三月の日記以来の続きです。
心停止から続きを書かないという事態になってしまって、すみません。
心停止した人間がこんな普通にブログを書いて嘘みたいですが、本当に去年あった出来事なのです。
ちょうど、本日11/3に病院に行ったので書きます。
12月前半
気づいたら一般病棟にいました。
娘の写真とか見せられるけど、どーでも良くて
声も出ないし、身体も動かないし、どーせ何かしたくても出来ないから、どうでも良くなってました。
夢と現実の区別もつかず、看護師さんたちの話し声がすごい気になって、
覚えてるのは、足をベッドの横の柵にだして、看護師さんに直されてたこと。
柵が冷たくて気持ち良かったんです。
意識はあったけど、反応が思ったようにできなかったので、する気もなくなりました。
看護師さんに後になって話聞いてなんとなく思い出せるのは、とにかく私はイライラしてて、柵をガタガタ揺らしてたこと(笑)あと、ベッドから落ちた話を家族に看護師さんが話してたこと。
イライラしていて、立ちたくて喋りたくて何かを伝えたくて、こんなとこにはいたくない!と思って暴れてました。そうしていたら見事に夜中にベッドから落下。
受け身をとるなんてことは一切出来ず、というかやらず、後頭部を打ち付けました。
高さも高くないし、たいしたことはなかったようですが、その話を次の日に看護師さんが家族に話していて、ものすごく恥ずかかったのは覚えています。
その時は自分がそんな大変なことになってたなんて理解してなくて、なんでもできる気がしてたので。ただただ失敗して笑われていたような感覚でした。
きちんと座ることも出来ない頃あまりに暴れているので私はベッドに両手足つながれてました。ガリバーみたいに(笑)それをはがそうと必死だった記憶もなんとなくあります。
なんで、こんなことをするのか訳がわからなくて。
でもとにかく安静にしてなきゃいけないのに、ガタガタ柵揺らすし、じっとしていないし。
でも私はひたすらイライラしてたんです。起きても思うように動けず立つこともできない。落ちたらもちろん痛いし右手あげてって言われて左手あげてしまう。自分では右手あげてるつもりだから、注意されるとまたイライラが増す。そんなことが永遠に
続くような気がしてました。
今思えば、当時私の右手は手首から先は一切動かなかったのですが、それすらも気付いていなかったように思います。
一ヶ月眠りについていたようなものなので、もちろんごはんなんて食べれないし、隣のおじいちゃんのごはん食べてる音がうらやましくて、それがまたさらにイライラしてました。
とにかくイライラしていた私は自暴自棄のようになっていたのだと思います。
どーせ喋れないんでしょ。と思って喋ろうと努力もしませんでした。
一度だけ夜中に声を出してみようと、
しました。
『あー』
夜中に声を出したら迷惑だし変に思われると思い、なるべく小さい声で。と思って声を出しました。
でも、小さい声どころか出し方が分からなくて、口を開いて、喉を開いて、、それしか出来ませんでした。
しばらくしてある日主治医の先生が旦那さんに『声を出す機械をつけてもいいのですが、彼女は話す気がないので。。。』と話していました。
それを聞いて私は慌てて、口をパクパク!
そんな機械があるのなら、つけて!と心から思いました。
そしたら、次の日くらいに男性の先生が三人くらい主治医の先生ときて、ベッドの周りを囲まれました。三人の先生は『おぉ、この子かぁー。』となにやら少し物珍しいかんじの目をしていたように感じます。
実験やサンプルといったところもあるのかな?と勝手に感じ取りました。
メガネをかけた色黒の30代くらいの先生。40~50代の下町のおじさん風の先生。わりと若いポッチャリめのメガネをかけた先生。
おじさん先生はわりとお気楽なかんじで、『大丈夫だよ、大丈夫。つければすぐ出るよ。』などと喋ってました。
若い先生はただ立って様子をみているだけ。
30代の先生に気管切開をしていた首の中央の穴のところになにかをつけられました。
少し痛かった気もしますが、すぐに終わり、
声をだしてみて。と言われました。
恐る恐る喉を絞るようなかんじで『あぁ~』
『おぉ~~!!』
私が出た!とおもう前に先生達が反応していました(笑)
声は少し変でしたが、しゃべれるようになって、意思が伝えられて本当に嬉しかったです。
それまでは伝えたいことが伝わらなくて口パクでしゃべってたし、旦那さんが持ってきた娘のアンパンマンのアイウエオのボード(文字押すとアンパンマンがしゃべるの)を押して伝えるという手段を試みてました。
しかし、それもおしたいボタンがうまく押せずまたイライラ。大きくて重いしうまく押せない時はボードを叩いてました。右手が動かないので、
左手で押しても左手もうまく動かず力をいれて指で押すことが出来なかったんですね。
意外とああいう子どものキーボードも指の力が必要みたいです。思い通りにいかず、旦那さんのこともよく叩いていました。
なんで家に帰してくれないの?!と心の中でずっと思ってました。
それでもお店の前に毎日病院きてくれて、ほぼ叩かれに来ているようなものなのに、来てくれてました。
声が出せるようになった時も私の声を聞いて泣いてました。
それをみて、笑ってた私(笑) 正直私も泣きそうでした。でもそれまであまり泣いたりするようなタイプではなかったし、二人で病室で泣くのも恥ずかしいし。という照れもあり笑うことしか出来ませんでした。
たぶん目をウルウルさせながら笑っていたと思います。
自分の声ではないし首になにかつけてるし、それがテープでつけてるのてわ、また痒いし。。でも声が出ないよりか全然良くて、痒みなんかもむしろ嬉しいくらいでした。
ある日の朝、たぶんリハビリ用に使う寄りかかる杖というか、それに捕まって前に転がしながら歩けるものを使って移動出来るようになり、勝手に歩いて廊下のおしぼりをとりに行きました。
それがないと立ってもられないのに自分が以前のようになんでも出来るのだと思ったのでしょうね。
おしぼりをとろうとしたら、見事に転んでしまいました。
なんとかこないだベッドから落ちたので頭から落ちたらたぶん受け身はとれないと分かっていたんだと思います。必死で、机の脚かなにかに捕まりながら転んだの尻もちをついた形に。
それでもわりと痛かったのですが、静かに転んだ形になり、転んででもまだ声のだしかたに慣れてないので大きな声を出して変な声になるのかも。と思うと声がだせなくて、ナースステーションは目の前に見えるのに、朝の会議中のようで気づいてもらえず。
起き上がろうと思っても何も出来なくて諦めてボーっとしていました。
一人背の高めのおじいさんがおしぼりをとりに来ました。この子は何をしているんだろう?と不思議そうな眼差し。
私のいた循環器・呼吸器科はたぶん私はが一番若かったのではないかと思います。そんなこともあり、まさか私が立てなくてどうしようもない状況だとは思わなかったのでしょう。
次に65歳くらいのおばあさんがやってきました。
わりと濃いめの化粧に元気な足腰。
たぶん検査入院だったのでしょうね。その方が『立てないの?!ほら!』と私の脇にてを入れ『見た目より重いわね!よいしょ!』と持ち上げてくれました。全く自力では立てなかったので、たぶん全体重をかけてました。
日に日に頭がスッキリしていく中で、あの時助けてくれた人にお礼を言いたかったのですが、当時はぼんやりとしか景色が見えていなくて、誰だったのか分からず結局言えずにいます。
でも、その時に初めて入院って悪いことだけぢゃないな。と感じました。