EIKOの気まぐれ闘病日記 -99ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  二五個の桃 ④


 剛は1954年(昭和29年)、病気と生活苦から信心を始めた。43歳だった。人望が厚く、2年ほどで班長に推されたが、どうしても嫌なものがあった。御書の研鑽である。小学校を卒業してすぐ働き始めたため、読み書きが大の苦手だったのだ。班長面接の場で、剛は思わず戸田城聖に向かって「役職を受けるのはいいが、御書の勉強は勘弁してほしい」と言ってしまった。

 戸田から「目から火が出るほど」叱られた。面接に同席していた池田は、しょげ返っている望月にそっと声をかけ、「これでいい辞書を買ってください」と本代を渡した。

「父は沼津に帰ってくると、真っ先に近所の本屋に行き、うれしそうに国語辞典を買ってきました。その辞書を引きながら御書を学んだのです。亡くなるまで大切に使っていました」(長男の望月和久。副本部長)


 望月はやがて沼津支部の初代支部長となり、弘教の先頭に立つ。沼津支部長に任命された会合で、池田は御書にある「此経難事(しきょうなんじ)」(この経は持(たも)ちがたい)という言葉を紹介した。望月は、その言葉を最も愛した。「受(う)くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」。


 望月が残した御書は、紙の四隅がすべてすり切れ、書き込みのないページが見つからないほど使い込まれていた。戸田に考えの甘さを叱責され、池田に励まされた日が、人生の転換点になった。家には常に2冊の御書を用意しておき、誰かが個人指導を受けにくると、1冊を渡し、ともに読み合わせた。

「私はその横で家事をしながら、話をよく聞いていました。御書は、お義父さんから教わりました」(望月ふみえ。支部副婦人部長)。

   二五個の桃 ③


 桃の箱を抱えた松江を沼津駅から送り出した後、木村はつ江は昼頃、長男の国夫を抱いて、再び沼津駅に向かった。

「着いた時にはもう30人から40人が集まっていました」。夫の木村進も夜勤明けで駆けつけ、人の整理を手伝った。駅員から「今日は何かあるんですか?」と聞かれたはつ江は、池田が釈放されたことを説明した。


 「沼津地区以外の人もたくさん来ていましたよ」。94歳の鈴木うた子(沼津市、婦人部副本部長)は娘の和子を連れていった。

「雨上がりで、長靴の人もいました。私は5歳でしたが、その車両めがけて走ったことを覚えています」(深沢和子。同、圏副婦人部長)。


 短い停車時間でである。池田は車窓から身を乗り出して、次々と握手し続けた。その人混みの中に、池田が「沼津のもっちゃん」と呼んでいた班長の望月剛もいた。

 池田が逮捕された直後、剛は東京で行われた会合に参加、自宅に電話をかけて「文京支部は、行ける人は全員大阪へ行く」と伝えている。妻の倫子が汽車賃と着替えを包み、沼津駅へ出かけた。剛は列車の窓越しに風呂敷を受け取り、そのまま大阪大会に向かった。

  二五個の桃 ②


 松江は当時、文京支部吉原地区の地区担当員(現在の地区婦人部長)だった。夫の和作とともに、東京の板橋で1939年(昭和14年)に入会している。和作は国鉄で特急の車掌だったが、過労のためか、39歳で早世した。

 「母(松江)は、池袋での会合に出席された牧口先生に、私の勉強のことで相談したことがあります」。入会当時10歳だった木村進(富士市、副圏長)が語る。


 初代会長の牧口常三郎は寄り道に、進の手を引いて歩きながら「何でもいいから、よく本を読みなさい。また、ものごとは納得するまでやりなさい」「成績は(気にしなくて)いいから本を読んで、自分が納得するまでやって、前に進んでいきなさい」とアドバイスしたという。


 夫なき後、松江は、東京から夫の実家がある現在の富士市に移り、紙の行商を営んで4人の子どもを育てた。敗戦後の混乱期、信心から離れたが、今度は松江の妹、関春子(大阪市天王寺区、支部副婦人部長)が学会に巡りあった。

「文京支部の石井さんというおばあちゃんに折伏されました。その後、姉の家に行ったら大聖人の御本尊があってびっくりして」。95歳の春子が朗らかに笑う。

 春子は地元の地区部長に頼んで、松江を戸田城聖のもとに連れていってもらった。

「姉はもともと情熱的なので、やりだしたら一直線でした」。松江は「山口闘争」にも10日間、参加している。

  二十五個の桃 ①


 はつ江は「今、八百屋の店先に桃が出ていますよ」と答えた。二人は木箱に25個の桃を詰め、はつ江が嫁入りの時に持ってきた唐草模様の風呂敷に丁寧に包んだ。

「木村松江さんは信心ひと筋の大先輩でした」。杉山時子(沼津市、県婦人部総合長)が語る。

「あの日は、いったん大阪寄りの浜松まで出て、東京行きの列車に乗り、車掌さんに手伝ってもらって先生の席を探したそうです」。

 

 池田はこの前日(7月18日)、日記に「大阪──在、関西本部。疲れ、重々。様々な人あり、様々なことを、漠然と考える」と綴っている。17日に大阪拘置所から出獄し、豪雨の大阪大会を終えたばかりである。戸田城聖の御書(日蓮の遺文集)講義にも久々に参加できた。

「先生の力強き講義を、久しぶりに聞く。先生の寿命を、一人、心配しながら。

・・・・・私は、先生を念(おも)った。学会本部を念った。自己を、犠牲にしながら。今回の検事の調べは、あまりにも謀策である。次第に、憤怒の情が、湧いてくる」。

 これから待ち受ける法廷闘争と、学会の未来を背負っての帰京だった。その車内に、大きな風呂敷包を抱えた木村松江が現れたのである。思いがけない贈り物に、池田と妻の香峯子は深々と頭を下げた。

無実を裁判で証明してみせる──。


1957年(昭和32年)7月、


大阪拘置所から釈放された池田大作は


恩師・戸田城聖の原水爆禁止宣言、


75万世帯の達成、「三・一六」記念式典、


さらに戸田の逝去という激動の中で、


学会の命運をかけた法廷闘争に挑んでいく。


池田の法廷は、4年半で23回。


その前後も会員の激励に奔走した


青年指導者の”気高き日々”に迫る。


 「池田先生が大阪で手錠姿のまま路上を引き回された様子は、静岡の私たちにも伝わっていました」。83歳の木村はつ江(富士市、支部副婦人部長)は、義母の松江から「明日、東京に戻られる池田先生をお迎えに行こうと思う。何を持っていこうかね」と相談されたことを鮮明に覚えている。

 

 1957年(昭和32年)7月18日。不当逮捕された池田大作が出獄した翌日である。池田の乗った列車が19日に沼津駅で停車するという連絡が入っていた。