当尾の石仏群めぐり(1月20日記事 追記) | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

前回、1月20日の記事『岩船寺・そして当尾の石仏群(京都府・木津川市) ─ 令和5年11月3日 ─』で南山城(京都府南部)の当尾の里を紹介しました。平安時代の阿弥陀如来を本尊とする岩船寺と、当尾の里に点在する石仏群を紹介しましたが、前回に10躰の石仏したのに加えて、先日2月4日にまた当尾の里を訪れ、さらに5躰の石仏を追加で参拝しました。

1月20日の記事にその追加分を追記として書こうと思ったのですが、またも文字数オーバーで追記が出来ず。やもうえず、前回の記事から当尾の石仏群の記事だけを切り取って、そこに追加の5躰の石仏の記事を追記した新たな記事をあげることにしました。前回の記事の追記なので、10躰の石仏の記述は紹介文も含め前回の記事をそのままの引用となっています。よければ1月20日の前回の記事と合わせてお読みください。

 

今回の追加分も含めた修正版『石仏めぐり』の地図を下に貼ります(黄色の点線が石仏めぐり散策ルート)。

 

 

●大門仏谷 阿弥陀磨崖仏

石仏めぐり散策ルートの最初に現れる石仏は、大門仏谷 阿弥陀磨崖像です。高さ268cmと当尾の磨崖仏としては最大で、刻銘が無いので年代は不明。鎌倉時代初期とも平安時代後期とも奈良時代まで遡るとも説が分かれ、当尾の石仏の中でも最古の可能性が高いとされています。

磨崖仏は散策ルートから脇に抜け、樹林が繁る側道を下った所で見ることが出来ます。

 

 

●大門石像群

大門の里を通る散策ルートを進むと、次に大門石造群に至ります。この夥しい数の石仏は大門地区に点在した石像群を里人が数日かけて寄せ集めたそうで、室町時代以後に造られたものと鑑定されています。

 

 

 

●穴薬師

大門石像群がある春日神社の所で散策ルートは二股になり、左に曲がると300mくらいで穴薬師に着きます。

鎌倉時代造と推定されるかわいらしい小仏で、石龕の祠に納められているのが特徴。地元では「耳の病気に御利益がある」と信仰を集めています。

 

 

●首切地蔵

穴薬師から元の散策道に戻り、真っ直ぐ歩くとすぐに『首切地蔵』と呼ばれる石地蔵尊に着きます。

何やら物騒な名を持ちますが、首の部分が大きくくびれているのがこの名の由緒とか、元あった所が首切りの行われた刑場だったのが理由とか言われています。

幾度か位置が移され、現在は釈迦寺という廃寺の跡地に祀られています。「弘長二年戌壬卯月十二日刻彫」の刻銘文があり、弘長2(1262)年は鎌倉時代前期、当尾の石仏では最古の記年を持ちます。

 

 

●藪の中の三仏磨崖像

大門の山林の散策道を抜けて広い県道に突き当たった所にあるのが『藪の中三仏磨崖像』。二つの巨石に彫られた向かって左が阿弥陀如来、中央が地蔵菩薩、右が観世音菩薩という例の無い三尊石像。

「東小田原寺西谷浄土院 弘長二年」と読める刻銘文があります。東小田原寺の西谷浄土院とは浄瑠璃寺の塔頭この石像三は塔頭の本尊の性格を持っていたと考えられてます。弘長2年の刻銘は首切地蔵と同じで、年号が刻銘され確かめられる当尾の石仏として首切地蔵と並び最古です。

 

 

●長尾阿弥陀如来

浄瑠璃寺のアクセス道である県道752号線沿いの、行き交う車輌からも目立つ笠を被った巨石に彫られた阿弥陀像が長尾阿弥陀如来です。蓮弁の台座に乗り定印を結んだ特徴ある阿弥陀像。

刻銘は「徳治二年 未丁四月廿九日造立之」とあり、徳治2(1307)年と鎌倉時代後期に造られたことがわかります。斜めの痛々しい大きな割れ目があり、損壊も危ぶまれましたが補強がされて現在はその心配は無くなったそうです。

 

 

●水呑み地蔵

浄瑠璃寺の東の裏の足元の悪い山林を抜けた他の石仏から少し外れた場所に祀られているのが水呑み地蔵。伊賀から笠置を通って奈良に抜ける道を笠置街道、その旧道がかつて浄瑠璃寺の南を通っており、古くは笠置街道に面して浄瑠璃寺の南大門が建てられていました。南大門は赤門とも呼ばれていたため、現在もここは赤門坂といいます。

その南大門の傍らに建っていた地蔵堂に祀られていたのがこの地蔵尊。近くから湧き水があり、笠置街道を往く旅人が休憩をし水を飲む休憩場所にここがなっており、また柳生新陰流の剣豪・荒木又左衛門がここで休み水を飲んだという言い伝えから『水呑み地蔵』と呼ばれます。

浄瑠璃寺南大門(赤門)は南北朝期の康永2(1343)年の火災で焼失し、地蔵堂も類焼によって失われてしまいました。この石造地蔵の損傷が激しいのは、その罹災の痕と考えられます。

 

 

●浄瑠璃寺奥之院不動

前述の長尾阿弥陀如来の近くに府道752線から左の山林に続く散策道へ続く辻があります。浄瑠璃寺奥之院不動に続く参道です。浄瑠璃寺の奥之院という位置づけですが、仏堂などの建物は無く、石造の露天仏があるだけの場所です。

参拝にはこの散策道を行き、丘を越えて沢へと続く谷を下ってゆくのですが、この散策道が相当な難所。片道約500mほどもある急な階段の山道を下って行くと、清水に架かった丸太橋を渡ることになります。ちょうどこの日は雨で濡れていて、ここを渡るのは相当な恐怖との戦いでした。

 

 

こうして到着したのが『浄瑠璃寺奥之院不動』です。浄瑠璃寺の奥之院ということですが、極楽阿弥陀浄土の世界が広がる浄瑠璃寺とは違った不動尊像が立つ密教系の修行場の様相となっていました。湧き水が流れる岩場に現在は確認も難しいわずかな線刻仏が見られ「西小田原 永仁四(1296)季申丙二月四日」の刻銘から鎌倉時代中期に開かれたことが確かめられています。線刻仏は京都府登録文化財に指定されていますが、現在の本尊は昭和になって彫られた不動明王立像。

下の画像の剣を持つ左の像が不動明王で、右に小さく写っているのが脇侍の制吒迦童子。もう一尊の脇侍である矜羯羅童子は不動明王像の足元にわずかに見えています。

実はこの不動明王像、本来は写真中央の大岩の上に立てられていたのですが、2020年に落石があり倒れてしまい、元の場所の下に立て直され今に至っています。

 

 

 

●アタゴ灯籠

県道を引き返し、藪の中の三仏磨崖像の所まで戻りさらに少し進むと、道端に立っているのがアタゴ灯籠。モダンアートのようなフォルムの石灯籠ですが、これも江戸時代に作られた時代物の石造物です。アタゴ灯籠とは防火の神として祀られている京都市右京区を総本社とする愛宕神社の灯籠で、防火を祈念する目的で京都を中心に全国の街角に立てられ信仰を集めています。台所の神さまとしても信仰を集め、正月にはこの灯籠の火を採って雑煮が炊かれました。

 

 

●カラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏

アタゴ灯籠から散策ルートは東小の里で、この林道に現れるのがカラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏です。まずカラスの壺と呼ばれる石があります。

これは東小田原随願寺という、かつてこの地にあったお寺の建物に使われていた礎石なのですが、その姿が唐臼に似ているところから、地元の人から唐臼→からうす→カラスの壺と呼ばれるようになったそうです。

 

 

このカラスの壺というのはこの辻の名称にもなり、同じ場所にある石仏も『カラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏』と呼ばれるようになりました。

カラスの壺 阿弥陀地蔵磨崖仏は、丸みをおびた巨石の西面に阿弥陀如来、北面に地蔵菩薩の二尊が彫られています。散策ルートからだと阿弥陀如来が正面でお地蔵様が陰になっていたので、当初はお地蔵様の彫られている場所が見つからずに探してしましました。

 

 

阿弥陀如来・地蔵菩薩ともに『康永二年』(1343・南北朝期)の刻銘があります。

阿弥陀如来は右に灯明を置く火袋の孔が彫られ、そこに灯籠が線刻で描かれる芸の細かさが印象的です。

 

 

●一鍬地蔵

カラスの壺で道は分岐路になっていて、左に進むと岩船寺に至りますが、右に進むとあるのが一鍬地蔵です。散策道から仰ぎ見る数メートルの高さに彫られた線刻仏で、鍬で搔き削ったように平らになった岩肌にそ仏影を彫ったところからこのように呼ばれるようになったとされます。

本来は鎌倉時代中期に彫られた高さ165cmの線刻の地蔵尊で、かつては上に笠石が乗っていたそうですが、今は笠石は無く、磨崖仏も風化によって摩滅し像影はほぼ見えなくなってしまっていました。

 

 

●阿弥陀三尊磨崖像(わらい仏) 地蔵尊(ねむり仏)

カラスの壺の辻を抜けて、先に進むといよいよゴールの岩船の里です。その途中にあるのが阿弥陀三尊磨崖像。散策ルートからは見上げる崖に彫られた石仏です。阿弥陀如来を主尊に、観音・勢至の両菩薩が脇侍として並びます。

 

 

『永仁七年』(1299・鎌倉時代)の刻銘のあるこの三尊仏は、当尾の石仏の中でも人気トップ。保存状態が非常に良いのと、微笑みを浮かべた阿弥陀如来の表情が何とも癒やされ、利益がありそうと一番の評判なのです。

 

 

そして、このわらい仏の傍らにあるのが『ねむり仏』なのですが、案内をする看板は目立つものの、肝心の仏様がどこにも見当たらない。よくよく探してみると…地面の上に首だけを出しただけで、あとは全部地中に埋まっているお地蔵様がいるではありませんか。正直看板が無ければ、そこに地蔵様がいると気がつかなかったのでは無いかと思います。

 

 

このねむり仏を解説する看板の文章がまたいいんです。

 

眠り仏(地蔵石仏)

この石仏は、長い間土の中で

休んでおられます。

それで、いつの間にか、

「眠り仏」の名がつきました。

やすらかにお休みください。

 

小生はこの解説文に、とても癒やされてしまいました。

 

 

●一願不動(岩船寺別院)

岩船寺の横を通る府道47号線かを歩いていると「一願不動 岩船寺奥院不動」という看板が立てられた、道路下へ降りる一願不動へ通じる脇道があります。

一願不動は等身大の線刻磨崖仏で「弘安十年(1287)亥丁三月廿八日 於岩船寺僧□□之会造立」の刻銘から鎌倉時代後期の造像であることがわかります。岩船寺は元は「報徳院」という名称で行基が創建したという寺伝が伝えられていますが、現在の『岩船寺』の寺号が確かめられる最も古い記録がこの一願不動の刻銘であります。

そのこともあり、この不動尊は岩船寺の奥院の扱いとなっています。「一心に願えば一つだけ願いが叶う」と信仰を集めています。

 

 

●六体地蔵

現在も墓地でよく見かける六道輪廻で衆生を救うとされる六地蔵、岩船の六地蔵は『岩船墓地六地蔵石龕仏』と呼ばれ、一つの石龕に六地蔵が浮き彫りになっているという珍しいスタイルの地蔵となっています。南北朝の造像と推測されています。

 

 

●岩船観音寺跡

六体地蔵の西の山中に『岩船観音寺跡』があります。寺跡は広場になっていて、笠塔婆、箱形石仏、六字名号板碑などの室町時代から江戸時代の石造物が集められています。

シンボリックな笠塔婆は高さ210cmで、南北時代に造られました。

 

 

●三体地蔵

岩船寺の山道旧道に、巨石に彫られた龕に浮き彫りの三体の地蔵尊が『三体地蔵』。年代は鎌倉時代後期と推定されています。

地蔵尊が三体なのは三界萬霊(欲界・色界・無色界)あるいは“過去” “現在” “未来”を割り当てているとされ、六道輪廻を割り当てた『六地蔵』の初期形態の例として注目をされています。

 

 

●弥勒磨崖仏(ミロクの辻)

奈良と笠置・伊賀を結ぶ笠置街道と岩船寺の参道が交差する場所にあるのが弥勒磨崖仏です。この弥勒磨崖仏があることから里の人から「ミロクの辻」と呼ばれています。「文永十一年」(1274・鎌倉時代)の銘が見られ、線刻ですが保存状態は良好。

この古い線刻仏は、名高い笠置寺の本尊・丈六弥勒大磨崖仏を写したものとして知られます。笠置寺の弥勒磨崖仏は南北朝期の元弘の変(1331年)の戦火によって失われてしまっており、当麻の弥勒磨崖仏は在りし日の笠置寺弥勒磨崖仏の姿を知る貴重な文化財となっています。

 

 

当尾の鎌倉-室町時代の古い石仏が地域全体にある様は、浄土信仰を中心とした古刹の寺院を巡ったような神聖さと荘厳さを感じることが出来ます。

今回は大門から浄瑠璃寺、岩船寺近辺の石仏群を紹介しました。しかし、当尾の里の範囲はさらに広く、まだ紹介が出来ていない古い石仏も数多くありますので、いつかそれらを紹介する記事も書けたらと考えています。

 

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