EIKOの気まぐれ闘病日記 -98ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  原爆だけは許さんぞ ②


 じつはこの二か月ほど前、戸田はある雑誌の取材で「原子爆弾だけは許せんぞ、おれは決めているのだよ。アメリカでも、ロシアでも、どっちであってもそういうことは断じて許さん」と熱弁を振るっている(『総合』1957年9月号)。取材は七月十二日──蔵前国技館で「東京大会」が行われた日だった。池田が囚われた「大阪事件」の渦中にも、戸田は核兵器廃絶に向けて思索を巡らしていた。


 敗戦から12年。「若人の祭典」に参加した人々には皆、多かれ少なかれ戦争体験があった。長崎から参加した梅林二也(長崎総県議長)。

「私は二十二歳でした。戸田先生の話を聞いて『そのとおりだ、本当にその通りだ』と胸が熱くなって、帰りの夜行列車でも興奮してなかなか寝られなかった」と語る。


 梅林の父である二八は、三菱造船の技術者だった。1944年(昭和19年)、実家の長崎から広島に転勤になり、家族で移り住んだ。

「敗戦の年、私は10歳でした。疎開先になじめず、長崎に戻って祖母と二人暮らしをしていました」。

  原爆だけは許せんぞ ①


 起訴から一か月あまり経った9月4日。大阪地裁から出頭命令の召喚状が届いた。第一回の公判は10月18日に決まった。

 召喚状が届いた4日後──池田は横浜の三ツ沢公園にいた。全国から男女青年部が集まった。「若人の祭典」。その責任者として奔走していた。

 陸上競技場のスタンドに、戸田城聖が立った。

「諸君らに今後、遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします」──開襟シャツの袖を風に揺らしながら、振り絞るような声で語り始めた。


 青年部五万人を前に、戸田は核兵器の悪を糾弾した。

「(核兵器の)奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」と訴え、「民衆が生存する権利」に言及した。

 「その権利をおびやかすものは、これ魔物であり、サタンであり、怪物であります・・・・・(この)思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずる」


 戸田の訴えは原水爆禁止宣言」と呼ばれ、創価学会の平和運動の原点となっていく。

  「富士の如く」 ③


 池田は阪井が結婚する前、関西本部で「踏まれても 踏まれても 咲くタンポポの笑顔かな」と書いた絵葉書も贈っている。手渡す前に「あれ、少し抜けているなあ」と首を傾げた。「先生は『ああ、そうだ。”なを咲く”だね』と笑って、『なを』の二文字を書き足されました。飛行機の絵柄でした」。その時、阪井は「苦しみをずばり見抜かれたような気がした」と振り返る。「ちょうど活動になじめず悩み、信心をやめようかと思い詰めていたんです」。


 池田から受け取って数々の言葉を胸に、阪井は夫の鶴和とともに堺支部で活躍した。四半世紀が過ぎた頃、阪井は「タンポポ」の絵葉書を、手紙を添えて池田に送った。

 池田は真新しい色紙に「タンポポ」の詩句を書き直し、あらためて阪井に贈った。「なを咲く タンポポの笑顔かな」──その横には「君よ、死するまで 大御本尊様と ご一緒に」と書き加えられていた。

 出会った人を、その瞬間に智慧を尽くして励ます。その場だけでなく、何年もかけて見守り、育てる。池田の一つ一つの振る舞いが、学会の伝統となっていった。

  「富士の如く」 


 阪井貞子(堺市、区婦人部主事)は、法廷闘争の準備が進む中、池田の励ましを受けた一人である。

 「関西本部の広間で数人の女子部幹部が先生から激励を受けたことがありました」。阪井はその場に居合わせなかったが、しばらくして一枚の絵葉書を受け取った。本栖湖の澄んだ水面の向こうに、どっしりと富士山が聳えている。裏には池田の筆跡で「富士の如く 気高く 雄々しく そして 美しくあれ 八月二十日」と書かれていた。


 この日、池田は戸田城聖とともに北海道にいた。炭労による迫害を乗り越えた夕張に初の支部が結成されたのだ。その合間を縫ってペンを走らせた。

 阪井は池田が逮捕・拘留されていた二週間、堺支部の中心者だった川坂憲・久子夫妻らとともに連日、大阪拘置所に通った。

「いただいた葉書の脇には、私の旧姓にの『橋本』と『結婚し 阪井さん』と書き添えられていました。三か月前に結婚したばかりだったのです。今も絵葉書の言葉は、私の人生の理想像であり、学会の婦人部のめざずべき姿だと思っています」。


  「富士の如く」 ①


 大阪大会の10日後、池田は再び関西入りした。京都の女子部の会合(7月27日)では、命がけで法を弘(ひろ)めると誓った釈尊の弟子、富楼那(ふるな)のエピソードを紹介した。この年、池田は夕張短労事件と大阪事件に対処しながら、この富楼那の話を繰り返し語っている。

 

 7月29日、大阪地方検察庁は池田を起訴。8月2日、大阪地方裁判所から起訴状謄本などが発送された。8月10日、池田は弁護人選任届を大阪地裁に提出している。学会は戸田城聖の願業である「七五万世帯」達成へ向けて、正念場を迎えていた。目白押し大きな行事運営を担いながら、慌ただしく裁判の準備を進めなければならなかった。


 当時、蒲田支部の婦人部だった牛田澄子(東京・世田谷区、総区婦人部主事)は。香峯子や香峯子の母である白木静子と話す機会が多かった。

「学会の命運のかかった裁判を抱え、あまりに多忙な先生を支えながら、奥様は二人の男の子を育てておられました。白木静子さんが先生と奥様の体調を心配され、足繁く先生のご自宅に通われたことを覚えています」。