海住山寺(京都府・木津川市) ─ 令和5年11月3日 ─ | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

8月に記事をアップした奈良国立博物館での『特別展 聖地南山城』の記事以後連投している南山城=京都府南部のお寺紹介、今回紹介するのは11月3日に参拝した海住山寺です。南山城三塔と呼ばれる五重塔の初層開扉の特別公開が行われているタイミングでこの秋に参拝をしました。

海住山寺は木津川市加茂町例幣、10月19日の記事で紹介しました恭仁宮跡のちょうど真北1.3kmの三上山の山中に門を構える山寺です。地元では恭仁宮とセットの観光スポットとして紹介されることが多いようようです。

創建の由緒は確かな記録があるわけではありませんが、寺伝では聖武天皇の勅願で東大寺初代別当 良弁が開山したとなっています。

 

 

その後、平安時代後期である保延3(1137)年の大火によって全山焼失した後70年間放置されていましたが、9月28日にアップした笠置寺の記事でも紹介をした、鎌倉時代の興福寺僧・貞慶によって再興されています。笠置寺に住していた貞慶は承元2(1208)年に海住山寺を居所を移し、亡くなるまでの5年間を過ごしました。

最近の山の寺の参拝はふもとから参道の山道を登っていくことが多かったのですが、今回は自家用車で寺の駐車場まで一気に登ったので、登山の苦労話は無く寺の紹介が出来そうです。山門は参道からの急な石段の上にありますが…

 

 

拝観受付はその山門を通り過ぎた境内の右(北)側が拝見受付となっていました。参拝者は急な石段を登ること無くスロープで拝観出来ます。拝観受付には祈りの回廊の特別公開の看板が立て掛けられ、秋季特別公開の雰囲気を盛り上げていました。

 

 

山門とその近くにある鐘楼は、江戸時代に建てられ京都府暫定登録有形文化財に指定されています。

 

 

小生が今回拝観した主な場所は本尊十一面観音が特別公開となっている本堂、初層開扉の五重塔、恭仁京や平城京まで見渡せる遙拝所、それと庭園が秋季特別公開となっていた本坊でした。順に紹介をして行きます。

今回のブログ記事は一部、夏に鑑賞をし8月17日に記事を書いて紹介をしました奈良国立博物館の『特別展 南山城』も取り上げます。

 

海住山寺全景  画像引用:『海住山寺の美術』(海住山寺編・刊 文字は小生追記)

 

まずは、特別公開中だった本尊の十一面観音立像[平安時代・重文]の拝観です。

本堂は明治17(1881)年の再建となる入母屋造りの堂々とした仏殿。本尊十一面観音菩薩立像はこの本堂の須弥壇に置かれた御厨子の中で安置されています。

 

 

普段は閉ざされている本尊の厨子の扉ですが、この時は特別開扉で開けられ拝むことが出来たのです。

小生がこの仏像を拝観するのは、7月に奈良国立博物館での『特別展 聖地南山城』以来二度目となります。奈良国立博物館での特別展では展示番号1番と出展物の筆頭を飾り、南山城を代表する仏像とされていることがわかります。

 

画像引用:奈良国立博物館『特別展 聖地 南山城』図録

 

像高168センチメートルの等身大の観音像。彫像方法などから平安時代中期の10世紀頃に造像されたとされていますが、顔立ちや衣文などは天平仏を彷彿とさせる古様で、あるいは奈良時代創建時の本尊を模倣したのかも知れません。

 

画像引用:古寺巡礼 京都南山城の仏たち(京都 南山城古寺の会編・東京美術刊)

 

本堂には他に阿弥陀如来坐像[平安時代]、不動明王立像[平安時代]などの平安時代作の仏像の佳作を始めとする、平安・鎌倉時代の仏像が多く安置されていました。海住山寺には耐火の収蔵庫が無いので、寺宝の多くが本堂に集められているのです。

 

 

左 阿弥陀如来坐像  右 不動明王立像

画像引用:『海住山寺の美術』(海住山寺編・刊)

 

御朱印もこちらの本堂で戴きました。御朱印の通り『観音霊場』として古くから信仰を集めて来たのが海住山寺。海住山寺の山号は補陀落山(ふだらくさん)と言い、玄奘三蔵が記した「大唐西域記」には南インド海浜にあると紹介されている、観音菩薩が降臨する伝説の山のこと。海住山寺の寺号も貞慶によって、この補陀落山から付けられました。まさに南山城の観音降臨の地として信仰を集めて来たのです。

 

 

本堂は明治元(1868)年5月の豪雨で発生した土砂崩れで大破したために近年に建て替えられた比較的近年のお堂ですが、本堂の近く、向かって右脇に建てられている文殊堂は風雨の被害はあったものの大破は免れた古い時代の建物です。

文殊堂は寄棟造の銅葺きの建物で、元仁2(1225)年の貞慶の十三回忌に建立された経堂の遺構だという説が有力。鎌倉時代前期の貞慶の復興期の遺構として国の重要文化財に指定されています。

 

 

文殊堂と言うくらいですから本尊は文殊菩薩のはずなのですが、確かに文殊堂には平安時代末期造の文殊菩薩騎獅像は安置はされてはいたものの…

 

文殊菩薩騎獅像  画像引用:『海住山寺の美術』(海住山寺編・刊)

 

文殊堂の真ん中に安置されていたのは文殊菩薩像では無く、『役行者倚像及び前鬼・後鬼坐像』[鎌倉時代]で、文殊菩薩は文殊堂の向かって左に寄せられていたのです。役行者とは修験道の祖とされる伝説上の行者で、法力で前鬼・後鬼の二匹の鬼を使役していたと伝えられ、役行者像はこの三尊で現されます。

役行者像の向かって右には鎌倉時代造の地蔵菩薩が置かれていて、役行者を二躰の仏像が脇を固めるという、文殊堂と言いながら行者堂の様相となっていました。

 

役行者倚像及び前鬼・後鬼坐像  画像引用:『海住山寺の美術』(海住山寺編・刊)

 

秋季特別公開、次に向かったのは五重塔 初層公開です。南山城三塔に数えられる海住山寺五重塔は境内の南に建っていました。

 

 

初層一辺2.74m、高さ17.7mと室生寺に次ぐ日本二番目の小ささのかわいらしい「五重塔ですが、ふもと側の崖際に建っていることもあり、恭仁宮のある瓶原の里からから遠望出来る、海住山寺のランドマークとなっているということですが…。実際に瓶原…恭仁宮跡からは五重塔は見えませんでした。

ふもとから海住山寺の五重塔が見るためには、恭仁宮より1.5kmも東、加茂町北小谷までまわらなくてはなりませんでした。

 

 

この塔は貞慶の一周忌に、弟子である覚真によって落慶したと記録されています。正直小生は意外と思ったのですが、海住山寺の五重塔は鎌倉時代築の五重塔として現存している唯一の遺構、そのこともあり、海住山寺で唯一の国宝に指定されています。日本全国でもたった9基しか指定されていない国宝の五重塔の一つです。

鎌倉時代築の建築物が日本各地に数多くあることを考えると、五重塔がひとつも無いというのは意外でした。五重塔はその高さから落雷の被害に遭いやすいのかも知れません。

 

その五重塔の初層公開は、北側の扉から行われていました。初層は四畳半の広さにも満たない狭い空間で、扉の外からのぞき込むように拝観をします。

 

 

海住山寺の五重塔には心柱が無く、内陣に四天王柱と呼ばれる4本の柱が立てられ、その柱を四隅にした厨子として造られているという、非常に個性的な構造となっていました。

五重塔初層厨子には、『特別展 聖地南山城』にも出展されていた、国の重要文化財に指定されている四天王像立がかつてここに安置されていたそうですが…

 

   

四天王立像[鎌倉時代・重文] 画像引用:奈良国立博物館『特別展 聖地 南山城』図録

 

四天王像は現在 委託管理として奈良国立博物館にあり、厨子の中は空っぽでした。しかし、初層全体には一面に宝相華や牡丹唐草の文様が鮮やかな彩色で残り、「これが貞慶の時代の彩色壁画か」と思うと目を奪われました。

 

画像引用:http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k10.html

 

 

画像引用:http://kaijyusenji.jugem.jp/?eid=192

 

奈良国立博物館での『特別展 聖地南山城』には、この厨子の諸尊の絵が描かれた扉が外されて展示されていました。国宝の五重塔の一部ということで国宝としての出展、海住山寺五重塔の素晴らしさの一端を垣間見ることが出来たのが記憶に残っています。

 

 

五重塔初層内陣扉絵[鎌倉時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

境内の南端に建つ五重塔から山の尾根を少し下った所に、海住山寺中興の祖である貞慶(解脱上人)とその中興二代目の覚真の供養墓があると案内があったので、そちらにも足を運んでみようと約100メートルほど山道を下ってみました。

 

 

貞慶と覚真の供養墓は並んだ石切り七段の基壇の上に立てられた五輪塔です。向かって左の覚真供養墓は室町時代の複数の五輪塔の石材残片を組み合わせたもの、右の貞慶供養墓は平成25(2013)年に新造されたもの。

いずれも両者が没した鎌倉時代以後に造られた新造の墓ですが、海住山寺ではここを中興二代の祖を供養する場としています。

 

 

そして、大和平野を見渡せる海住山寺の裏山の遙拝所へ。ここは本堂を拝観した時に案内をしていただいた僧侶の方から勧められて登りました。

話をしたのは海住山寺の由緒のことでした。

「このお寺は場所からして、恭仁京の時代に建てられたのでしょうか」

「いいえ、海住山寺は恭仁京遷都より前に建てられました。聖武天皇は東大寺大仏造立成就を願い、良弁僧正に命じ東大寺の鬼門の方角に良弁が感得した十一面観音を本尊に藤尾山観音寺という寺を開山しました。それが後に海住山寺になったのです」

 

海住山寺縁起絵巻[江戸時代] 画像引用:『海住山寺の美術』(海住山寺編・刊)

上巻 第一段 聖武天皇の命によって十一面観音を本尊に海住山寺を創建

 

そして、その僧侶の方は遙拝所を紹介し「ご由緒の通りに平城宮が望めますよ」と説明を戴いたのでした。

遙拝所へは本堂の裏から急坂を登って行きます。遙拝所への登り口には、ヤマモモの巨樹が植生しています。幹周5.9メートルの京都府最大のヤマモモで、京都の自然二百選に選ばれている大樹です。

 

 

少し汗をかきながら参道を登って遙拝所に到着です。眺めの良い展望台のような広場となっていました。

 

 

遙拝所とは遠くにある神社仏閣を奉拝する場所という意味で、展望台のような広場には祭礼をためのものと思われる神社の社殿のような建物もありましたが、ここが具体的に何を奉拝するための遙拝所なのかちょっとわかりませんでした。

でも、先ほどの僧侶の方のお話を聞いた感じでは平城京と東大寺を奉拝するための場所なのかなと思いました。

話に聞いた通り、平城宮が見えるかどうか、望遠レンズを手にその眺めを確かめて見ました。

 

 

自慢のニッコールAF-S70-200mmにテレコンバーターTC17EIIを付けて340mm相当の望遠効果での撮影に挑んだところ、東大寺は見えませんでしたが、平城宮跡はJR木津駅方向に再建中の南門の工事の覆屋らしい建物がうかがうことが出来ました。

 

 

 

本堂の十一面観音、五重塔初層と続いた秋季特別公開、その最後となる三つ目は本坊庭園公開です。境内の北側にある本坊の方に向かいました。

 

 

本坊は書院造りで、屋内の写真撮影OKとあったのでいっぱい写真を撮りました。

 

 

畳の間には『漢武帝西王母遇・明皇楊貴妃並笛図屏風』(下画像左)と『明皇撃梧桐図襖』(下画像右)と、唐代の長恨歌に読まれる玄宗皇帝と楊貴妃の物語を狩野派の絵師が描いた桃山時代の屏風・襖絵が置かれていました。

 

 

そして、書院から望む園。襖を通して書院から愛でる庭園は『額縁庭園』と呼ばれます。特に紅葉の季節には、掛け軸の絵画を見るような美しい情景となります。

 

 

南山城の美しい山並みを借景とした枯山水は江戸時代の庭園として、海住山寺の名所となっています。庭に数多く置かれた石造物には鎌倉時代造の物も多く、歴史の深さも感じることが出来ます。

 

 

さらに本坊の奥には、奥の院に建っています。今回の秋季特別公開では非公開ではありましたが、海住山寺を代表する宝物を所蔵しているということで、ブログ記事の最後に奥の院についても触れておきたいと思います。

 

 

 

奥の院の本尊は『十一面観音菩薩立像』[平安時代・重文]、奈良国立博物館が委託管理しているため、特別公開でも海住山寺で見れることは稀の仏像です。

 

十一面観音菩薩立像[平安時代・重文] 画像引用:奈良国立博物館・なら仏像館 名品図録

 

貞慶の持念仏であったと伝えられる仏像で、像高45.4cmと本堂本尊の十一面観音と違って小仏ではありますが、身体を弓状に反らせる流れるような造形は美仏として知られています。

本堂本尊よりも百年ほど時代がさかのぼる古仏で、海住山寺が観音霊場として名高いのは本堂本尊と合わせて奥の院のこの観音像の存在があります。

そして奥の院には、特別展 聖地南山城にも出展された『解脱上人坐像』(画像左)と、その高弟の『慈心上人坐像』(画像右)と、鎌倉時代中興の貞慶(解脱上人)と覚真(慈心上人)の二躰の江戸時代造の肖像も伝えられ、貞慶の遺徳を讃えているのです。

 

 

 

今回 南山城の名刹めぐりとして、秋季特別公開のタイミングで海住山寺を参拝させてもらいました。恭仁宮のすぐ近くということで関連していると思っていましたが、お話で聞いたご由緒では、恭仁京遷都よりも時代が遡るということ。

ただ、寺に伝わる由緒では聖武天皇は恭仁京遷都前から大仏建立の祈願していていたことになっていますが、正史である続日本紀の記述では恭仁京から紫香楽宮にしてから大仏建立の詔を発したと記録されており、海住山寺の由緒は正史と食い違っているのです。もちろん正史が必ず正しいとは限らないのですが、ただ、考古学的見地では海住山寺が奈良時代から存在したことはまだ確かめられていないのです。

昭和36(1961)年に行われた五重塔の解体修理の際に基礎地盤の考古調査も行われたそうですが、江戸時代の寛永年間に基礎から完全に造り直されていることが確かめられ、それ以前の遺構はまったく検出されなかったとのこと。あるいは江戸時代以前の海住山寺は別の場所だったのかも知れません。

その創建はまだわからないことが多い海住山寺、自分としては場所から恭仁宮と関連しているのではとやはり思ってしまいます。

「もしかしたら、聖武天皇はここに大仏を建立しようと思っていたのは」などと、ちょっと古代ロマンを馳せたりしています。

 

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック