岩船寺・そして当尾の石仏群(京都府・木津川市) ─ 令和5年11月3日 ─ | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

昨年秋から連投でアップしている南山城=京都府南部のお寺紹介。今回紹介するのは岩船寺、そして当尾の石仏群の紹介をします。

主に先に紹介をした海住山寺参拝と同じ2023年11月3日のレポになりますが、一部12月12日に二度目の訪問レポもあります。

 

 

当尾(とうの) ── 木津川市南東部、加茂地区(旧・加茂町)の南部に位置する旧・当尾村を指す地区。JR加茂駅近辺が市街地として発達しているのに対して、地区の多くを山林が占める自然豊かな里となっています。

 

 

当尾の里の主な観光名所は『浄瑠璃寺』『岩船寺』『当尾の石仏群』となっています。現在当尾の里に門を構える大きな寺院は浄瑠璃寺と岩船寺だけでですが、かつては釈迦寺、東小田随願寺などの多くの歴史ある寺院があり、地域全体が信仰の場となっていました。今はそれらの寺院は廃されましたが、里に数多く残る古い石仏が往年の歴史を伝えているのです。豊かな自然と、点在する信仰の歴史遺産は『当尾京都府歴史的自然環境保全地域として保護地区に指定されています。

 

本来は先に書いた三ヶ所の観光名所をセットで紹介するのが当尾のガイドなのですが、その内の浄瑠璃寺を2020年11月15日のブログ記事『あこがれの吉祥天像 ─ 浄瑠璃寺 令和2年11月8日 ─』で先に紹介をしてしまってました。

 

 

実はこの記事を書いた時に、南山城在住というアメーバ友のあっこさんからコメントで「ぜひ岩船寺も」と勧められ、いずれ岩船寺や当尾の石仏群もブログ記事にするって話をしてたんですよね。それを覚えていたこともあって、今回岩船寺と当尾の石仏群についてブログ記事で書くことにしたのです。

このブログ記事は当尾の里全体を紹介するというスタイルで進めるので、まず石仏群を紹介、続いて岩船寺紹介するという順番で進行して行きます。浄瑠璃寺についてはすでに過去の記事で紹介をしているので、この記事では紹介はしません。

府道756号線から途中で二股に分かれる道あたりから始まります。右に進むと浄瑠璃寺がある西小の里、左に進む林道が続く大門の里に向かいます。今回は大門へ向かう道に進みました。

石仏群は『石仏めぐり』として木津川市が整備したルートを通って巡礼します(下画像、黄色の点線が石仏めぐり散策ルート)。

 

 

●大門仏谷 阿弥陀磨崖仏

石仏めぐり散策ルートの最初に現れる石仏は、大門仏谷 阿弥陀磨崖像です。高さ268cmと当尾の磨崖仏としては最大で、刻銘が無いので年代は不明。鎌倉時代初期とも平安時代後期とも奈良時代まで遡るとも説が分かれ、当尾の石仏の中でも最古の可能性が高いとされています。

磨崖仏は散策ルートから脇に抜け、樹林が繁る側道を下った所で見ることが出来ます。

 

 

●大門石像群

大門の里を通る散策ルートを進むと、次に大門石造群に至ります。この夥しい数の石仏は大門地区に点在した石像群を里人が数日かけて寄せ集めたそうで、室町時代以後に造られたものと鑑定されています。

 

 

 

●首切地蔵

大門の里を通る散策ルートに祀られている石地蔵は『首切地蔵』と呼ばれています。何やら物騒な名を持ちますが、首の部分が大きくくびれているのがこの名の由緒とか、元あった所が首切りの行われた刑場だったのが理由とか言われています。

幾度か位置が移され、現在は釈迦寺という廃寺の跡地に祀られています。「弘長二年戌壬卯月十二日刻彫」の刻銘文があり、弘長2(1262)年は鎌倉時代前期、当尾の石仏では最古の記年を持ちます。

 

 

●藪の中の三仏磨崖像

大門の山林の散策道を抜けて広い県道に突き当たった所にあるのが『藪の中三仏磨崖像』。二つの巨石に彫られた向かって左が阿弥陀如来、中央が地蔵菩薩、右が観世音菩薩という例の無い三尊石像。

「東小田原寺西谷浄土院 弘長二年」と読める刻銘文があります。東小田原寺の西谷浄土院とは浄瑠璃寺の塔頭この石像三は塔頭の本尊の性格を持っていたと考えられてます。弘長2年の刻銘は首切地蔵と同じで、年号が刻銘され確かめられる当尾の石仏として首切地蔵と並び最古です。

 

 

●長尾阿弥陀如来

浄瑠璃寺のアクセス道である県道752号線沿いの、行き交う車輌からも目立つ笠を被った巨石に彫られた阿弥陀像が長尾阿弥陀如来です。蓮弁の台座に乗り定印を結んだ特徴ある阿弥陀像。

刻銘は「徳治二年 未丁四月廿九日造立之」とあり、徳治2(1307)年と鎌倉時代後期に造られたことがわかります。斜めの痛々しい大きな割れ目があり、損壊も危ぶまれましたが補強がされて現在はその心配は無くなったそうです。

 

 

●水呑み地蔵

浄瑠璃寺の東の裏の足元の悪い山林を抜けた他の石仏から少し外れた場所に祀られているのが水呑み地蔵。伊賀から笠置を通って奈良に抜ける道を笠置街道、その旧道がかつて浄瑠璃寺の南を通っており、古くは笠置街道に面して浄瑠璃寺の南大門が建てられていました。南大門は赤門とも呼ばれていたため、現在もここは赤門坂といいます。

その南大門の傍らに建っていた地蔵堂に祀られていたのがこの地蔵尊。近くから湧き水があり、笠置街道を往く旅人が休憩をし水を飲む休憩場所にここがなっており、また柳生新陰流の剣豪・荒木又左衛門がここで休み水を飲んだという言い伝えから『水呑み地蔵』と呼ばれます。

浄瑠璃寺南大門(赤門)は南北朝期の康永2(1343)年の火災で焼失し、地蔵堂も類焼によって失われてしまいました。この石造地蔵の損傷が激しいのは、その罹災の痕と考えられます。

 

 

●アタゴ灯籠

県道を引き返し、藪の中の三仏磨崖像の所まで戻りさらに少し進むと、道端に立っているのがアタゴ灯籠。モダンアートのようなフォルムの石灯籠ですが、これも江戸時代に作られた時代物の石造物です。アタゴ灯籠とは防火の神として祀られている京都市右京区を総本社とする愛宕神社の灯籠で、防火を祈念する目的で京都を中心に全国の街角に立てられ信仰を集めています。台所の神さまとしても信仰を集め、正月にはこの灯籠の火を採って雑煮が炊かれました。

 

 

●カラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏

アタゴ灯籠から散策ルートは東小の里で、この林道に現れるのがカラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏です。まずカラスの壺と呼ばれる石があります。

これは東小田原随願寺という、かつてこの地にあったお寺の建物に使われていた礎石なのですが、その姿が唐臼に似ているところから、地元の人から唐臼→からうす→カラスの壺と呼ばれるようになったそうです。

 

 

このカラスの壺というのはこの辻の名称にもなり、同じ場所にある石仏も『カラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏』と呼ばれるようになりました。

カラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏は、丸みをおびた巨石の西面に阿弥陀如来、北面に地蔵菩薩の二尊が彫られています。散策ルートからだと阿弥陀如来が正面でお地蔵様が陰になっていたので、当初はお地蔵様の彫られている場所が見つからずに探してしましました。

 

 

阿弥陀如来・地蔵菩薩ともに『康永二年』(1343・南北朝期)の刻銘があります。

阿弥陀如来は右に灯明を置く火袋の孔が彫られ、そこに灯籠が線刻で描かれる芸の細かさが印象的です。

 

 

●阿弥陀三尊磨崖像(わらい仏) 地蔵尊(ねむり仏)

カラスの壺の辻を抜けて、先に進むといよいよゴールの岩船の里です。その途中にあるのが阿弥陀三尊磨崖像。散策ルートからは見上げる崖に彫られた石仏です。阿弥陀如来を主尊に、観音・勢至の両菩薩が脇侍として並びます。

 

 

『永仁七年』(1299・鎌倉時代)の刻銘のあるこの三尊仏は、当尾の石仏の中でも人気トップ。保存状態が非常に良いのと、微笑みを浮かべた阿弥陀如来の表情が何とも癒やされ、利益がありそうと一番の評判なのです。

 

 

そして、このわらい仏の傍らにあるのが『ねむり仏』なのですが、案内をする看板は目立つものの、肝心の仏様がどこにも見当たらない。よくよく探してみると…地面の上に首だけを出しただけで、あとは全部地中に埋まっているお地蔵様がいるではありませんか。正直看板が無ければ、そこに地蔵様がいると気がつかなかったのでは無いかと思います。

 

 

このねむり仏を解説する看板の文章がまたいいんです。

 

眠り仏(地蔵石仏)

この石仏は、長い間土の中で

休んでおられます。

それで、いつの間にか、

「眠り仏」の名がつきました。

やすらかにお休みください。

 

小生はこの解説文に、とても癒やされてしまいました。

 

 

●三体地蔵

岩船寺の山道旧道に、巨石に彫られた龕に浮き彫りの三体の地蔵尊が『三体地蔵』。年代は鎌倉時代後期と推定されています。

地蔵尊が三体なのは三界萬霊(欲界・色界・無色界)あるいは“過去” “現在” “未来”を割り当てているとされ、六道輪廻を割り当てた『六地蔵』の初期形態の例として注目をされています。

 

 

●弥勒磨崖仏(ミロクの辻)

奈良と笠置・伊賀を結ぶ笠置街道と岩船寺の参道が交差する場所にあるのが弥勒磨崖仏です。この弥勒磨崖仏があることから里の人から「ミロクの辻」と呼ばれています。「文永十一年」(1274・鎌倉時代)の銘が見られ、線刻ですが保存状態は良好。

この古い線刻仏は、名高い笠置寺の本尊・丈六弥勒大磨崖仏を写したものとして知られます。笠置寺の弥勒磨崖仏は南北朝期の元弘の変(1331年)の戦火によって失われてしまっており、当麻の弥勒磨崖仏は在りし日の笠置寺弥勒磨崖仏の姿を知る貴重な文化財となっています。

 

 

ここで紹介した石仏群は、当尾の石仏群のまだ一部ではあります。鎌倉-室町時代の古い石仏が地域全体にある様は、浄土信仰を中心とした古刹の寺院を巡ったような神聖さと荘厳さを感じることが出来ます。

 

石仏群の紹介はここで置いておくとして、記事の最後は浄瑠璃寺と並ぶ当尾の古刹寺院・岩船寺の紹介で締めます。

 

●岩船寺

当尾の里で浄瑠璃寺と並ぶ古刹寺院として有名な岩船寺(がんせんじ)。寺伝によると天平年間に行基が開いた善根寺(鳴川寺)の阿弥陀堂がその前身で、空海とその甥である智泉大徳が善根寺に灌頂堂を建立したのが草創とされます。

平安初期の弘仁元(810)年に嵯峨天皇の勅命により智泉が皇嗣誕生の祈願を行い正良親王が誕生、その功によって壇林皇后(橘嘉智子)が本願となって善根寺の伽藍は整備され、その時に寺号が岩船寺と改められました。

その後、中世から近世にかけて興福寺一乗院の末寺となり、その一乗院が明治の廃仏毀釈によって廃絶となると無住の期間を経て真言律宗の西大寺の末寺となりました。以後岩船寺は真言律宗の密教系の宗派の寺として今に至っています。

 

 

実はこの日、岩船寺の門をくぐったのは午後4時40分を回っていました。同じ日に他の寺社へも回っていたので、結果5時の閉門20分足らずという時間の到着となってしまったのです。ということで、短い時間で夕方の薄暮の岩船寺を参拝して回ったレポを書いていきます。

岩船寺を拝観する前に山門右脇が参道となっている、白川神社にまず参拝をしました。白川神社は現在は岩船区の氏神ですが、明治の神仏分離令が施行される前は岩船寺の鎮守として祀られていました。

白川神社には檜皮葺きの一間社春日造りの外観がそっくりな本殿が二棟並んで建っています。向かって左が『白川神社本殿』室町時代築で国の重要文化財、右が『摂社春日神社本殿』江戸時代築で京都府登録文化財。白川神社本殿は岩船寺五重塔と同時期に建てられたと考えられ、摂社春日神社本殿はその白川神社本殿を模した社殿です。

 

 

鎮守の白川神社へのお参りも済ませ、いよいよ山門をくぐって岩船寺境内へと入ります。岩船寺の伽藍は本堂と三重塔、それに小さなお堂と石造物が幾つか点在するというシンプルなものとなっていました。

 

画像引用:岩船寺HP

 

山門をくぐると正面には浄土庭園の中心となる阿字池、そしてその先に見えるのが池の水面に影を映す美しい三重塔です。国の重要文化財です。

 

 

『南山城三塔』(海住山寺 五重塔・浄瑠璃寺 三重塔・岩船寺 三重塔)の一つに数えられる三重塔。寺伝では智泉大徳の入滅10年後となる承和年間(834~847)に仁明天皇の勅願で建立されたとされています。

昭和18(1943)年の解体修理で「嘉吉三年」(1442)の銘文が見つかり、現在の三重塔は鎌倉時代末期の承久の乱の戦火以後、室町時代の再建と考えられています。

 

 

その姿も美しい三重塔ですが、何と言ってもこの塔の名物と言えば『隅鬼』。塔の屋根の下の四隅、垂木の上に置かれた天邪鬼の木彫です。

 

 

 

何ともユーモラスな姿は岩船寺のマスコットとして愛され、寺の名物となっています。受納所ではこの隅鬼を象った、魔除けの根付けがお守りとして売られていました。

 

画像引用:岩船寺HP

 

さて、小生が参拝した時には祈りの回廊として岩船寺でも秋の特別公開が行われていて、小生もそのタイミングを狙って参拝にこの日を選んだのです。この時の岩船寺での特別公開の内容は『秘宝秘仏特別公開』『三重塔初層特別開扉』でした。

 

 

小生はまず三重塔へ、特別開扉となっている初層内部を見に行きました。

三重塔は東面と西面の扉が開けられていて、内部がライトで明るくなっていました。外が薄暗くなっていたことで、初層内部が薄暮に浮かび上がっていたのです。

そして扉の前には「撮影OK」のプレートが。ブロガーとしてはこれは嬉しいことでした。

 

 

 

塔には心柱や四天柱は無く、須弥壇中央に来迎柱という二本の柱が立てられる

という特徴的な構造となっています。その二本の柱の間に来迎壁と呼ばれる板壁が張られ、両面に壁画が描かれています。

正面となる東面の来迎壁 壁画は十六羅漢図(画像下)

 

 

その裏面となる西面の来迎壁 壁画は五大明王像が描かれています。(画像下)

板戸の裏に描かれているのは十六方位を守護する八方天、周囲壁面に描かれているのは真言八祖像です。

いずれの壁画も、平成12(2000)年から行われた修理保存に合わせて当初の極彩色に再現されたものです。

 

 

境内には鎌倉時代造の石造物が多く、石仏でいっぱいの当尾らしさは岩船寺の境内でも体感できました。

阿字池のほとりに立てられた十三重石塔は高さ5.5m。鎌倉時代中期造とされ国の重要文化財に指定されています。

 

 

山門前には『石風呂』と呼ばれる、鎌倉時代造とされる石造物が置かれています。疫病避けの儀式に使われたとも、修行僧が御祓に使ったとも言い伝えられています。小生には古墳の石棺のように見えましたが…

 

 

そして、本堂前へ。本堂の向かい側には鎌倉時代造の石造物が集められていました。順に紹介して行きます。

 

 

向かって右の石室は『石室不動明王』。花崗岩に薄彫りされた不動明王像には「応長二(1312)第二初夏六日」の銘があり、鎌倉時代末期に造像されたことがわかります。不動明王が浮き彫りされた石板を寄棟風の石造りの石室が覆うという珍しい様式で、国の重要文化財に指定されています。

 

 

向かって左が『五輪石塔』高さ235cmで記銘はありませんが、五輪塔下部の返花座は大和式五輪塔の特徴で、鎌倉時代末期の五輪塔の代表様式として国の重要文化財に指定されています。

寺伝では東大寺別当の平智僧都の墓と伝えられていますが、東大寺では平智という名の別当は記録に無く伝承の真偽は不明。元は近隣の墓所に立っていましたが、昭和12(1937)年に岩船寺に移されたそうです。

 

 

そして五輪塔と石室不動明王の間の中央に建つ入母屋の瓦葺き小堂が地蔵堂。その地蔵堂に安置されているのが、石造の地蔵菩薩坐像『厄除け地蔵菩薩』です。鎌倉時代末期に造られたとされます。

 

 

岩船寺が真言密教を宗派としたのは明治になってからですが、それ以前からも真言密教修行者の道場として知られ、真言密教の例祭である大護摩供の本尊とされて来たのがこの地蔵尊であります。現在も岩船寺では三月初午の日には、この地蔵尊の前で柴燈大護摩供が厳修されます。

 

柴燈大護摩供 画像引用:京都奈良.jp

 

そして、いよいよ小生は本堂へ。短い時間ではありましたが拝観をさせてもらいました。

本堂は昭和63(1993)年と近年再建された新しい建物。その前に建っていたのは明治末期に建立された仮本堂だったのですが、老朽化著しく建て替えがされたのです。

 

 

小生も急ぎ足で堂内の拝観をさせていただきました。

 

岩船寺 本堂内陣 画像引用:やまびとツアーズ

 

須弥壇中央の本尊は『阿弥陀如来坐像』、像高284.5cmの丈六仏で国の重要文化財。腕が太く胴体も肉厚な造形は、平安前期から中期への過渡期の様式とされます。単独の阿弥陀如来像で定印を結ぶ印相の像はこの岩船寺が最古。後に一般的となる阿弥陀如来像の先駆けとして注目されています。

明治時代に発見された墨書から天慶9(946)年9月2日に梵字が入れられたことがわかりました。小生が拝観した時には堂内に僧侶の方が解説をされていて、同じ阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂を引き合いに出されて「平等院鳳凰堂の阿弥陀如来は天喜元(1053)年に梵字が入れられていて、この岩船寺の阿弥陀様はその百年も前のとてもご由緒のある仏様なのです」と強調して話されていました

 

阿弥陀如来坐像[平安時代・重文]

画像引用:古寺巡礼 京都南山城の仏たち(京都美術 発刊)

 

そして本尊 阿弥陀如来坐像を四天王像が取り囲みます。四天王像は鎌倉時代造、府指定文化財の指定を受けています。多聞天に「権少僧都 英春の発願で正応6(1293)年に造立」の墨書銘が記されています。

英春は当時 岩船寺の本山だった興福寺僧と考えられています。興福寺では鎌倉時代は優れた仏像が造像された時代で、岩船寺にもこの四天王像が伝えられているのです。

 

画像引用:岩船寺パンフレット

 

そして、本堂で見られる、もう一つの平安時代の重要文化財『普賢菩薩騎象像』。大乗仏教で崇拝される菩薩で、密教寺院の岩船寺では悟りを求める心の象徴と説かれています。昨年秋に鑑賞した奈良国立博物館での『特別展 聖地 南山城』では、岩船寺からはこの像が出展されました。

岩船寺の普賢菩薩はその造形から平安時代後期に造られたと推定され、寺伝は智泉大徳が造ったと伝えられています。奈良国立博物館での展示は、像が単体で出展されてましたが…

 

画像引用:奈良国立博物館『特別展 聖地 南山城』(令和5年)図録

 

岩船寺では室町時代造の極彩色の法華曼荼羅厨子に納められて安置されていいました。

 

画像引用:岩船寺パンフレット

 

この日は秋の秘宝特別公開として『岩船寺縁起』(江戸時代)や、秘仏『如意輪観音菩薩像』(江戸時代)、『弁財天像』(江戸時代)などの多くの貴重な寺宝を須弥壇裏で拝観することも出来ました。

 

  

岩船寺縁起[江戸時代] 画像引用:岩船寺パンフレット

 

 

左:秘仏如意輪観音菩薩[江戸時代] 画像引用:岩船寺HP

右:秘仏 弁財天像[江戸時代]  画像引用:祈りの回廊

 

こぢんまりとした岩船寺の境内でしたが、20分弱で周りのはなかなか忙しい感じとなったものの、しっかりと本堂で御朱印を書いていただきました。御朱印は「本尊 阿弥陀如来」です。

 

こうして20分も無かった岩船寺拝観を終えると、小生は暮れ行く当尾の里を後にしたのでした。

後に当尾の里はその自然の豊かさも加わって、地域全体をめぐり歩けばまるで大伽藍の大きな寺院を巡り歩いたような感覚を体感出来る、里ごと仏教寺院というような不思議な場所でありました。

それは、木津川市が自然を活かしながら「石仏めぐり」の散策ルートがしっかりと整備していたことも大きかったとも大きかったと思います。木津川市は歴史を体感出来る街作りが実に上手と思います。

 

 

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