姿を目の当たりにするたびに、私もまた、自分の価値観を見直し、より柔軟に物事を受け止める力を試されているように感じます。
「親だからこうあるべき」「子どもにはこうしてあげたい」という思いを少しずつ手放し、彼の選択を尊重し、信じること。それは容易なことではありませんが、信じることこそが、彼の本当の力を引き出すのかもしれません。そして、その過程で私自身もまた、新しい視点を得て、人生の多様性や変化の面白さに気づかされているようです。
彼の話しを聞くとびっくりしたり呆れたりすることばかりでハラハラしますが
それも楽しみのひとつになります。
春節の賑やかさが過ぎ、再びいつもの日常が戻ってきました。仕事に追われる日々が始まる一方で、息子と過ごした時間の余韻が、私の心にほのかな温かさを残してくれています。送り出すたびに増していく寂しさの中にも、確かな誇りと喜びがあることを、今はしっかりと感じています。
「石川直樹氏の挑戦に学ぶ—身体を使って地球を知覚する方法とは?」
皆様こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。明日は東京も雪の予報です。暖かくお過ごしください。
ずいぶんご無沙汰してますが日々の仕事に追われて毎日忙しく過ごしております。1月は何かと集まりが多くなり外食ばかりです。水耕栽培のレタスやクレソンを採取しながらレシピを考えてます。
先日JIDAの賀詞交換会で「石川直樹」さんのお話しをお聞きする機会に恵まれてラッキーでした。
https://www.instagram.com/p/DDOVK3aPHZP/?igsh=em1qbTA2eGhtcHA5
彼の話を聞いて、私は強く心を揺さぶられました。石川直樹さんは、単なる登山家でも写真家でもなく、自らの身体を使って地球を知覚し、その体験を記録する旅人なのだと感じました。彼が歩んできた道は、過去の冒険者や探検家たちが開いた道と重なり、さらにその奥へと続いています。
彼の旅のスタイルは、単に目的地に到達することがゴールではありません。たとえば、ネパールの山岳地帯では、登山とは別に荷物を運ぶ仕事を請け負い、現地の人々と共に過酷な環境を歩いたそうです。そこには、ただ登るだけでは得られない経験があり、地形や気候、文化の中に溶け込むことで初めて見えてくるものがあるのだと言います。そして彼はこう語りました。
「身体を使って地球を知覚する」
この言葉を聞きながら、ふと考えました。私たちは普段、どれほど自分の身体を使って世界を感じているだろう?仕事に追われ、日々の生活に流されていると、いつの間にか「自分の身体を通して世界を知る」という感覚を忘れてしまいがちです。でも、本来、食べることも、歩くことも、踊ることも、すべては「世界を自分の身体で受け止める」行為のはず。
だからこそ、私ももっと意識的に、自分の身体を使って世界を咀嚼してみたい。今、私が手がけている水耕栽培のレタスやクレソンも、その一歩かもしれません。自分で育てたものを収穫し、味わいながらレシピを考える。そんな何気ない日常の中にも、「世界を身体で知る」ヒントが隠れている気がします。
生きているからこそ、もっと身体を動かし、手を使い、足を運び、舌で味わい、肌で感じる。そうやって、私自身の旅を続けていきたいと思います。
そして、石川さんの姿を見ていると、生きていることと死んでいくことの境界線があやふやになるくらいの限界の自然を感じるために、あえてチャレンジするという、その精神に強く惹かれました。そこには、恐怖と隣り合わせの世界に飛び込み、身体全体で「生」を感じようとする意志がある。生きることの実感を得るために、自然の懐に飛び込む。そうした境界線の上を歩く生き方に、言葉にできないほどの憧れを抱きました。